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2017年11月24日金曜日

キリスト教徒たちは、インディオには猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、最大の敵であった。

 私は頭株の人たちや領主が四、五人そして火あぶりにされているのを目撃した。彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官を悩ませた。そのためには、安眠を妨害されていたためか、いずれにせよ、司令官は絞首刑にするよう命じた。ところが、彼らを火あぶりににしていた死刑執行人よりはるかに邪悪な警吏の望みとおり、じわじわと焼き殺した。
 私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道でも血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に篭ったり、山の奥深く逃げ込んだり、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
 インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害することは稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしと掟を定めた。
ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

2017年11月18日土曜日

砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏して、王自らが提督の頭や首にかけ数々の品を贈った。

 静穏なる君主よ、私は、彼らの言語を知る敬虔な宗教人が共に居れば、彼らは皆、今すぐにもキリスト教徒になるものと考えます。したがって両陛下が、このように偉大な民を教会に帰依させ、改宗させるために、機敏なる措置をとられ、かつて、父と子と聖霊にざんげしようとしなかった者共を滅亡させられたように、しかるべき決定をされますように、神に願うものであります。我らの命には限りがありますが、こうすることによって、両陛下も、生涯を終えられるときは、その王国を邪教や悪の汚れのないきわめて静穏な状態に置かれることになりましょうし、また永遠の創造主の前に喜んで迎え入れられることになりましょう。私は、創造主が、両陛下に末長き生命を与えられ、さらに広大な国や領土を与えられよう祈りますと共に、両陛下が聖なるキリストの教を今日まで弘めてこれましたように、今後もさらにこれを拡大させられるよう、そのための意志と資質を、創造主が両陛下にお与えになることを祈るものであります。アーメン。本日船を浜から下ろしまして、木曜日には神の御名において出帆し、黄金と香料を探し求め、かつ陸地を発見するために、西東に向かうつもりです。
 提督は手真似で、カスティリャの両国宝が、カリベ族を滅ぼして彼らの両手をくくり、皆連れてくるように命ずるだろうと語った。そしてロンバルダ砲とエスピンガルダ銃を打たしたが、その弾丸が非常な力で貫いて行くのを見て、彼は感心してしまった。彼らは、砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏してしまったのである。彼らは提督の所へ、耳や目や、いろんなところに大きな黄金片がはめこんでいる大きな面や、金製の飾物を持ってきて、王自らが、それらを提督の頭や首にかけて、また提督と同行して居たキリスト教徒達にも数々の品を贈った。提督はこのように贈物を見て喜び、かつ心慰められて、本船を失ったその苦しみも、悲しみも薄らいだ。そして本船が坐礁したのも、この地に根拠地を設定するようにとの神の思し召しによるものと解した。
クリストーバル・コロン「コロンブス航海日誌」

2017年11月14日火曜日

混乱した判断を下し、原因から認識する習慣が無い人々には、本体の性質には存在が属するの理解が困難であろう。

 物について混乱した判断を下し、また物をその第一の原因から認識する習慣が無い人々には、疑も無く、定理7 (本体の性質には存在が属する ) を理解することが困難であろう。なんとなれば、彼らは本体の様態と本体自身との間に何らの区別も立てず、また物が如何にして生じるかを知らないからである。その結果彼らは自然物に始が有ると思うゆえに、本体にも始が有ると考えている。何となれば、物の真の原因を知らない人は、すべての物を混同して、平気で、樹木が人間のようにものを言い、また人間が種子から生じ或は石から造られ、また一般にすべての形相が他の任意の形相に変じ得ると想像するからである。同様に、神性を人間性と混同する者もまた、如何なる仕方で感情が精神の中に生ずるかをまだ知らない間は特に、無造作に人間感情を神に帰する。

 これに反して、もし、人が本体の性質に注意を払ったならば、定理7の真理はもう疑われないであろう。実に、この定理は彼らに公理として認められ、一般概念の中に数えられるであろう。なんとなれば、彼らはかくてか本体を、自身の中に在りかつ自身によって考えられるもの、すなわち、その認識が他の物の認識を要しないものと解し、様態をば、他のものの中にあり、かつその概念がそれを包含する物の概念を予定するものと解するからである。そのために、われわれは存在しない様態についても、真の観念を有することができる、その故は、それらの様態は悟性の外に現実に存在しないけれども、その本質が他のものの中に含まれ、かくてこれによって考えられることができるからである。

