「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2018年2月10日土曜日
2017年11月19日日曜日
汝が悪人を赦した時は、悪人の当然報いるに合致するにあらず、汝の仁慈に一致するが故に義である。
汝が悪人を罰したまうこともまた義である。何となれば善人が善を、悪人が悪を受けることよりも以上に、善なることがあろうか。しからば汝が悪人を罰したまうことも義であり、汝が悪人を赦したまうことも亦義であるのは、如何にしてであるか。汝が悪人を罰したまふのも義であり、汝が悪人を赦したまうのも義であるが、しかもそのあり方はお互いに異なっているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまうのも義であるが、しかもそのあり方は互いに異っているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまう時には、悪人の当然報いられべきものに合致するが故に、それは義なのである。しかし汝が悪人を赦したまう時には、それは、悪人の当然報いらるべきものに合致するが故にあらずして、かえって汝の仁慈に一致するが故に、義なのである。何となれば汝が悪人を赦したまう時、われわれの方からすればさうではないが、汝の方からすれば義でありたまうからである。それはあたかも汝がわれわれの方からすれば憐憫をもちたまうが、汝の方からすればもちたまうのではないと同様である。これが、義によっては汝が滅ぼしたまうべきわれらを、救いたまいて ー 汝が感情の動きを感じたまうからではなくして、われわれがその効力を感じるが故に ー 憐憫ふかくありたまう理由であり、それと同様に ー われわれに、当然の負目を報いたまうからではなく、かえって最高の善である汝に応わしきことを為したまう故に ー 義にまします理由である。それ故にかくの如く矛盾なく、汝が罰したまうことも善であり、赦したまうことも義である。
聖アンセルムス「プロスギオン」
2017年10月12日木曜日
勝利して以来、指導者達は、一般的精神生活を支配し教会の配下に置こうと努めた。
教会がコンスタンティンの時勝利を博して以来、その指導者達は、一般的精神生活を支配しすべてを教会とその精神との配下に置こうと、努めた。すでに久しい以前から着手されていた基督教とローマ帝国ならびに古代文化との融合事業は、驚くべき速度を以って完成された。今や初めて、基督教と古代哲学との結合が成立した。有利な条件の下に再び、西欧と東洋、ローマとギリシャ間の活発な交通が可能となった。ラテンの教会は、東西両教会教会分裂の直前にあたり、ギリシャ的学問の資本を供給された。人々はあたかも、目前に迫れる運命を、野蛮人侵入の暗夜を、予感していたかのようであった。教会の強固な建築は大急ぎで仕上げられた。ギリシア哲学の中で役立つと思われるものは教理学の中に取り入れられ、他はすべて危険思想もしくは異端的教へとして退けられ、次いで漸次克服された。人々はローマ帝国の勝れた組織法から借りて来て、教会組織に関する制度を補った。教会法はローマ法に範をとった。礼拝規則は改良され、詳細に規定された。古代の異教的密儀教中荘重にして注目に値するものは、既に久しき以前から模倣されていたが、今更に一層荘厳な調子、卓越した思想と儀式的形式との不思議な一致が、こうして成立した。
フォン・ハルナック「アウグスティヌスの懺悔録」
2017年9月15日金曜日
動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味する。
もし動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味すると仮定すれば、かかる場合には、他のそれ以上の如何なる完成が、加わり来ようとも、所詮その添加物は、動物に対して部分という関係に立ち、決して、動物の概念のうちに内含的に保持されるものという関係には立たぬであろう。すれば動物は類ではないことになる。しかるに、実際、動物は、それの形相から (ただ単なる感覚的精神であろうと、或いは同時に感覚的であり理性的である精神であろうとに論なく) 感覚と運動とが、そこから出で来り得るが如き何物かを意味する限りは、類である。ゆえに、類は、種のうちに存するところのものすべてを ー なぜなら、類は、単に質料のみを意味しないから ー 非限定的に意味しているのである。
