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2018年2月8日木曜日

盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。

盂蘭盆会 
 中元の日各寺院では、盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。仏典を見るに、「日蓮は彼の母が餓鬼の中に生まれ返って食べることが出来ないので、釈尊は盂蘭盆会を7月15日に催さしめ、五味百果を盆中に盛り、普く十万の大徳寺を供養し、而る後に日蓮の母にも食を得さしめた。そこで日蓮が釈尊に向ひ「凡て仏弟子の中で親孝行は盂蘭盆会の供養を行わなければなりますまい」と申上げると、釈尊は「大いに善」と答えた。それで後世にこれに従うのだ」と記して居る。又「釋氏要覧」には盂蘭盆とは乃ち天竺の国語で、支那語では倒懸の苦を解き救うという意味だ。今の人人が盆を設へて供物するのは誤りである。
清敦崇「北京年中行事記」

2017年12月29日金曜日

木と木とが摩擦しあうと、火が出て燃えあがり、金属と火と溶けて流れ出す。

 木と木とが摩擦しあうと、火が出て燃えあがり、金属と火とをいっしょにしておくと溶けて流れ出す。陰の気と陽の気とがその運動を乱すと、天地が変動して、ここに雷鳴がとどろき稲妻が走る。木のなかに火が生まれて、そこで槐の大木も焚けおちる。ひどい心配ごとがあると、内外両面ともに悪くなってのがれようもなく、落ちつきなく気づかいをするばかりで安らぎも得られず、心はまるで天地のあいだで宙づりになったようである。沈鬱な混乱のなかで利害の情がせめぎあうと、体内の熱は火となっていよいよ燃えさかり、人々はそのために本来の和気を焚きつくしてしまう。陰性の月はもちろん火には勝てないものでだ。こうして、崩れ落ちるようにして体内の真実の道はつき果ててしまうことになるのだ。

第26 外物編「荘子」第四編 (雑編) 

2017年10月28日土曜日

殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。

安民章第三

賢を尚ざれば、民をして争はざらしむ。得難き貨を貴ばざれば、民をして盗まざらしむ。欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。是の以に聖人の治むるや、その心を虚しくしてその腹を実し、その骨を強くしてその志を弱からしめ、常に民をして無知無欲ならしむ。夫の知者をして敢て為さざらしむれば、即ち治まらざるなし。

易性章第八

上善は水の若し。水は善く万物を利するも争わず、衆人の悪むところに処る。故に道に幾きなり。居には地を善とし、心には淵なるを善とし、与ふるには仁なるを善とし、言には信あるを善とし、政には収まるを善とし、事には能あるを善とし、動くには時は能あるを善とし、動くには時を善とす。夫れ唯争わず、故に尤なきなり。


檢欲章誤植第十二
五色は人の目を盲ならしめ、五音は人の耳を聾ならしめ、五味は人の口を爽よしめ、馳騁田猟は人心をして発狂はしめ、得難き貨は人の行を妨げしむ。是の以に聖人は腹のためにして目のためにせず、故に彼を去りて此を取る。

偃武章三十一
夫れた佳兵は不詳の器にして物或は之を悪む、故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴ぶも兵を用いるときは則ち右を貴ぶ。兵は不詳の器にして君子の器にあらず、已むを得ずして之を用いるときは、恬惔を上しとなして勝つも美しとはせず。而之を美しとすれば是れ人を殺すことを楽しむなり、夫れ人を殺すことを楽しむものは則ち志を天下に得べからず。故に吉事には左を上び凶事には右を上ぶ。是の以に偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。
老子


2017年8月31日木曜日

他の人々にはまだ暗黒だけの一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。

 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏(トワイライト)の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは1912年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀がクリスチャン将軍(馮玉祥)とその同盟者によって紫禁城を追われる1924年11月までの13年に該当する。
 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけでなく暁の光の意味もふくまれている。この物語のなかで述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることとなろう。
 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々の熱烈な希望であり、固く信じるところなのである。
 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒だけしか認めていない点のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の微光であって、暁の曙光ではない。
レジナルド・フレミング・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

