2016年8月31日水曜日

邦人保護から対抗日清戦争

  朝鮮政府は、1894(明治27)年5月4日に甲午農民戦争が勃発、東学党軍は急速に勢力を伸ばし、苦境に追い込まれた。こうした中、朝鮮政府内部で農民反乱の鎮圧のために清軍の派兵を請おうとする動きが生まれた。この動きは5月下旬に朝鮮の日本公使館より日本政府に報告されていた。そして6月2日、前日の1日午後3時15分発の杉村代理公使の電報が到着、農民軍の全州占領と朝鮮政府が清兵の派遣を請うたという袁世凱の談話を伝えた。この電報を見た外相の陸奥宗光は、2日の閣議で朝鮮への出兵を提議、これについて討議されることになった。
 この閣議の決定内容は、以下の通りのものである。
 「朝鮮国乱内に起こり京城駐在公使館よりの来電に拠るに官兵頻に敗れ乱民益々脅威を窮むるの勢いの勢ありと云将来乱民京城又は其他の日本人居留地に侵入すること無きを保ち難く従て公使館及び国民を保護する為に兵員を派遣する必要あり」
 「今度の事は急速の事変に係り我か兵を以て国民を保護をするを怠るへからざるか為に清国との連合派兵するを待たず条約の明文に従い行文知照し直ちに出兵するを適当とす」午後4時40分に外相の陸奥宗光は電報を朝鮮日本公使館に閣議とは異なる打電している。
 「In case Higashigakuto revolt assume such magnitude as endanger safety of our residents or in case of attitude of China sends reinforcement, it may be become necessary for Japan also to send Japanese soldiers
 清国を主導者として日本を被動者として、閣議決定された即時先行出兵が対抗出兵に方針転換される日清戦争開戦過程に到るに至った。

高橋 秀直「日清戦争開戦過程の研究」





2016年8月30日火曜日

戦争を起こせるのは権力者

 戦争は個人の喧嘩ではない。戦争を起こせるのは国家権力の掌握者だけなのである。一般市民にとったは、戦争を支持あるいは反対することはありえても、和戦を決する権限はなかった。戦争は、それが単数(王・皇帝・スルタン・フューラーなど専政支配者)であれ、複数(民会・元老院・議会・委員会など支配者集団)であれ、その社会の権力の掌握者によって起こされたのであって、自然現象として、または化学反応的に起こったのではない。だからユネスコ憲章前文「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」の「人の心」の前に「権力の座にある」という一句を挿入すれば、決定的に正確となる。
 社会の権力者たちは、その社会構造こそが支配者たちの方針なり目的なりを、戦争を含めて基本的に方向づける。支配者たちが意識すると否とに関わらず、また歴史資料を残したか否かにかかわらない視点である。人類が原始から現代に到るまで大きな社会構造の変革を経てきた事が認められる。戦争の目的や原因にも社会構造に対応する変化があったことは確かであろう。すなわち、戦争の原因も目的も、決して無法則のそれではなく、基本的には社会の構造と発展に対応した歴史的な構造と変化なのである。

   小沢 郁郎「世界軍事史ー人間はなぜ戦争をするのか」

2016年8月29日月曜日

絶対主義と教会の相互権力

 国家は罪の結果生じたものであるが、神の摂理によって救済と訓練を行う手段に転じられ、あらゆる権利権力をそなえた組織であると見られたが、これは本質的な点で中世的光のもとに立っていた。と同時に国家の現実性は絶対主義への展開過程において甘受された。この絶対主義は教会の優先権から自己を解放したばかりでなく、逆に教会の権力手段を利用して、今や官僚主義的役人国家への発展の途上にあったのであった。プロテスタンティズムは、一方で外部的教会制度のための配慮を国家にゆだね、さらに正しい外的なキリスト教的道徳秩序が堅持され純粋な教えがおこなわれるようにすることは国家の義務であるとしたが、他方では国家の政治的、社会的活動に教会的勢力が介入することの絶対にないように国家を教会勢力から解放したことによってこのような発展を一段と助長した。
 近代国家の発展はこのような事態をとおしてプロテスタンティズム的地盤では驚くべきほど促進されたばかりでなく、同時に国家もしくは当局は、社会が制度上キリスト教の立場に立っていることに対してともに責任を負うものとして、また教会を純粋に維持し純粋に維持し保護する義務を負うものとして、直接宗教的な課題をになうことになった。もちろんこの課題はただこのように文化の全体がキリスト教的文化であることを保証しただけのものである。独自のキリスト教的義務感情からキリスト教的道徳秩序を維持し純粋のキリスト教の教えの実現を配慮する国家というものが古いプロテスタンティズムのあらゆる文化にとっての不可欠な場であり支えなのである。いやしくも道徳的、教会的の事柄に関するかぎり、教団の働きが参与すべきであるということを強調し推進するのである。