バールーフ・デ・スピノザ「哲学体系 (原名 倫理学)」

2017年9月6日水曜日

悲劇は魂を高調に導き、高揚せしめんと期待するものである。

 問題の解決は、悲劇が文学の最高部門として認められているために、特に困難であるように思われる。悲劇は魂を高調に導き、また我々を高揚せしめんとするものである。ゆえに人は悲劇において、至高・至貴・至福なる姿を、またー言い得えればー最も神に適き姿を見ることを期待するかも知れぬ。しかるに悲劇が事実我々に示すところのものは、これと甚しく異なっている、ー即ちそれは専ら苦悩であり没落ーしかももますます極めて優れた人々の没落であり、また劇場、犯罪或いは狂気等である。
 しかも悲劇は、更にこの他に一見不可解な矛盾を含んでいる。喜劇においては個々の要素がいかに不合理であるにせよ、なおその全体は少なく共に一種の満足な表情を与えるけれども、悲劇にはかくの如きもの存せず、会々存するとしても極めて稀有な場合に限られている。実際、事件はおおむね極りなき葛藤の解決を告げ、顧客は悲しみに覆われた心を懐いて劇場を辞するのを常とする。
フランツ・ブレンターノ (悪)「天才・悪」

2017年6月7日水曜日

神も天も諸物体も虚偽であるも「我思惟す故に我あり(ego cogito, ergo sum) 」は最初の最も確実な自由である。

 我々は、以前に最も確実と考えていた他のことについても疑うであろう、即ち、数学的証明についても、また今まで自明と信じていた諸原理についても。なぜならば、かつて幾人かの人が、かようなことにおいて誤りを犯し、我々には誤りと思われたことを、最も確実で自明的だと認めていたようなことを、我々は知っているし、またとりわけ、一切を為すことができ、かつ 我々をも創造した神が、存在することを聞いているからである。というのは、我々が自分に最も明白に見えることにおいてさえ、いつでも思い違いをするような工合に、神が我々を創造しようと欲しなかったかどうかは、我々にはわからないであろう。なぜならそうしたことが起こり得たことは、我々が前に気付いていることだが、我々が時に思い違いをすることがあるのに劣らず、あり得ることだからである。そして我々が全能の神によってではなく、我々自らによってか、或いは何であれ他のものによって存在するのだと創造するならば、そうした我々の創造者の力を小さく見積もれば見積るほど、我々がいつも思い違いをするほど不完全だということも、いっそう信じ得ることであろう。
 我々が何らかの仕方で疑い得る一切のことを斥け、かつ虚偽であると考えることによって、我々はなるほど神も天も諸物体も存在せず、また我々自ら手も足も、そしてついには身体をも有しないと創造することは容易であろう。しかしその故に、かようなことを思惟する我々が、無であるとは創造することはできない。というのは思惟するものが、思惟しているその時に存在しないことは不合理だからである。それ故に、「我思惟する故に我あり」(ego cogito, ergo sum)というこの認識は、一切の認識のうち、誰でも順序正しく哲学する人が出会う最初の最も確実なものなのである。

 ルネ・デカルト「哲学原理」

2017年4月15日土曜日

或る戦争が悪いとは普遍的概念や一般的概念と一致する意味である。

  善及び悪が理性の有に属するかそれとも実的有に属するかということである。しかし、善及び悪は単に関係を表すものにほかならぬから、それが理性の有の中に入れられるべきことは疑いがない。或るものが善いと言われるのは、それほど善くない或る他のもの、或はそれほど我々に有用でない或る他のものに関係してのみ言われるからである。例えば、或る人間が悪いと言われるのは、より善い人間と比較してのみ言われるのであり、或るリンゴが悪いと言われるのも、善い或はより善い他のリンゴと比較してのみ言われるのである。
 すべてこうしたことは、比較してそう呼ばれる他のより善きものが存在しなかったとしたら言われ得なかったであろう。
 従って或る物が善いと言われるのは、それがそうした物について我々の有する普遍的観念や一般的概念と一致すると言う意味にほかならない。
 しかし、我々が前に述べたように、物はその個別性と一致すべきである。個別的観念の対象のみが真の実在性を有するのであるから。そして決して普遍的観念と一致すべきではない。普遍的観念と一致すればそれは全然存在しないものになるであろうから。
 自然の中に存在するすべてのものは事物か作用かである。しかるに善及び悪は事物でも作用でもない。故に善及び悪は自然の中に存在しない。もし善及び悪が事物か作用かだとしたら、それは自らの定義を持たねばならなぬ。しかし、善及び悪は本質を離れて何らの定義されえないからである。
バールーフ・デ・スピノザ「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」