2017年8月25日金曜日

文学は政治の奴隷になると、政治の宣伝機関になり、政治を批判することはできない。

 文学は独立するようになったのでありますが、その後また道徳、政治とからみあって、ずっと変遷して来ております。もし文学というものが、何かとからみあわなくてはならない、極端に言えば、何かの奴隷にならなければならぬものならば、これは政治の奴隷になるよりも、道徳の奴隷になった方がよいと思います。なぜかと申しますと、政治の奴隷になりますと、文学は政治の奴隷になりますと、文学は政治の宣伝機関になるだけであって、政治を批判することはできません。しかし、道徳の奴隷になりますと、道徳の立場から政治を批判することができます。政治の善い悪いに拘らず、文学がただ政治の宣伝機関になってしますますと、世の中よりも一層の進歩ということは、望まれません。ところが、文学が道徳に隷属しますと、ほかの立場から、即ち道徳の立場から、政治を批判することができますから、こうなれば、社会の進歩に貢献する所が多くなりましょう。
欺波 六郎「中国文学における孤独感」

2017年6月22日木曜日

市民である士は武器で国家防衛に参加と義務を有し、戦国時代から国都での軍士の集団を意味した。

 市民というのは、中語でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する装丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むに至ったものである。司馬遷の『史記』は実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げたのである。このことは彼が、社会なるものは単に君臣関係からばかりで成り立つものではなく、時にはそこからはみ出した市民の生活によって支えられている事実を認識したものに外ならない。列伝に散見する個人の興味ある逸話等は、彼自身が採訪した独特の史料によるもので『史記』は言わば足で書いた歴史ともいえるであろう。そこに『史記』の歴史としての価値が存在する。
 しかし司馬遷は歴史を、君主と官僚との君臣関係、及びそれを支える市民という個人に還元することで能事了れりとはしなかった。君主も官僚も市民も、その時々の社会制約の中で生活する。そこには制度があり経済があり道徳があり文化がある。司馬遷はこれらの社会的規範を「礼書」、「楽書」などの八書にまとめた。もちろんその内容は今日から見て甚だ不十分であるが、その意図は十分に汲みとられるち思う。中国の市民生活は漢代を頂点として以後は下り坂にむかう。そしてその後、六朝時代に現れたのは「士族」と称する特権貴族階級である。中国の歴史もそれにつれて、貴族の盛衰を中心に記述されるようになった。
宮崎 市定「中国文明論」

2017年5月6日土曜日

武器は敷物に野営し戦死を気にかけず注意を集め誉めて受け継ぐ

 子路が強さについておたずねした。先生はいわれた、「南方の強さのことかね、北方の強さのことかね。それともお前の得意とする強さのことかね。心やたかな柔らかさで人びとを教え導き、でたらめな相手にもこちらの節度を守ってしかえしをしたりはしないというのが、南方の強さである。君子の行動はそれによっている。
 武器や甲・冑を敷物にして野営をかさね、戦死することも気にかけないというのが、北方の強さである。お前の考える強者はそれによっているのだ。
 そこで君子は、もの柔らかく人びとと和合しながら、しかも節度を曲げて人に流されるようなことはない、しっかりとして強いことだ。中正の立場に直立して少しも偏らない、しっかりとして強いことだ。国じゅうに道徳が行われてその身が栄達したときも油断なく平生の節度を変えることはない、しっかりとして強いことだ。国じゅうに道徳が行われないで困窮したときも死ぬまでその心がまえを改めない、しっかりとして強いことだ。」
 先生はいわれた、「わかりにくいはっきりしないことをむりにさぐり出したり、風変りな奇怪なことを行ったりすると、人の注意を集めて、後の世にそれを誉めて受け継ぐものも出るだろう。だが、わたしはそういうことはいない。君子は道を規準として行動するものだ。たとえ力及ばず途中で挫折することがあるにしても、わたしには道を守るのをやめることはできない。君子は中庸に依りそってゆくのである。世間に背を向けて隠遁し、だれにも知られずに終わっても悔いることがないというのは、これはただ特別の聖者だけにできることだ。それもわたしの望むことではない。」

