2018年1月28日日曜日

悲劇では行為する人々の再現であるから、視覚的装飾が悲劇を構成する要素でなければならない。

   悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによって行われ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化を達成するのである。ここで快い効果をあたえる言葉とは、リズムと音曲をもった言葉のことを、それぞれの媒体を別々に用いるというのは、作品のある部分は韻律のみによって、他の部分はこれに反し歌曲によって仕上げることを意味する。
 悲劇では行為する人々が再現をおこなうのであるから、まず視覚的装飾が悲劇を構成する要素の一つでなければならない。つぎに歌曲と語法が悲劇の要素としてあげられる。なぜなら、これらを媒体として再現がおこなわれるからである。ただしここで語法というのは、言葉を韻律にあわせて組みたてることだけを意味する。
 悲劇は行為の再現であれ、行為は行為する人々によってなされるが、これらの者は性格と思想においてなんらかの性質をもっていなければならない。というのは、性格と思想によって行為もまたなんらかの性質をもつとわたしたちはいうのでありー行為には、おのずから思想と性格という二つの原因がある。ーそしてすべの人々は、このような行為に応じて、成功したり失敗したりするのである。
 詩人の仕事は、すでに起こった断る語ることではく、起こりうることを、すなわち、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方が起こる可能性のあることを、語るこどある。歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。したがって、試作は歴にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。といのは詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別なことを語るからである。

アリストテレス(悲劇の定義と悲劇の構成要素について)「詩学」

2018年1月21日日曜日

奴隷による耕作は大なる社会においては存続することはできない。

「奴隷による耕作は大なる社会においては存続することはできない。」

 かくして人が互いに集まって大なる社会を構成するとき、新たにに加わる奴隷は耕作によって生じる消費に応じきれなくなる。しかして、人は家畜を用いて人間労働を補うけれども、漸次奴隷による土地耕作は不可能となる時代が来る。これ奴隷使用は家内の用務のためにのみ限られ、結局それは消滅するに至る。なぜなら、国家の文明が進むに従い、国家は戦争による捕虜を互いに返す協約を結ぶからである。かかる協約は、各国人が奴隷に陥る危険から遠ざかることに大なる利益をもつだけ、それだけ容易に締結される。

アンヌ・ロベール・ジャック・チュルゴオ「冨に関する省察」(白)

2018年1月14日日曜日

流通する以上の紙幣の増加によって、戦時中生産が容易となり、劣った土地が容易に耕作されたので、平和回復後の滞貨と低物価を増すようになった。

   金紙の開き以上に出る通貨の価値変動が、どの程度までイングランド銀行正貨支払い制度条例および正貨支払い制度への復帰に帰せられかは、なかなか容易にはいえない。紙幣は金と平価を維持していたのであるが、通貨が前戦時下ではなはだしく下落し、平和回復に伴う諸事情のもとではなはだしく騰貴しているであろうということ、これにはすこしも疑うわけにはいかない。金と平価で流通する以上に出る紙幣の増加によって、戦時中生産が容易となり、劣った土地が容易に耕作に付されたので、それが平和回復後の滞貨と低物価を増すようになったことが、おそらく唯一の差異であったろう。
 けれじも平和回復後の土地所有者に対する重圧がどんなであったろうと、公債所有者を犠牲にして償いをもとめようとする試みに対しては、土地所有者にはいささかの弁解もなりたたない。運はめぐりあわせであるから、あらゆる党派は公明正大に振舞うべきである。どんな階級の人でも、不正な恥ずべき手段を講じて、他をおとしいれ、自己の繁栄をはかろうとするのでは、正しいとはされない。とりわけわが国の土地所有者たちは、こんな手段を考えおよんではならない。今日どんな迷惑をこうむっていようと、かれらは、疑いもなく、自分たちの苦境を救ってもらう権利があると考えている当の人たちにくらべると、はるかに大きく通貨の価値変動の利益に均霑してきたからである。
トマス・ロバート・マルサス「価値尺度論」(白)