聖トマス・アクィナス「形而上学叙説 ー 有と本質とに就いて」
2017年9月12日火曜日
『基督論』の宗教が武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。
わずかな意見の相違に基いて兄弟の交わりが絶たれ、多くの人は辱められ、放逐され、獄に繋がれ、または殺戮された。それは悲惨な歴史である。『基督論』が因になって、人々は彼等の宗教的教訓を恐るべき武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。この態度は今もなお持続し、しかもなお持続し、あたかも福音には他には問題はないかのように基督論は取り扱われ、それに伴う狂熱は今日もなお止まない。かく歴史上その様な重荷を負わせ、党派を引き続かせた問題が、今なお未解決であることを誰が不思議としよう。しかも、捉はれない眼をもって福音書を観察する者にとっては、イエスの自己証明の問題は決して解けないものではない。ただしその中に理解に難く秘密なものがあれば、イエスの意味する所によりかつ問題の性質に従い、そのままにしておくべきであり、ただ象徴の形で言い表し得るのみである。『この世の現象の中には、象徴の助けなしには人間悟性の複雑せる表象の中に持ち来らせられないものがある。』
アドル・フォン・ハルナック (福音と神の御子ー基督教の問題)「基督教の本質」
2017年8月23日水曜日
イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことである。
イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことであるというとき、またイエスが、自分のもたらす激動について、もっとも神聖な地上のえにしは絶ち切らねばならないし、ひとびとは十字架を負うてイエスに従い、自分の生命を無視しなければならない (マタイ 10章 34-42節)ことについて語るとき、そのとき、イエスは終末期の時の迫害のことを考えているのである。神の国を強いよせるものは、大いなる迫害をも招くのである。なぜなら王国とメシアとは、まさにこの大いなる迫害から生まれるからである。
このゆえにこそ、いたるところのメシアの調和のうちにきわだった和音が認められるのである! イエスは幸いの教えを、憎まれ、責められ、イエスのためにさまざまの悪しきことをいわれるとき、そのひとびとは幸いであると結んでいる。そのときひとびとはまさしく喜びと歓呼の理由をもっているのである。なぜなら、かれらが耐えしのばねばならないそのことのなかに、かれらが神の国に属していることが啓示されるからである。かれらがなおこの世の権力によって苦難を受けているとき、天上ではすでにむくいが準備されているのである (マタイ 5章 11-12節)。
アルベルト・シュヴァイツアー「イエスの生涯 ー メシアと受難の秘密 ー」
2017年8月4日金曜日
イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、ヤㇵウェのものである
ヤㇵウェがモーゼに語って言われた。「すべの首子を聖めてわたしに献げよ。イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、わたしのものである」。
モーゼが民に言った。「君たちがエジプトの奴隷の家から出たこの日を懊えよ、何故ならヤㇵウェーは強い手をもって君たちを引き出されたのだから。種を入れたものを食べてはならない。アビブの月の今日、君たちは出る。ヤㇵウェが君の先祖たちに与えようと誓われた乳ち蜜の流れる地に君を入れられる時、君はこの月に祝うべきである。七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。七日目はヤㇵウェのための祭りである。七日の間種入れぬパンを食べ、すべての君の領域に種を入れたものが見られるようにせねばならない。パン種が見られないようにせねばならない。その日君は君の子に次のように言って告げなければならない。『これはわたしがエジプトから出た時にヤㇵウェがわたしにされたことのためである。ヤㇵウェの律法がお前の口にあるように、それがお前の手にある徴しとなり、お前の目の覚えとなるように』。何故ならヤㇵウェが君をエジプトから引き出されたからである。それで君はこの規定を年毎に定められた時に守るべきである。ヤㇵウェーが君と君の先祖たちに誓われたように、カナン人の地に君を入れ、それを君に与えられる時、君は胎を開くすべてのものをヤㇵウェに奉らねばならない。