「中庸」第2章第4節(朱子) 曾参・子思『大学・中庸』


2017年3月1日水曜日

顔を見せず、よく妖をもって大衆を惑わし、歴年に互いに攻伐する

 倭は韓の東南大海の中にあり、山島によって居をなしている。およそ百余国ある。武帝が韓を滅ぼしてから、使節の漢に通じるものは三十ばかりの国である。
 国は、みな王を称し、世々、統を伝える。その大倭王は邪馬台国におる。楽浪郡の境は、この国を去ること一万二千里、その西北の拘邪韓国を去ること七千余里。その地は、おおむね会稽の福建の東にあり、朱崖・たん耳とたがいに近い。故にその法俗は多く同じである。
 人が死ぬと、喪に復するのを停めて仕事に従うこと十余日、家人は泣き叫び、酒食を進めない。そして親類・友人・縁者たちは、喪にことよせて歌舞し楽をなす。骨を灼いてトし、それで吉凶を決める。行来・渡海には、一人をして髪をくしけずったり沐浴したりせず、肉を食べず、婦人を近づけないようにし、名づけて持衰という。もし旅行中の道中が吉利ならば、そのときは財物を雇するが、もし疾病や害に遭えば、持衰を謹しまなかったとして共にこれを殺す。
 桓・霊の間、倭国が大いに乱れ、かわるがわる互いに攻伐し、歴年、主がいなかった。一女子がおり、名を卑弥呼といった。年が長じても嫁にゆかず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって大衆を惑わした。そこで共に立てて王とした。侍婢は千人。顔を見るような者も少ない。ただ、男一人がおり、飲食を給し、辞語を伝え、居処・宮室・楼閣・城柵など、みな兵器をもって守護し、法俗は厳峻である。
「後漢書倭伝」
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝、隋書倭国伝』

2017年1月24日火曜日

帝国主義の戦争と投降が人民大衆を圧迫する

 帝国主義が、主要な矛盾と主要でない矛盾との関係が複雑な状況を示している半植民地国に対して侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の各階級は、一部の売国分子をのぞいて、すべて一時的に団結して民族戦争をおこない、帝国主義に反対することができる。そのときには、帝国主義とその国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、その国の内部の各階級のあいだのすべての矛盾、封建制度と人民大衆との矛盾という主要な矛盾を含めて、いずれも一時的に、第二義的で従属的な地位にさがる。中国の1894年の中日戦争、日清戦争、朝鮮に対する干渉をきっかけとしておこった。敗北した清朝政府は日本と馬関条約を結んだ。1900年の義和団戦争、および当面の中日戦争、1937年7月7日のいわゆる盧溝橋事件にはじまり、8年間続いた。いずれもこのような状況がみられる。
 しかし、別の状況のもとでは、諸矛盾の地位に変化が生まれる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなく、政治、経済、文化などの比較的温和な形式によって圧迫するばあいには、半植民地国の支配階級は帝国主義に投降し、両者が同盟を結び、共同して人民大衆を圧迫する。こうした場合には、人民大衆は、しばしば国内戦争の形式をとって、帝国主義と封建階級の同盟とたたかい、そして帝国主義は、しばしば間接的な方式をもって半植民地の反動派が人民を抑圧するのを援助し、直接的な行動をとらない。このような場合には、内部矛盾の特別な鋭さがあらわれてくる。中国の辛亥革命戦争、1924年から1927年までの革命戦争、1927年以後の十年間の土地革命戦争には、いずれもこのような状況がみられる。さらに、半植民地国における各反動集団の間の内戦、たとえば、中国の軍閥戦争も、この部類に属する。

毛沢東「実践論・矛盾論」

2017年1月15日日曜日

暴君は暴逆で統率し民衆も暴逆を行う

 わが身をよく修める根本がでたらめで、末端の国や天下がよく治まっているのは、めったにない。力を入れることを手薄にしながら、手薄でもよいところがりっぱにできているという例は、まずないものだ。つまらない凡人は、一人で人目につかぬ所にいると、悪事をはたらいてどんなことでもやってのける。自分の悪事を隠して善いところを見せようとする。
 暴君は、自分で暴逆を行って天下を統率したから、民衆もそれに従って暴逆を行った。君主の命令が君主のほんとうの好みとはうらはらだというときは、そんな命令に民衆はしたがわない。一方的に相手を責めるだけでいて、他人をうまく納得させたという人は、あったためしがない。
 根本のことをなおざりにして末端に力を入れたりすると、民衆を利のために争わせて、奪い合いを教えることになる。財物に努めてお上の倉に集めると、民衆の方は貧困になって君主を離れて散り散りになる。道にそむいて手に入れた財貨は、道にそむいて出てゆくものだ。
 実利と名声を求め、小手先の技術を説くなど、世を惑わし民くさをたぶらかして仁義の教えをふさぎ止め、雑然といり乱れることになった。小人としての庶民は不幸なことに最高の統治の恩恵を受けることができないようになった。世の中は真っ暗になってふさがり、上下はひっくりかえって死病にとりつかれ、五代の衰世ともなると、世の乱はついに頂点に達した。