2018年1月7日日曜日

無礼な子供に、コテで焼印をつけ、驢馬を飼うためにパンの寄与を強要して餓死させた。

 植民者はもっと大きな犯罪の罰として、監獄船に乗せられていた。友人こそ、この男を絞首台へ連れていった有り難い人であった。この小暴君ネロは、自分に無礼をしたという子供に、真赤に焼けた壁土を貼るコテをもって真実に焼印をつけたり、若驢馬を飼うために、我々の食用のパンを半分づつ出せと寄与を強要して、我々四十人をほとんど餓死させたのである。その驢馬というのは、一寸信じられない話であるが、情婦であった保姆の娘に黙認してもらって、そっと連れ込んで来て、監房と言われた寄宿舎の鉛板の屋根の上に飼っておいたのである。この慰みは一週間以上も続いたが、この馬鹿な獣類、自分の幸運を黙っていることができず、落ち着いて己を制していることができたら、カリギュラの馬よりも、幸福であったろうにー物語にあるその同類の何れかよりも、ああ更に愚かにもー飽食して得意になり、蹴散したりして、不幸にもある時、思わず下界に向かって声を挙げて、自分の幸運を呼ばずにはいられなくなった。それで一生懸命、その一つと調子の喉をしぼって、もう隠し仰せぬような角笛の一声を吹き立てたのである。一種の情状酌量が加えられ、驢馬の保護者がその折どんな咎めを受けたか、それは知らない。

チャールズ・ラム著 (クライスツ ホスピタル (三十五年前の) )「エリス随筆集」

2018年1月6日土曜日

すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。

 すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。そうであるからには、学ぶのも身を修めるのもすべて、人事のためです。それゆえ、内にあっても、外に出ても、貴は君公の位にあろうと、賤は奴婢早隷にいたろうと、ただもう人の間のことですから、ただ孝悌、忠信、礼儀、廉恥の間のことなのです。もし、道というものをこの人の外に立て、人事に害をなすならば、それは人の世、どこにいこうとも、非でありましょう。つまるところ、民衆を安んずるより大いなる道はなく、民衆を利するよりすぐれたる功はありません。そこで、上は一人から下は民衆にいたるまで、その身分に差等はあっても、天の生生の徳にならい、天物をそこなわず、人それぞれが造化を助けようと心がけるなら、天地の大徳に背かないですむのではありますまいか。人は生まれるとすでに早く各己の天地を有し、おのおのの混倫の体を立ておのおのの鬱勃の神を活かしています。人間とはそのようなものですから、人間あいての政治にあってはときに権謀術数をもって民衆を御するなりゆきにもなります。しかし制御するにしても、もしそのやり方に徳を失すれば民衆は粥のようににえたぎって、その権謀も用をなさなくなります。それぞれの心の鬱勃、それぞれの身の混倫と、同じものをもちながらそれぞれ異なったものを同居させている。これが人間です。

三浦 梅園 (人使然の世界)「自然哲学論集」

2018年1月1日月曜日

「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする。

 文化の概念をあまりに狭く局限された一群の諸客体だけに限る諸規定を取り扱わねばならない。文化なる語が多くの人々に対してむしろ不快な副次的意味を多分生じて来たからのことであって、この副次的意味から、文化科学なる用語の嫌悪されるわけが判然するであろう。私はもちろん科学とは何の関係もない文化闘争や倫理教化運動のような複合語のことを言うのではない、且つまた「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする、一部の方面からなされた言葉の濫用に、この語の使用の嫌われる所以があると考えるのでもない。私はむしろ、世間一般にあれほど人気のある「文化史」なる概念と特に結びついている思想を眼中に置いているのである。いわゆる文化史なる学問と、例えば政治史との間に立てられた対立と我々のいう文化の概念とは全く無関係にしておかれなくてはならぬからである。我々の規定によれば、一方において国家は全く国民経済や芸術と同様に一個の文化財であるが、誰も直ちに国家生活と同一視することもできぬ。が他方においてはまた、文化生活を直ちに国家生活と同一視することもできぬ。

ハインリッヒ・リッケルト「文化科学と自然科学」