2017年3月4日土曜日

自らの愚行の報いを生命を以てつぐなった戦争の例ははなはだ多い

 世間の人々の追求しているすべてのものは、単に我々の生存の維持にたいして何らの対薬をもたないばかりか、かえってその害になっている。すなわちそれらのものは、これを所有している人々にとってはしばしば滅亡の原因となり、逆にそれに所有されている(とりつかれている)人々にとっては常に滅亡の原因となっているのである。
 実際、その富の故に、死ぬほどの迫害を受けた人々の例や、財を手に入れるために、数々の危険に身をさらして、ついに自らの愚行の報いを生命を以てつぐなった人々の例ははなはだ多い。また名誉を獲得あるいは維持するために、悲惨な苦しみをこうむった人々の例もこれに劣らない。最後に、過度の快楽のために自らの死を早めた人々の例は数限りがない。
 ところでこうしたわざさわいは、私には、次の事実から、すなわち、すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質にのみ依存するという事実から生じるように思われた。全くのところ、愛さないもののためには決して争いも起こらないであろう。それが滅びたからとて悲しみもわくまいし、他人に所有されたからといって嫉妬も起こるまいし、何らの恐れ、何らの憎しみ、一言でいえば何らかの心の動揺も生じないであろう。実にこれらすべてのことは、我々がこれまで語ってきた一切のもののような、滅ぶべき事物を愛するときに起こるのである。
 しかるに永遠無限なるものに対する愛は、純な喜びをもって精神をはぐくむ、そしてそれはあらゆる悲しみから離絶している。これこそ極めて望ましいものであり、且つすべての力をあげて求むべきものである。しかし私が、ただ真剣に思量し得る限りという言葉を用いたのは理由のないことではなかった。なぜなら、以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかしだからといって所有欲・官能欲および名誉欲から全く抜け切るというわけにはゆかなかったからである。

バールーフ・デ・スピノザ「知性改善論」

2017年1月29日日曜日

全く盲目的な好奇心に捉えられている戦争

 事物の真理を探究するには方法が必要である。

 人間とは全く盲目的な好奇心に捉えられているので、しばしば、何の見込みももだず、ただみずから求めるものが見つかるかどうか試して見たいばかりに、知らぬ途によってその精神を導くものである。あたかも、宝を見出そうという愚かな欲望に燃える者が、絶えず街路をうろつき、何か旅人の落とした物でもひょっと見つかるかと探しまわる、と同じである。すべてそういう努力をしている。そして実際、迷い歩くうちに時として幸いにも何らかの真理を発見することのあるのを、私は否定せぬ。けれども、だからといって、かれらが、他人よりも有能だというわけにはゆかぬ。より運がよいといえるだけである。ともかくも、事物の真理を探ねるのに、方法なしでやるくらいなら、それを全く企てない方が遥かにましなのである。というのは、そういう無秩序な研究や不明瞭な省察によって自然的な光明が曇らされ精神が盲にされるにきまっているからである。そして誰でもかようように暗闇の中を歩きなれると、視力を弱らせてしまい、後には明らかな光にに耐えられなくなくなる。このことを経験もまた確証する。なぜなら、少しも学問をしたのことのない者が、ずっと学校にいた人よりも、遥かにしっかりとした判断を、目前の事物について下すこと、きわめて多いからである。ところで私が方法というのは、確実な容易な規則、それを正確に守る人は誰でも、虚偽を真理として認容することは決してなく、精神の努力を無益に費やさず常に次第に知識を増しつつ、その達しうる限りの事物の、真の認識に到達するであろうな、規則である。