エルンスト・トレルチ「ルネサンスと宗教改革」

2016年8月28日日曜日

殺人刀は天道の成敗

殺人刀

 古にいえる事あり、「兵は不祥の器なり。天道これを憎む。止むことを得ずしてこれを用いる、これ天道なり」このこと如何にとならば、弓矢・太刀・長刀、これを兵といい、これを不吉不祥の器なりといえり。その故は、天道は物本来の生命力をいかす道なるに、かえって殺す事をとるは、まことに不祥の器なり。しかれば天道にたがう所をすなわち憎むといえるなり。
 
 しかあれど、止むことを得ずして兵を用いて人を殺すを、また天道なりという。その心は如何となれば、春の風に花咲き緑そうといえども、秋の霜来て、葉おち木しぼむ。これ天道の善をなし悪を敗成るなり。物が十分に出来上がる所を、打つことは理あればなり。人も運に乗じては、悪をなすといへども、其悪の十成する時は、これをうつ。心をもって、兵を用いるも天道なりといへり。一人の悪によりて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。これら誠に、人を殺す刀は、人をいかすつるぎなるべきにや。
 その兵を用いるに法あり。法をしらざれば、人をころすとして、人にころさるるならし。熟思う、兵法といはば、人と我と立ちあうて、刀二つにてつかう兵法は負くるも一人、勝つも一人のみなり。これはいとちいさき兵法なり。勝ち負けともに、その得失わずかなり。一人勝ちて天下から、一人負けて天下まく、これ大なる兵法なり。一人とは大将一人なり。天下とは、もろもろの軍勢なり。もろもろの軍勢は、大将の手足なり。もろもろの勢いをよくはたらかぬは、大将の手足はたらかぬなり。太刀二筋にて立ちあふれて、習にとらわれずに自由自在に刀を使うことをなし、手足よくはたらかして勝つごとくに、もろもろの勢をつかい得て、よくはかりごとをなして合戦に勝つを大将の兵法というべし。

柳生 宗矩「兵法家伝書」

2016年8月27日土曜日

早急なる青年の腹切と仇討

  切腹をもって名誉となしたることは、おのずからその濫用に対し少なからざる誘惑を与えた。全然道理にかなわざる事柄のため、もしくは全然死に値せざる理由のために、躁急なる青年は飛んで火に入る夏の虫のごとく死についた。混乱かつ曖昧なる動機が武士を切腹に駆りしことは、尼僧を駆りて修道院の門をくぐらしめるよりも多くあった。生命は安くあった。世間の名誉の標準をもって計るに安いものであった。最も悲しむべきことは、名誉に常に打歩が付いていた。いわば常に正金でなく、劣等の金属を混じていたのである。
 しかしながら、真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。一人の典型的なる武士は一戦また一戦に敗れ、野より山、森より洞へと追われ、単身飢えて薄暗き木のうつろいの中にひそみ、刀欠け、矢尽きし時にも、最も高邁なるローマ人もかかる場合ピリピにて已が刃に伏したではないか。死をもって卑怯と考え、キリスト教の殉職者に近き忍耐をもって已を励ました。かくして武士道の教えうるところはここであった。忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつことれに耐えよ。