十八 首子の犠牲その他「旧約聖書 出エジプト記」
2017年8月2日水曜日
人間の霊魂はどうしてもことごとく不死でなければならない。
第72章 人間の霊魂はことごとく不死であること
しかしもし人間の霊魂が可死的であるとすれば、最高の本質を愛する霊魂が永遠に至福であることも、それを蔑む霊魂が不幸であることも、必然ではなくなるであろう。それ故に。人間の霊魂は、それを愛するために創造されたそのものを、愛するにせよ、蔑むにせよ、どうしても不死でなければならない。けれども、例えば子供の霊魂がそうであると見られるように、もし、それを愛しもしなければ蔑みもしないと判断されるような、ある理性的な霊魂も存在するとするならば、そういう霊魂についてはわれわれは如何なる見解をもつべきであろうか。そういう霊魂は可死的であろうか。疑う余地がない。だから、ある霊魂の不死であることが明白である以上、すべての人間の霊魂が不死であることも、必然でなければならない。
聖アンセルムス「モノロギオン」
2017年7月22日土曜日
目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、放棄しなければならない。
人間は創造されつつある。それは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため、また、それによって、自分の魂を救うためである。さらに、地上の他のものが創られつつあるのも、人間のためであり、人間が創られた目的を達成する上で、それらのものが人間を助けるためである。
従って、人間は、それらのものが自分の目的を達成する上で助けとなる度合いに応じて、それらを用いる必要があり、妨げとなる程度に応じて、それらを放棄しなければならない。そのために、われわれは、自分の自由意志に委ねられ、禁じられていない限り、すべての被造物に対して、我々自身を不偏にする必要がある。それを具体的に言えば、われわれの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉よりは名誉を、短命よりは長生きなどを好むことなく、ただわれわれが創られた目的へよりよく導くものだけを好み、選ぶべきである。
イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」
2017年7月13日木曜日
教えを欲しない者があったら、粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。
しかしこの教えを欲しない者があったら、彼らはキリストを否認しキリスト者でないことを明かにし、彼らの聖礼典に陪することを許さず、小児の洗礼に与からしめず、何れのキリスト教的自由をも停止し、むしろ当然に法皇と教会司法官とに委せ、さらに悪魔に付すことも止むを得ない。かつその両親や家長も彼らに飲食を禁じ、かかる粗暴な者を君候がその領土から追放するように告発するがよい。ただし何人にもせよ、これを強制して信仰に来らしめることはできないし又してはならないことであるが、しかし民衆を統制して、彼らの居住し食し生活しようと欲する場所にては正及び不正の何であるかを知らしめるのは緊要なことである。ある町に居住しようとする者は、その公益を享受しようとする限り、その町の法規を知りまた守らなければならない。神よ、かかる人をして信ずる者たらしめ給え、しかし彼らが信者たり得ないなら、せめて内心にてのみ不法邪悪者たるに止まらし給え。
マルティン・ルター、小信仰問答書「信仰要義」
2017年6月20日火曜日
キリストは神に従順のために正義を守りたまうため戦死を招かれた。
神はキリストに死ぬことを強制せられたのではないのだ、キリストには毫末も罪はなかったのだから。だが、御自身で自発的に死を受けたまうのだ。それは従順によって生命を捨てたまうためではなく、卻って従順のために正義を守りたまうためであった、キリストは極めて強くその正義を守り通されたので、そのため、終に、死を招かれたのだ。