曾子・子思「大学・中庸」


2016年11月19日土曜日

操で死ぬ道理はない

 だいたい、操を立てて死ぬというほどまちがった考えははない。君も民も一人である。いや普通の民にくらべてまだ未のものなのだ。民と民の間柄でも相手のために死ぬ道理などない。それではむかし操を立てて死んだのはみな当たらぬことだったのか。きっぱり言ってしまえばね事のために死ぬ道理こそあれ、君のために死ぬ道理などないのである。君のために死んだのは、情に溺れた宦官、宮女であり、「律儀ものの愚物だった」。宦官、宮女たるに甘んじた人間や、まさにまとことの愚物の人物については、何もいうことはない。しかし、みんなで推挙したというからには、われわれが推挙したこの者のために自分で死ぬのだ。君のために死ぬのではない、ということはいえる。とはいえ後世の君はいずれも、強大な兵馬で強引に侵略して奪いとったものなので、あたりまえにみんなで推挙したものでないという点は、どう考えるのだ。ましてや彼らは満・漢という種族の意志で天下を奴隷にしている。天下を奴隷にしている彼らとしては、民が操を立てて死ぬのがひどくうれしいのは当然である。
 一王朝の興亡はなどは目にも当たらぬ小さなことで、民にとってなんの関係もない。であるのに操を立てて死ぬものが万で教えるほど、いやそれ以上もあったとは、これほど本末転倒があろうか。白夷、淑斉は死んだのだが(この兄弟は、周の武王が暴君の殷の紂王を滅ぼして天子となったのを不義として、周のものは食わぬと餓死した)、紂王のために死んだのではない。本人のことばに、「暴で暴にとり代えるだけのことなのだ」(暴君を暴力で排除して君となる。『史記』「伯夷列伝」)と言っているところからすると、君主の凶害を閉じてしまったのだ。それにまた、誰か前の君のために死ぬものがあると、後の君はひどくいやがるが、しかも事態がなんとかおさまると(国を奪い安定すると)、たちまち神に祭り、供物をし、祈りをさまたげる。これはやはり、今後も人がわがために死んでほとしいからである。「むかしある男が、(かつて挑んだら、ののしられたことがあった女なら)自分のためにも(いよいよ他の男を)ののしってくれるだろうと妻にえらんだ」(『戦国策』「秦策上})という。志を守って山林に身をひいた土地はいわば未婚のむすめである。これを出仕しろとおどしつけ、出仕しなければ殺した。つまり、不貞だったのだとののしり、操をけがしたしあばきたて、『弐臣伝』「ふたまた者伝」)までつくって辱しめた。これは、当人たちを辱しめるだけでなく、実は反逆させまいと天下後世を威嚇する意味があったのだ。



譚 嗣同「仁学」

2016年9月15日木曜日

紫禁城から日本公使館に脱走皇帝

 紫禁城の内務府はありふれた、型どおりの皇帝(溥儀: 清国の最後)の従順な僕であるだけでは十分ではない。もし自分達がいなかったら、皇帝は道徳的にも、肉体的にも、精神的にも、いっそう貧しくなってしまうであろうと思うところまで奉仕に徹する必要があったのである。実際はこれとはまったく逆で、革命前はもちろんその後も、彼らは一貫して内務府とは自分達の危篤の利益を計るための機関であり、自分自身の存在を継続させる口実を見つけ出すことにあった。
 皇帝は、優待条件に関する清室側の立案者の真の目的が、皇帝や一族を保護することにはなく、世間へ出て自分の力で生計をたてることに恐怖を感じ、王室は滅亡しようとも自分たちは無傷でいたい大勢の宮廷官史と宦官たち、そしてあらゆる種類の寄生虫たちの生活を維持するためであった、という意見をもっています。
  紫禁城の財宝は1933(昭和8)年の満州事変で、日本と満州国の軍隊の北京にたいする軍事的脅威によって、中国中部のいくつかの場所に急遽疎開しなければならなくなった際に、一般の注意をひくこことなった。
 北京での差し迫った内乱についての奇怪な噂はありがたいことに外国公使館にも何の情報も入っていないようだ。1934(昭和9)年11月29日最初に日本公使館に入った。外国公司のうちでも日本は、紫禁城から脱走する皇帝を受け入れるだけでなく、十分な保護を叶えてくれるであろう唯一の公使であったからだ。その他の外国公使館は、中国の内政に干渉すると解釈し、ひどく冷淡な態度をとる。
 特別列車が爆破された張作霖の死は、従来の満州における法と秩序の崩壊のきっかけとなる。1931(昭和6)年9月18日から有名な満州事変が起こったのである。1934(昭和9)年3月1日に皇帝は日本か強権をもって作り上げた傀儡国家「満州国皇帝」となった。