 腹切の姉妹たる報復もしくは仇討の制度の中にも、果たして何らかの美点を有するや否やを見よう。報復、もしくは仇討は、同様の制度もしくは習慣はすべての民族の間に行われたのであり、かつ今日でも廃れていないことは、決闘やリンチの存続によって証明される。仇討には人の正義感を満足せしむるものがある。仇討の推理は簡単であり幼稚である。刑事裁判所のなき時代にありては殺人は犯罪ではなく、ただ被害者の縁故者の付け狙う仇討のみが社会の秩序を維持したのである。それにもかかわらずこの中に人間生まれながらの正確なり衡平感および平等なる正義感が現れている。吾人の仇討の感覚は数理力のように正確であって、方程式の両項が満足されるまでは、何事かがいまだなされずして残っているとの感を除き得ないのである。しかして彼らは普通法によって罪に定めせれた。しかし民衆の本能は別個の判断を下した。切腹および敵討の両制度は、刑法法典の発布と共に存在理由を失った。

新渡戸 稲造「武士道」

2016年8月26日金曜日

東洋思想が更に平和

 東洋的な仏教的な考え方の方が、社会を更に平和にし、幸福にすると思います。政治問題にしても、今の社会が不安なのは、自国中心の考え方が各国に強いからで、この点でインドは偉いと思います。ガンジーに次いでネルーの政治思想は。極めて東洋的的で、日本へあっさり賠償放棄を宣言したのは、他の国では見られぬやり方です。
 これを考えると、米ソ共に政治家の考え方はずっと古くて幼稚ではないでしょうか。自国への執着心が強い国は、戦争が絶えないでしょう。軍縮などは、なまぬるい休止期な政治的な考えで、宗教的解決ではありません。ガンジーの無抵抗主義は、軍備された英国すら負かして、インドは平和に独立しました。もしインドが抵抗的革命をとったなら、今日の独立はずっと遅れたでしょう。
 目下フランスはアルジェリア問題で、オランダはインドネシア問題で悩んでいますが、いずれも自己本位の植民地政策をしているからで、そんな立場を、宗教的にあっさり棄て去ったなら、どんなに気が楽になるでしょう。力を盾にしている欧米の政治家の立場は、まだ古くさいのです。
 歯で歯をという形にに、まだこびりついているのです。東洋的解決で政治をたかめようとするインドに将来の希望を感じます。
 平和、平和と口ではとなえてもハンガリアを力ずくで抑えている限り、ロシアは決して信用されないでしょう。あっさり撤兵したら、世界からどんなにか敬念を払われたでしょうに。イギリスがエジプトに力で進駐したのは、その歴史に永遠の汚点を残したではありませんか。そう考えると、韓国の李承晩大統領のやり方、西洋かぶれで少なくとも登用思想を生かしていないと思います。アメリカのような自由な国民が率先として力の力の政治を法規したら、もっと世界を導いてゆけるでしょうに。中国はロシアを真似るべきでなく、もっと登用本家の精神を輝かすべきでありましょう。

柳旨 悦 「随筆集」


2016年8月25日木曜日

孝行に五段の差別

 孝行に五等の差別あるは、いかなる故にてご座候や。

   人間尊卑の位に五だんあり。天子一等、諸侯一等、執政者一等、士一等、庶民一等すべて五等なり。天子は天下をしろしめす、御門の御くらいなり。諸侯は国をおさむる。大名のくらいで、執政者はてんし諸侯の下知うけて、国天下のまつりごとをする位なり。士は執政者につきそいて、政の諸役をつとむる、さぶらいのくらいなり。物作を農といい、しょくにんを工といい、あき人を商という。この農工商の三はおしなべて、庶民のくらいなり。孝徳は同一体なれども、位によって事に大小高下あるゆえに、そのくらいの分際相応の道理を後世凡夫のために、分変をときあきらめ給う。たとえば孝徳は大海のごとし。五等のくらいは器のごとし。器ににて水をくむに、大小方円のもようはかれども、水はおなじ水なるがごとし。むかし聖人の御代には、人間のくらい五等のほかはなきゆえに、五等の孝を発明し給う。