そのうえ更に、聖父が彼に死ぬことを命じたまうのだと言うこともできるだろう、彼が死を招くに至ったその原因は、聖父が命じたまうことなのだから。そういう訳で、「父の彼に命じたまうところに遵ひて、彼は行った」のであるし、また「父の彼に賜ひたる杯を」彼は飲み、「死に至るまで父に従順なるものとなりたまひ」、且つ「受けたまひし苦によって従順を学びたまうた」のである、即ち、いつまでも従順をまもらなければならないかを学びたまうたのである。
卻って、それは、キリスト御自身が己を聖父と聖霊とにひとしくしたまうて、死による以外の道で、己が全能の気高さを世に示さうとは為したまわなかったからである。というのは、あの死による以外には、為されることのできなかったことが、死によって為されたのであるから、あの死によって為されたと言っても、不適当ではないであろう。
聖アンセルムス「クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)」
2017年6月4日日曜日
残忍な聖書は殺戮をやめず、ヨブ記は不義の源であり、人間は死んで眠る。
聖書、すなわちこの残忍な書は、殺戮をやめなかった。「ヨブ記」は涸れることのない不義の源である。霊からなるものは涸れることはない。読みた合わせて楽しんでいる。ヨブの友人たちはヨブに諦めるように勧める。彼はそれを自分自身に勧めている。どうやって神と戦うというのか。どうやって神を訴えるというのか。このような霊に対する崇拝、すなわち外に立ち、怒っている、仮借なき、抗えない霊に対する崇拝は、おそらく本質的に偶像崇拝である。なぜなら、フェティシストたちは多くの神がいることでーある神が他の神に勝利するといことでー慰められ希望をもっているから。これらのナイーヴな空想は、人間の置かれている現実の状況をうまく表している。なぜなら、さまざまな事物があることによって、すべてに救いがあることになるから。
しかし、唯一の神、霊であると同時に力である神。それは観念だけで、圧倒する、殺戮する。ヨブは金持ちであった、しあわせであった。友人たちがいた。突然、彼は貧乏な者となり、病気になり、人から見捨てられている。それはヨブにとって、当然のことのように見えている。この偉大な宇宙、われわれよりもはるかに力の強い宇宙は、ヨブの眼には、決意をもった一人の人間がその小さな指を動かしただけでは粉砕できない、変更できないものであった。たしかに、この世界は「霊」なのだ。この世界のすべて、一物から、ただ一つの意志からなっているのだ。その時、人間は眠っている、死んでいる。
アラン (エミール・オーグスト・シャルティエ)「四季をめぐる51のプロポ」
2017年4月6日木曜日
敵対する異教徒たちを救世主が聖別する
赦された二人は仲間の所に行って、最高法院の大祭司連や長老たちが言ったことを報告した。聞くと彼等は一せいに、神に向かって声をはりあげて祈った。「主よ、"あなたは、天と地と海とそれらの中の一切の物をお造りになりました。" あなたはわたし達の先祖、あなたの下僕ダビデの口をもって、聖霊により、こう言われました。
"なにゆえ異教徒たちは騒ぎたち
民どもは空しいことをたくらむのか。
地上の王たちは勢ぞろいし
主権者たちは一緒に集まって
主とその油注がれた救世主とに反抗する。"
そして、この予言は成就しました。実際ヘロデ王と総督ポンテオ・ピラトとは"異教人らや"イスラエルの"民ども"と共に、"あなたに油を注がれて救世主として聖別された"あなたの聖なる下僕イエスに敵対してこのエルサレムの都に"集まり"あなたの力強い御心をもって実現しようとあらかじめ定められていたことを、なしとげられたからです。
だから、今、主よ、彼等理のわたし達に対するおどかしをよく御覧ください。御手をのばして、あなたの聖なる下僕イエスの名のゆえに、癒しや徴や不思議なことを行わせてください。」こう彼らが祈りおわると、たちまち集まっていた所が揺れ、だれもかれも聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語った。
(ペテロ・パウロ)「新約聖書 使徒のはたらき」
2017年2月8日水曜日
世界宗教は世界大戦の軍隊の心術と前哨