ルネ・デカルト「精神指導の規則」

2016年12月10日土曜日

大衆は戦争の英雄を拍手喝采する

 だれもが欲しがる宝石がはるか沖合のたいへん薄っぺらな氷の上にあり、生命の危険という番人が「もうすこし騎士の近くなら氷は底まで凍っていてまったく安全なのだが、こんな沖合までやってくるのは命がけの冒険だぞ」と監視の目を光らせながら宝石の見張りをしているとしてみよう。
 その場合、これが情熱的な時代であれば、そんな沖合まであえて出かけて行く勇気は大衆の喝采を博することだろう。大衆はその勇者の身になって、またその勇者を哀惜することだろう。ところが情熱のない反省的な時代にあっては、事情はまったく違ってこよう。「あんな沖の方まで危険を冒して出ていくなんて、骨折り損というものさ。だいいち、愚かで滑稽だよ」とみんなが異口同音に言い、分別顔をしてお互いの賢明さをお互いに称賛し合うことだろう。こうして人々は感激ゆえの冒険を芸の展示に変えてしまうだろうー「所詮、なにかしないわけにはゆかないのだから」とにかくなにかをしようというわけで。そこで人々はその場へ出かけて行くだろう、安全な場所で、玄人ぶった顔つきをして、熟練したスケーターたちの大多数がぎりぎりのところまで滑走して行って、それからターンして引き返す巧みな演技を鑑賞することだろう。スケーターたちのなかには、名人といわれるような者も一人や二人は居合わすことだろう。そういう名人ならばもういよいよぎりぎりというところまで行って、観衆の目を眩ますような危機一髪の滑走の離れ業をやってのけ、観衆をして思わず、「たいへんだ、気でも狂ったのか、死んでしまうぞ」と呼ばせることだってできるだろう。
 しかしなんと、彼は実に抜群の名手なので、いよいよぎりぎりという線で、つまり氷がまだいたって安全で生命の危険がまだ始まらないところで、あざやかにターンすることができるというわけだ。まるで芝居でも見ているのと同じように、大衆はブラボーを叫び、拍手喝采し、この偉大な演技の英雄を中央にかこみ、ぞろぞろと行列をつくって家に帰ることだろう。

セーレン・キルケゴール「現代の批判」

2016年9月29日木曜日

欲望は悪を好み善を目の敵

 スペイン人は、王が部下を小刀と綱以外戦闘用の武器も身を守る道具を携えず、全員率いてカルマルカの町に近づいて来たことを知り、町から一レグワ半離れたコノクまで出向き、彼らを迎えた。インディオが集合していた広場に通じる出入り口を四カ所占領し、その結果広場は完全に封鎖されてしまった。

 インディオは、ひとり残らず、まるで羊のように閉じ込められた。インディオは大勢いたので、身動きがとれず、また、武器も携帯していなかった。スペイン人は凄まじい勢いで広場の中央を目指して襲いかかった。彼らは、インディオたちが喚声を上げていたので、馬、県、火縄銃をくしして、さながら羊を屠殺するかのように、インディオを殺し。スペイン人に刃向かったインディオはひとりもいなかった。その場に居合わせた一万人のインディオのうち、惨殺を免れたのは二百人にも満たなかった。殺戮を終えると、スペイン人はインディア王のアタグゥルパを牢に連行し、その夜一晩中、首に鎖をかけ、裸のまま監禁した。

 しばらくすると、スペイン人が暮らせていけるよう、部下ひとりひとりに例外なく貢ぎ物を差し出させた。その一方で、先祖代々受け継いだ莫大な量の財宝をスペイン人に差し出した。スペイン人たちは受け取ってすかり満足した。

 ところが、人間の欲望は測り知れないほど深く、数年経過すると、スペイン人もすっかりその虜になってしまった。スペイン人はあらゆる悪を好み善を目の敵にする悪魔に魅入られ、どのように責め立てれば、すでに手に入れた金銀をインディオからせしめることができるかを密かに謀議を図るようになった。

テイトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱ー被征服者の声」


 

2016年9月11日日曜日

コペルニクスは天体の回転

 この天体の回転の書の中で、地球に運動を与えている意見を抱いている私は直ちに罰せられると言って騒ぎ出すであろうことを私はよく存じています。けれども私の意見は他人の判断を考慮していない点で満足していません。

 哲学者の仕事は神が人間の理性に許し給うた範囲にてあらゆる事物について探求するから、その思想は愚人の判断に従うべきでないですが、正義と真理に全く反する意見は避けるべきです。

 私が地球が動くことを肯定したならば、地球は不動で空の真中に中心であるという意見が何世紀もの間の判断している人々が、どんな不合理であると評価しようとするかで、私はその運動の証明のために著述を公にすべきであるか、あるいは反対に哲学の神秘は友人や身近な人だけしか、それも書物によってではなく、口だけでしか知らせない方がよいと長い間考えました。彼らはある人々が考えるように意見を伝えることを惜しんでそうしたのでは決していないと私は思います。