中江 藤樹「翁問答」

2016年8月23日火曜日

人殺しの罪の動機

  眼が美しいものを、金銀やその他すべてのものを見て喜び、また触角が対象との共感を喜ぶように、他の諸感覚にも特に喜ばれるような特性が形態的なものの中にある。かつまた、この世の名誉にも、支配と制服との権力にも、それ特有の魅力があり、そこからまた自由の欲求が起こるのである。しかし我々は、これらすべてのものを得るために、主よ、汝から離れ、汝の律法に反してはならない。我々がこの世で送る生活にも、その特有の魅力と、これらすべての地上の美しいものとの調和とによって、人を惹きつけるものがある。愛の絆によって結ばれた人間の友情も、多くの魂の一致の故に、愉快なのである。すなわち、これらすべてのもののために、又これらに似たもののために、罪は犯されるのである。すなわちこれらのものは最も低い善であるのに、それらを甚だしく愛好することによって、高い善と最高の善が、主よ、私の神よ、汝が、汝の真理と汝の律法が見捨てられているのである。これらの最も低い善、歓喜を与えるけれども、万物を創造し給うた私の神のようではない。義しいものは彼の中に喜び、そして彼こそ心の義しいものの歓喜なのであるから。
 犯罪について、なぜそれが行われたかを調べる時、我々が先に最も低い善と読んだ諸物の中にある物を得ようとする欲望、またはそれを失う恐怖の存在したことが明らかでない限り、我々は夏得しないのが常である。これらのものは、それらよりも高く、人を浄福にする諸善に比べると、低く、賤しくあるけれども、それでも尚美しく、立派である。
 ある人が人殺しをした。なぜ彼は人殺しをしたのであるか。その人の妻に恋慕したか、あるいはその人の地所を手に入れようとしたす、あるいは生活の資を得るために略奪しようとしたか、あるいはその人のためにこの種のものを奪われることを恐れてか、あるいは害を加えられて復讐の念に燃えていたか、その何れかである。彼は何の理由もなしに、ただ殺すことを楽しんで、人を殺したのであろうか。誰がこのようなことを信じるであろうか。歴史家は、ある無情で残忍な男について、彼はいわれなしに凶悪残忍であったと語っているが、しかしこの男にも理由らしいものが挙げられている。彼は、「怠惰のために手や心が萎縮しないように」7というのである。これは何のためであるか。その理由は何であるか。それは明らかに、そのような凶行によって、ローマの都を手中に収めた後、名誉と富を獲得し、法律の恐怖と財政の窮乏と良心の呵責による困苦を免れるためであった。それゆえ、カティリナさえ、自己の犯行を好んだのではなく、、まったく他に好むものがあって、そのために罪を犯したのである。

聖アウレリウス・アウグスティヌス「告白」

2016年8月22日月曜日

死を生に対立する存在

 無と闇とのある類似性が認められている。目が闇を見ることができないのと同様に、知性は無を思考することができない。まさにこの紛れも無い類似こそ、我々をそれらの共通な起源に導く。
 無は存在の対立物として、東洋的想像力の産物である。この東洋的想像力は、実在しないものを実在と考え、死を独立した絶滅原理として生に対立させ、光に夜を、あたかも夜がたんに光のたんなる不在にすぎないのではなく、独立した積極的なものであるかのように対立させる。
 したがって光に対立されたものとして夜が実在性をもつ程度に、あるいは持たない程度に、あるいはそれ以下に、実在一般の対立物としての無は、根拠および理性的実在性をもち、あるいはもたない。
 しかしながら、夜が実体化されるのは、ただ次のような場合にかぎられる。すなわち、人間がまだ主観的なものと客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的なものとを区別しない場合、人間が自分の主観的な印象と感覚を客観的な性質とする場合、人間の表象の視野がまだきわめて狭い場合、人間の自分の局所的な立場を世界、宇宙そのものの立場と考える場合、そのために、自分にとって光の消失を現実の消失とみなし、闇を光源そのものである太陽の消失と考える場合、そしてまさにそのために彼が、光に敵対する特殊な存在を仮定しないと、暗くなることを説明することができず、日食の時にはそうした存在を太陽と戦う竜または蛇の姿として見る、そういう場合である。光に敵対する特殊な存在としての闇は、その根拠を知的な闇のうちにのみもっている。つまりされは空想のうちのみ存在する。