深い真理は尊大な態度で立ち現れない。いわんや重苦しい屈辱がわれわれ海外で福音を宣べ伝えているもの一同を待ち受けているにおいてをやである。『どこにいったい汝らの倫理的宗教はあるのか』とかれらはわれわれに問う、それが原生林の原始人であっても或いは極東の教養人であっても。キリスト教が愛の宗教として果たしてきたものは、それがキリスト教国民を平和愛好心に教育するに十分なだけ強くなかったことにより、またそれが(第一次)大戦当時なおあのようなはなはだ世俗的にして憎むべき心術と結託した、ということ、しかり今日もなおまだそれらから絶縁していないということによって、払拭されたものと考えられる。身の毛のよだつ仕方でそれはイエスの精神に不忠実となった。われわれが海外で福音を宣べ伝えるばあい、この悲しむべき事実については何も否認しないよう又何も体裁を飾らないようにしよう。われわれはあまりにたやすくイエスの精神をもっていると思い込んでいたために、それを深く堕落したのである。いまやイエスの精神そのものをもとめるより真剣な闘いがはじまるべきである。
今日海外で福音を宣べ伝えていて、われわれは、ひとたび(第一次世界大戦の)敗戦を経験したがようやくもういちど強くならなければならない一つの軍隊の前哨なのである。しかしわれわれは勇敢な前哨でありたい。人間のいかなる誤りもまたいかなる不忠実も、イエスの福音からそれがそのなかに担っているいる真理を取り去ることはできない。そしてただ真の「世界とは異なる存在」においてあるわれわれ自身に、生き生きとした倫理的の神によって捉えられた状態の幾分かが啓示されるとき、そのときイエスの真理はわれわれから発するのである。
アルベルト・シュヴァイツェル「キリスト教と世界宗教」
2016年11月21日月曜日
イスラエル王国の撲滅と惨劇
ペリシテ人はイスラエルと会戦し、イスラエルの人達はペリシテ人の前から敗走してギルボア山に至り傷つき倒れた。ペリシテ人は、サウルとその子らに追いつき、ペリシテ人はサウルの子らヨナタン、アビナダム、及びマルキシュアを殺した。戦闘はサウルに向けられ、遂に的の射手は弓をもってサウルを射当て、サウルはその射手によって甚く傷ついた。サウルは彼の武器を担ぐ従者に言った、「剣を抜いて、わたしを殺してくれ。これらの割礼なき者がやって来て、わしを辱めないように」。しかし従者は甚く恐れて、敢えて手を下そうとしなかった。そこでサウルが死んだことを見とどけ、自分も又彼の剣の上に倒れてサウルと共に死んだ。かくしてその日、サウルとその三人の子、サウルの従者は共に戦死した。谷の向こう側とヨルダンの窪地にいたイスラエルの兵士たちは、イスラエル勢が敗走し、サウルとその子らが戦死したのを見て町々を捨てて逃げ去った。ペリシテ人はやって来てその町に住んだ。
翌日ペリシテ人は闘いに倒れた者に対する略奪の為にやって来た。そうして、サウルとその三人の子らがギルボア山上で戦死しているのを発見した。彼らはサウルの首を刎ね、その武具を奪い、それをあまねくペリシテ人の地に持ち回って、この戦勝の知らせをその偶像と民とに伝えさせた。又、サウルの武器をアシタロテの身やに納め、その死体をそのペテンシャンの城壁に曝した。
ヤベシ・ギレアデの人々が、ペリシテ人のサウルになしたことを聞いた時、総ての武器をとる者達は、立ってよもすがら進み、サウルの死体とその子らの死体をペテンシャンの城壁から取り外し、これをヤベシの柳の下に梅、七日間断食した。
旧約聖書「サムエル記」
2016年11月8日火曜日
宗教の名で最悪の事柄がなされる
この世に存在したすべての宗教が偽りであるという意味になるのであろうか。そうではないのである。なるほどたいていの宗教が、理性的信念に分析されるならば、偽りであることは明白である。そして私はこの世に存在する百万の宗教団体のどれか一つに属する徹頭徹尾正統派的な信仰をもつ人にとっては、この百万から一つを覗いたその他のものが悪しく偽りではないにしても兎も角も偽りであることは心中疑いの余地なく明白であるに相違ないと思うのである。それこそが私たちが明瞭に意識していなければならないことだと私は考える。しかもなお人間が自分の周囲をかこむ道標なき神秘的な人生の領域に対して何らかの関係をもたなければならないという事実は相変わらず残るのである。
それこそ宗教に残された大いなる事実ではあるが、私たちはそれについて二つの事実を記憶せねばならない。第一に誤りを犯す可能性は大きく、事実ほとんど無限であり、第二に確信した誤りのもたらす結果は極めて恐ろしいものであるということがこれである。おそらく史上を通じてかつて一かどの人々によって大規模にこの世でなされた最悪の事柄は宗教の名においてなされたものであり、そしてその事は現在でも真理たることを全く止めたとは決して思われない。