 レジナルド・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

2016年8月17日水曜日

孫子ー能自而全勝也ー専守防衛勝利

 「孫子」 第四 形篇 一

  孫子はいう。昔の戦いに巧みな人は、[まず味方を固めて]だれにもうち勝つことのできない大勢を整えたうえで、敵が[弱点をあらわして]だれでもがうち勝てるような態勢になるのを待った。だれにもうち勝つことのできない態勢を[作るの]は見方のことであるが、だれもが勝てる態勢は敵側のことである。だから、戦いに巧みな人でも、、[見方を固めて]だれにもうち勝つことのできないようにすることはできても、敵が[弱点をあらわして]必ずだれでもが勝てるような態勢にさせることはできない。そこで、「勝利を知らていても、それを必ずなしとげるわけにはいかない。」といわれるのである。だれにもち勝てない態勢とは守備にかかわることである。だれもが打ち勝てる態勢とは攻撃にかかわることである。守備をするのは[戦力が]足りないからで、攻撃をするのは十分の余裕があるからである。守備の上手な人は大地の底にひそみ隠れ、攻撃の上手な人は天界の上の上で行動する。[その態勢をあらわさない。]だから見方を安全にして、しかも完全な勝利をとげることができるのである。

2016年6月27日月曜日

他人に使われる手下

   辛亥革命(1911年)の後は、意気込みさらにものすごく、天下に難事なし、最善最美の世界も誰もが提唱し出しさえすれば立ちどころに実現できるものと私は考えた。種族の革命など、何でもないことである。もし無政府・無家庭・無財産の世界に到達できれば、その時こそ我々の革命の任務は終わるのだ。私はこういう最高の理想に酔うていたので、そのころ社会党をおこす人があるとすぐに参加した。そのから一年半の間、私はもっとも熱心な党員であった。しばしば党務を処理するために、夜遅くまで寝ずにいたこともあった。
   多くの親戚や先輩が、「これらの人たちはごろつきである。お前はどうしてわざわざ彼らのの仲間になるのだ。お前のなすべきことではないのに。」と忠告してくれた。このような功利的な見解は、ずっと前から私の承服できないものであった。ごろつきと紳士とは悪制度が区別した二つの階級にほかならないと思い込み、紳士たちがいろいろと革新運動のじゃまをするのが実にいとわしく、この階級を根こそぎするのではなければ気持ちがすっきりしないと思っていた。
  しかし入党して相当の時間がたつと、それらの党の同志たちが、次第にぶざなものに見えてきた。彼らには主義がない。会を開いて演説をやる時にはもちろん悲壮を極める。しかし会が終わるとその情熱はうやむやの世界へ消えてしまう。彼らの言う話は、いつもでたっても二、三のおきまりの文句で、口で言う主義を実際に研究しようとは誰も考えない。ひまな時は、永いテーブルを囲んで世間話や冗談を言っているばかりで、女遊びをする。私は極めて情熱的な人間であり、同時に世間馴れない者であったから、彼らに向かってしばしば説教もし、注文もした。しかし一向に誰も聞き入れてくれない。私はこの仕事に関して極めて徹底した目標を持っていたけれども、私の学識が非常に浅薄で、主義を発揚することなどは全く思いもよらないことを、自分でよく知っていた。しかるに党の内部では、私の博学な文豪扱いにしてしまって、発表する文章がある時にはいつも私を引張出して筆をとらせるのである。
 このすべてが思いのままにならない境遇にいるうちに、一つのことが私にははっきりとわかった。この人たちは他人に使われて手下になることがやっとのことで、主義を抱いてそれをおのれの生命の如くにみなし、事業の順序を計画して進行させたりすることはできないのである。前にはまったく彼らを買いかぶりすぎた。私は、自分が他人の手下になることを欲しないからには、他人を自分の手下にすることもあり得ないことをよく知っていた。それならば、いつでも党にいてごだごたと日を過ごしてみても何の益もない。私は脱党した。
 しかしこの一年半の時間をでたらめに失った代わりに結局において世間と自分の才分とに対する認識を持つことになったのはありがたいことである。これから後、いかなる党や会にも二度と軽々しく加入することをしなかった。しかしこれは政治と社会の改革への希望を棄てたのでは決してない。私自身はこの方面に発揮すべき能力を持たない人間であることを知ったのである。私がこの方面の才能を持たなくとも恥じずべきこととは思わない。何となれば、私には、本来、自分にできる仕事がある。そして、元来、ひとりの人間がいろいろの事柄をみなわきまえなければならないものではないから。

顧 頡剛 「古史辨自序 ある歴史家の生い立ち」