 そうではなくて非常に偉い人々によって熱心に研究された非常に美しい事柄が何か得にならないと学問に真面目な働きを捧げようとしない人々や、他の日と日度の例と勧めによって哲学の自由な研究に勧奨されても精神の愚鈍のために哲学者のなかにあることも恰も蜂蜜のなかの黄蜂のような人々によって軽視されるのを恐れたからだと思います。このように考えまして私の意見の新奇と不条理に対する恐れが私をして、とうに完成している著述を発表せずにおくところでした。

 しかし私の友人たちは私が長い間躊躇し、彼等に反抗さえしたのを思い返させました。彼等は既にその4倍もの私のしまってある研究を本に書いて公にすることを度々私に勧めたばかりでなく、私がそうしないでいる事を何度も非難しました。その他の優れた学識のある人々が同じように私に求め、数学にたずさわるすべての人々の利益のために私の研究を公にすることを、私の懸念のためにも拒絶しないようにと勧めました。

 地球が動くという私の理論は多くの人々に不条理に見えようとも、私の著述が出版されて不条理の雲が明瞭な説明によって消えて行けば、それは多くの称賛と感謝を喚び起こすであろうと彼等は申しました。長い間彼等が私に求めていた私の著述を出版することを友人たちに許すに至りましたのは、このような勧めとこのような希望によってであります。

ニクラウス・コペルニクス「天体の回転について」

2016年9月10日土曜日

無知は権門と派閥を尊敬

  住民のあいだにひとりの統治者がいます。聖職者で「太陽」と呼ばれています。この人が、精神面でも世俗面でも全住民の指導者で、あらゆる政務が採取的にはかれによって決定されます。「力」は戦争・和平・軍略をつかさどります。軍事においては最高指導者ですが、「太陽」にまさるものではありません。「武官、戦士、兵士、軍需、築城、攻城を管轄します。「太陽」は「力」とともに、こうしたあらゆる仕事をつかさどります。無知な人たちが権門の生まれだとか強大な派閥によって推されたとかいう理由だけで、かれらを統治の適任者とみなして尊敬しているのです。

 太陽市民は、極度の貧困は人間を堕落させ、卑劣・狡猾・泥棒・詐欺・浮浪・嘘つき・は偽証になり、富もまた、傲慢・うぬぼれ・無知・裏切り・冷酷・知ったかぶりなどの原因になりますが、共和制のもとではすべての人が富者にして貧者となります。あらゆるものを所有しているがゆえに富者であり、物に仕えることに執着せず、あらゆるものを所有しているがゆえに貧者なのです。

 太陽市民は名誉のためにしか争いませんが、そんなかれらのあいだで、侮辱その他の原因から何か争いが起こったとします。怒りにかられて、つい腕力で相手を侮辱してしまったりすると、統治者「太陽」とその役人により、犯罪者としてひそかに処罰されます。くちさきだけの侮辱なら、いずれ戦争の機械を待って決着をつけます。鬱憤晴らしはただ敵だけに向けるべきだというわけです。そして戦場で武勲にまさる者のほうが、名誉の問題においても理があるとみなされ、他方が負けになります。しかし正義の問題にかんしては刑罰が存在します。ただし、決闘は許されません。自分のほうが理があることを示したいなら、国の戦争においてそれを示せというのです。

トラソ・カンパネッラ「太陽の都」


2016年8月18日木曜日

戦争は政府の道具と賭博

  政府は、戦争を道具として使役する。そこで政治は本性から必然的に生じる一切の峻厳な帰結を回避し、また遠い将来にに可能となるような成果などには眼もくれずに、ひたすら手近かにある確からしい成果だけに心を配るのである。そのために事態全体が甚だしく不果実なものとなり、戦争は一種の賭博となる。そこで各国の内閣に操られる政治は、この博打における練達な技量と洞察力とにかけては我こそ敵に勝る天晴れな者よと、自負して、互に功技を競い合うまである。
 このようにして政治は、戦争の本領、即ち何ものをも征服せねば止まぬ激烈な性質を骨抜きにして、戦争を単なる道具に化すのである。本来の戦争は、いわばもろ手で柄を握り懇親の力をこめて振り上げ、一度打ちこめば二度とやり直しのきかない太刀のようなものである。ところが政治の手にかかると、この太刀も華奢な細身の剣となり、それどころか時には試合力ともなり、政治はこれをもって突き、ファント、パラド等の技を自在にこなすのである。