ギルバァト・マレー「ギリシア宗教発展の五段階」
2016年11月5日土曜日
殉教者は有に死んだ
殉教者たちはひとつの命を失い、そしてひとつ有を見出したのである。ある師は、有ほどに神と等しいものは他にない、あるものが有を持つ限り、その限りにおいてそのものは神と等しいという。ある師は次のように言う。神である一切がひとつの有であるほどに、有とは純粋にして高きものである、神が認識するのは有より他になく、神の有以外神の有以外の何ものも知ることがない、有こそ神の指輪である、神は有以外愛するすることもなく、神の有以外思惟することもないと。
わたしは、すべての被造物はひとつの有である、と言う。ある師は、被造物のあるものは、他の被造物に有を付与するほど神に近く、それほど多くの神的光をみずからの内に写し持っているのだと語る。
これは正しいとはいえない。なぜかといえば、有はきわめて高くきわめて純粋で、神にきわめて似ているので、神が神自身の内に有を付与するときのほかは、いかなるものといえども有を付与することはできないからである。神の最も固有な本質は有である。ある師は、ある被造物が別な被造物に命であれば与えることは十分可能である、と言っている。
まさにそれゆえにこそ、何であろうともすべてのものは、ただ有においてのみ基礎づけられているのである。有は原初なる名である。不完全なものはすべて有からの脱落である。わたしたちの命の全体はできるならひとつの有でなくてはならない。わたしたちの命がひとつの有であるかぎり、そのかぎりにおいてわたしたちの命は神の内にある。わたしたちの命が有の内に納れられるかぎり、そのかぎりにおいてわたしたちの命は神と似たものとなる。
ひとつの命とは取るに足らないものでしかないかもしれない。しかし、人が有として命をつかむかぎり、その命は、これまでに命が手に入れたどんなものよりも高貴なものとなる。わたしは次のように確信している。魂が全く取るに足りないものを認識したとしても、それが有を持つならば、魂は一瞬たりといえどけっして二度とそれに背を向けることはないであろう。
マイスター・エックハルト「エックハルト説教集」
2016年9月8日木曜日
全ユダヤ人は罪人
聖パウロは、ユダヤ人をすべて罪人であると論断し、律法を行う者が初めて神の前に義とせられると述べている。この場合彼は、何人も行いによって律法を行う者となると言うているのではなく、反対にユダヤ人達に向かって「汝は姦淫するなかれと教えて自ら姦淫す」と言い、又「汝の人を審くによって、汝自ら罰するなり。汝その審くところのことを自ら行へばなり」と言っているが、「汝は外的には律法の行いに於いて立派に生活し、そしてそのような生活をしない人々を審き、又何れの人をも教えようとする。汝は人の眼にある塵を見るが、已が目にある梁木に気づかない」と言おうとしているやうである。
パウロは更に進んで、外面的には義しく見えながら秘かに罪を犯している人々へも誹謗を向ける。ユダヤ人がそれであったが、今日においてもなお、熱心もなく愛もなしに安らかに生活し、心の中では神の律法を敵視しつつしかも他の人々を審くことを好む偽善者達はすべてそれである。貪欲と増悪と高慢をあらゆる汚穢とをもって満たされるのは、すべて偽聖者の性である。正に彼等こそ、神の仁慈を軽んじ、その頑固によって神の怒りを集め積む者である。かく聖パウロは律法の正しい解明者として、何人をも罪なしには置かない。むしろ彼は、自然の性すなわち自由意志から安らかに生きようと欲する凡ての人々に対して神の怒りを告知し、ユダヤ人をして明白な罪人に何の優るところも無い者たらしめる。いや、彼はユダヤ人を頑固にして悔悛なき者であると言っている。
マルティン・ルター「キリスト者の自由」
2016年9月7日水曜日
宗教は集団により極度な危険
諸君のうちには、宗教を単に心の疾病にすぎないように見離す者がいる。そしてかかる人々が良く懷く考えに依ると、この疾病は、個々の者が別個に襲われるだけなら、禍ではあろうが辛抱し易くもあるし、恐らくこれを制御することすらできよう。しかしこの種の不幸な患者の間にあまりにも親しい集団が成立すると、共通な危険が極度に増大し、すべてが失われてしまうと言うのである。
前の場合には、適宜の処置、いわば炎症を抑える食養生とか新鮮な空気によって発作は弱め、例え全快はおぼつかなくともその特有の病素を無害な程度に薄めることができる。