ルートヴッヒ・アレンドレアス・フォイエルバッハ「将来の哲学の根本命題」

2016年8月21日日曜日

戦争理想化から現実化の自覚

 わたしはある新聞で、人の心には名誉を欲する貴い要求があって、根こそぎぬくことは難しいから、戦争というものは耐える時がなかろう、とくわしくのべた論文を読んだ。
 この戦争賛美者は、感激とか、正当防衛とかで、戦争を多少理想化してだけ考えているが、もし彼等がアフリカの戦場の一つである原生林を旅して、重荷に堪え難くて倒れ、さびしく路上に死んだ人夫らの死体をあいだを歩いたらとしたら、また、原生林の暗黒と静寂の中で、その罪もなく霊感もない犠牲者を前にして、戦争とはそれ自身どんなものであるかを考えたとしたならば、彼等も自覚するに到るであろう。

 各国の白人は、遠い国々を発見して以来、有色人種のために何をして来たろうか。イエスの名を飾りとしたヨーロッパ人が入り込んだところでは、すでに多くの種族は死に絶え、あるものは耐えようとし、あるいは減少して行く。この一事実はそれだけでも何を意味するか! 有色人種が数世紀にわたってヨーロッパ人から受けた不正と残忍さとを誰が記録できるか? われわれがもたらした火酒といまわしい疾病とが有色人種のあいだに生んだ不幸を誰が測りえようか!
  われわれも、われわれの文化も、ひとつの大きな責任を負っている。われわれはかの地の人々に全をおこないたいとか、おこないたくないとかの自由をまったくもたない。おこなわなければならないのである。われわれが彼等に善をおこなうのては事前ではなくつぐないである。
 
 不安と肉体の苦痛とがどんなものであるかを、体験した者は、全世界でつながりをもっている。神秘なひもが彼らを結んでいる。彼らはみなたがいに、人間を征服できる恐るべきものと苦痛からのがれたいことを知っている。一度苦痛を不安を知らされた者は、人力のおよぶかぎりこれを防ぎ、自分が救われたように他人にも救いをもたらそうと助力しなければならない。

アルベルト・シュヴァイツェル「水と原始林のはざまで」




2016年8月20日土曜日

征韓論と文明開花による正義の犠牲

 私は、アメリカ合衆国のマシュー・カルブレス・ペリー提督こそ、世界の生んだ偉大な人類の友と考えます。ペリーの日記を読むと、彼が日本の沿岸を攻撃するのに、実弾にかえて賛美歌の頌栄をもってしたことがわかります。ペリーに課せられた使命は、隠者のくにの名誉を傷つけることなく、また生来のプライドを棚上げしたままで、日本を目覚めさせるという、実に微妙な仕事でありました。彼の任務はほんとうの宣教師のしごとでありました。「天」からの大きな助けによって、世界を治める方に捧げる多くの人々の祈りとともに、はじめて達成される仕事であります。世界の国を開くにあたり、キリスト信徒の提督を派遣されて国は「まことに幸いなるかな」です。
 キリスト信徒の提督が外から戸を叩いたのに応じて、内からは「敬天愛人」を奉じる勇敢で正直な将軍である西郷隆盛が答えました。二人は、生涯に一度もたがいに顔を合わせることはありませんでした。たがいに相手を称えることも聞いたことがありません。だが、二人の生涯を描こうとする私どもは、外見はまったく相違しているにもかかわらず、両者のうちに宿る魂が同じであることを認めます。知らぬ間に二人は共同の仕事に参加し、一人が始めた仕事を、残る一人が受け継いで成就したのです。このように、ただのくもった人間の目には見えなくても、思慮深い歴史家の目には見事に「世界精神」が「運命の女神」の衣装を織りなすのがわかります。

  西郷隆盛は、日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめるに足る侵略策が必要とみたのです。西郷には日本国が東アジアの指導者であるという一大使命感が、ともかくあったと思います。
 征韓論ほ抑えたことにより政府の侵略策は全て消え、日本国はいわゆる文明開化一色となりました。それとともに、真の侍の嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔軟、優柔不断、明らかな正義をも犠牲にして恥じない平和への執着、などがもたされました。

 内村 鑑三 「代表的日本人」一西郷隆盛


 