カール・フォン・クラウゼヴィッツ「戦争論」


2016年7月2日土曜日

宇宙は無限で火刑

  令名いと高き騎士殿。もしも私めが、小作を生業として羊を飼い菜園を耕し衣服の繕いに精出す身でありましたならば、私に目もとめるなど誰一人ございますまい。まず咎めだてされることもなく、すべの方々のお気に召すこともたやすくできるでしょう。
 しかるに私は自然の野の設計者として、魂の飼育をこととし、能才の栽培を目指し、知性の衣を織る熟練工なのです。それ故に、人々は威嚇の眼差しを私に送り、ある者は凝視して飛びかかろうとし、あるものは来り捕らえて咬みつきくらい殺そうとするのです。それは一人、いや少人数の者にかぎらず、大勢の、むしろほとんどすべての人々がそうだと言ってもよろしい。
 それは何故かと申しますと、私が世間を忌み俗流を嫌って、大衆に満足しえずに、ただ一者のみを愛するがためです。それによって私は、隷属の身ながらも自由でうあり、苦しみのうちに悦びを見出し、貧しながら富み、死にながら生きてあることができるのです。それ故にまた私は、自由でありながら奴隷となり、快楽のうちに苦しみを抱き、富ながら貧しく、生きながら死してある者たちになんの羨望をも感じないのです。
 彼らは肉体のうちにこれを囚縛する鎖を、精神のうちにこれを沈倫させる地獄を、魂のうちにこれをむしばむ病を、心のうちにこれを死に至らしめる昏睡を、秘めている。しかも、鎖を解き放つ勇気も、浮き上がるだけの忍耐力も、照射一層する光輝も、蘇生すべき知識も持ちあわせていないのです。
 だからこそ私は、困憊して、険しい歩みから踵を返すようなこともせず、怠け者のように、目の前の仕事も放棄するようなこともせず、絶望のあまり、立ち向かう敵に背を向けたり、眩惑して、神々しい目標から目をそむけたりしないのです。こういう自分がソフィストだと噂を立てられることは、私も感づいております。
 誠実であるよりも鋭さをひけらす学者だとか、古い真理を確認するよりも新しい誤謬の闇をまきちらして名声の光を追いまわす鳥追い人だとか、正しい訓練所を打ち壊していかさま装置を作り出す変質者だとか。
 私の努力がこの世に役立つ立派な実を結んで、光を仰ぎ見ることのできなかった人々の精神を揺り起こし、感情の花咲かせますように。自分のために勝利を手に入れたいためではありません。真実の知恵への愛、真の瞑想への憧れのためであり、そのために私はかくも心を砕き傷め苦悶しているのです。
 生き生きとした理性にもとづき、統制ある感覚から生じるもので、真の死者として自然の主体存在から離脱してやってくる偽りならぬ形象によって通告するものであります。これを求め注視するものに現われ開示され、これを理解するものに解明されるものんのです。ここに無限、宇宙および無数の諸世界に関する私の瞑想を捧げるゆえんです。

ジョルダーノ・ブルーノ「無限、宇宙および諸世界について」



 

2016年6月15日水曜日

国家の戦争と平和

  実に人間にしても自然状態においてはお互いに敵である。だから国家の外にあって自然権を保持するものは皆敵たるを失わない。ゆえにもし国家が戦争をして自己の権利の非常手段を用いようと欲する場合、それをなす権利を有する。戦争を行うにはただ戦争の意欲を持ちさえすれば十分だからである。
 これに反して、平和に関しては、国家の意思が平和に合致していなければ何事も決められない。戦争の権利は国家に属するが、平和に関する権利は一国家にではなくて少なくとも二国家に属することである。これらの国家は盟約国と呼ばれる。
 平和の盟約は、盟約を締結する原因すなわち損害への恐怖や利得の希望が存在する間は確固として存続する。それがなくなれば、再び相互に結合していた靭帯は溶ける。任意の時に盟約を解消する全ての権利を有する。平和の存続を前提として未来に向かって契約を結ぶ。だから国家が欺かれたと訴える場合、責めうるのは盟約国家の不信義ではなく、ただ自己の愚かさだけである。
 相互に平和条約を締結した国家は、平和の諸条件や諸規約に関して、係争問題を解決する権利が帰属する。平和の権利は、国家の所有ではなくて、盟約国家共同の所有である。問題に関して国家が意見の一致を見ることができなければ戦争状態に立ち返る。
 相互に平和条約が多ければ多いだけ、国家は戦争をなす力が少なくなり、平和の諸条件を守るように拘束されることが多くなる。国家は自己の権利が少なくなり、盟約国家の共同の意志に順応するように拘束される。

バールーフ・デ・スピノザ「国家論」