しかし後者の場合は、あらゆる治療の希望を放棄しなければなるまい。即ちもしも他の患者にあまりにも、接近して、禍が個々の患者の治療のもとで助長激化されれば、この禍は一層破壊的なものとなり、極めて危険な徴候を伴って来る。かくして少数の者によって全体の空気が忽ち毒され、極めて健康な身体すらこれに感染し、生命の過程が経過する通路はすべて破壊され、体液は悉く分解し、一様に熱病的精神錯乱に陥り、時代も国民も、こぞって回復困難となろう。
かくして諸君が教会及び宗教の伝達を目的とするあらゆる施設に対して抱く嫌悪は、宗教自体に対する嫌悪よりも一層烈しく、ことに教職者は、かかる施設を支持し且つ特にこれを運営する一員として、諸君にとっては人類中最も悪むべき者である。
だが諸君の中で宗教に関して寛容な見解を有ち、宗教は心の錯乱と言うよりもむしろその特別な現れ、危険な現象と言うよりはむしろ無意味な現象だと考える考える人々も、やはりすべての団体的制度に対しては全然同一な有害だと言う見解を抱いている。彼等の見解によると、かかる制度は必然的に、独特で自由なものを奴隷のように犠牲にし、精神無き機械、空虚な習慣と言う結果を伴う。而もこれは無に等しいか、然らざれば誰にでも等しく充分成し遂げれ得る事物から、信じられない程の結果を以って大成功を収める者がやる人為的な業績だと言うのである。そこでももし私が、諸君をこれに対する正しい見地に立てようとする努力を惜しならば、私が重大だと思うこの問題について諸君に心を披露しても、それは極めて不十分なものに過ぎないであろう。
フリードリヒ・シュライマッヘル「宗教論」
2016年8月29日月曜日
絶対主義と教会の相互権力
国家は罪の結果生じたものであるが、神の摂理によって救済と訓練を行う手段に転じられ、あらゆる権利権力をそなえた組織であると見られたが、これは本質的な点で中世的光のもとに立っていた。と同時に国家の現実性は絶対主義への展開過程において甘受された。この絶対主義は教会の優先権から自己を解放したばかりでなく、逆に教会の権力手段を利用して、今や官僚主義的役人国家への発展の途上にあったのであった。プロテスタンティズムは、一方で外部的教会制度のための配慮を国家にゆだね、さらに正しい外的なキリスト教的道徳秩序が堅持され純粋な教えがおこなわれるようにすることは国家の義務であるとしたが、他方では国家の政治的、社会的活動に教会的勢力が介入することの絶対にないように国家を教会勢力から解放したことによってこのような発展を一段と助長した。
近代国家の発展はこのような事態をとおしてプロテスタンティズム的地盤では驚くべきほど促進されたばかりでなく、同時に国家もしくは当局は、社会が制度上キリスト教の立場に立っていることに対してともに責任を負うものとして、また教会を純粋に維持し純粋に維持し保護する義務を負うものとして、直接宗教的な課題をになうことになった。もちろんこの課題はただこのように文化の全体がキリスト教的文化であることを保証しただけのものである。独自のキリスト教的義務感情からキリスト教的道徳秩序を維持し純粋のキリスト教の教えの実現を配慮する国家というものが古いプロテスタンティズムのあらゆる文化にとっての不可欠な場であり支えなのである。いやしくも道徳的、教会的の事柄に関するかぎり、教団の働きが参与すべきであるということを強調し推進するのである。
近代国家の発展はこのような事態をとおしてプロテスタンティズム的地盤では驚くべきほど促進されたばかりでなく、同時に国家もしくは当局は、社会が制度上キリスト教の立場に立っていることに対してともに責任を負うものとして、また教会を純粋に維持し純粋に維持し保護する義務を負うものとして、直接宗教的な課題をになうことになった。もちろんこの課題はただこのように文化の全体がキリスト教的文化であることを保証しただけのものである。独自のキリスト教的義務感情からキリスト教的道徳秩序を維持し純粋のキリスト教の教えの実現を配慮する国家というものが古いプロテスタンティズムのあらゆる文化にとっての不可欠な場であり支えなのである。いやしくも道徳的、教会的の事柄に関するかぎり、教団の働きが参与すべきであるということを強調し推進するのである。
エルンスト・トレルチ「ルネサンスと宗教改革」
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