2016年8月19日金曜日

平時は保護し戦時は徴兵する兵制

兵 制

 しかりといえども各地について徴兵の情を察するに、父母に別れ家郷を離れ、遠く戦地に苦役せらるるを悲しみ、規避百端、ついに泣訣し伍に入る者すくなからず。已に戦地にあっては、将校の節制を受け、奮前決闘をよく死を致すといえども、死報家にいたれば、親戚哀痛限りなく、老者あるいはこれが為に命永を縮むるに至る。新たに徴兵せらるる者は、これを視て規避をなすまた前日の比にあらず。かつ曰く、租已に軽からず、また戦いに没せられる。曰く、死傷すれば一家飢餓を免れずと。彼の少壮戦地にあって決死するの状は已に長上の視る所にして、父老の郷里にありて哀痛するの情は、未だ長上の知らざる所なり。
 その地出るの子、戦死して髪の毛家に到る、老父悲嘆ついに病に臥して立たずと。西賊の猛威なるに当てや、常兵の乏しからんを慮り、輩下の巡査を派遣し、また新たに召募し、その足らざるを補う。それ巡査は不慮をいさめ遺誡をただすをもって職とし、軍属の人あらず。故にその発遣の日、これを辞せんと欲して能わず、ゆうゆう途に上る者あり。軍給の平日より多きを利し、自ら出で切求する者あり。しかれども元と迫撃を好み拿捕を能くするの性質を有し、志願を以ってこの勤に服するを以て、賊を切り塁を抜き、毎々寡黙を奉するに至れり。即ち兵制や、平時は人民を保護し、事あれば近衛六類の羽翼となる。軍国に益する、あに少々ならんや。

木下 真弘「維新旧幕府比較論」(社会)

2016年8月18日木曜日

戦争は政府の道具と賭博

  政府は、戦争を道具として使役する。そこで政治は本性から必然的に生じる一切の峻厳な帰結を回避し、また遠い将来にに可能となるような成果などには眼もくれずに、ひたすら手近かにある確からしい成果だけに心を配るのである。そのために事態全体が甚だしく不果実なものとなり、戦争は一種の賭博となる。そこで各国の内閣に操られる政治は、この博打における練達な技量と洞察力とにかけては我こそ敵に勝る天晴れな者よと、自負して、互に功技を競い合うまである。
 このようにして政治は、戦争の本領、即ち何ものをも征服せねば止まぬ激烈な性質を骨抜きにして、戦争を単なる道具に化すのである。本来の戦争は、いわばもろ手で柄を握り懇親の力をこめて振り上げ、一度打ちこめば二度とやり直しのきかない太刀のようなものである。ところが政治の手にかかると、この太刀も華奢な細身の剣となり、それどころか時には試合力ともなり、政治はこれをもって突き、ファント、パラド等の技を自在にこなすのである。

カール・フォン・クラウゼヴィッツ「戦争論」


2016年8月17日水曜日

孫子ー能自而全勝也ー専守防衛勝利

 「孫子」 第四 形篇 一

  孫子はいう。昔の戦いに巧みな人は、[まず味方を固めて]だれにもうち勝つことのできない大勢を整えたうえで、敵が[弱点をあらわして]だれでもがうち勝てるような態勢になるのを待った。だれにもうち勝つことのできない態勢を[作るの]は見方のことであるが、だれもが勝てる態勢は敵側のことである。だから、戦いに巧みな人でも、、[見方を固めて]だれにもうち勝つことのできないようにすることはできても、敵が[弱点をあらわして]必ずだれでもが勝てるような態勢にさせることはできない。そこで、「勝利を知らていても、それを必ずなしとげるわけにはいかない。」といわれるのである。だれにもち勝てない態勢とは守備にかかわることである。だれもが打ち勝てる態勢とは攻撃にかかわることである。守備をするのは[戦力が]足りないからで、攻撃をするのは十分の余裕があるからである。守備の上手な人は大地の底にひそみ隠れ、攻撃の上手な人は天界の上の上で行動する。[その態勢をあらわさない。]だから見方を安全にして、しかも完全な勝利をとげることができるのである。

2016年8月16日火曜日

哲学の体系は戦闘的な防圧

 蜂の巣の中にただ一匹の女王蜂しかありえないように、日程に上る哲学は一つのみである。つまり体系というものは、くものように非社会的なものである。くもはそれぞれ単独で自分の巣の中に構えていて、何匹のはえがそこにかかるのを見守っているが、しかしほかのくもにはただ戦わんがためにのみ接近していくのである。こうして、私人たちの作品は子羊のように、柔和に相並んで生を楽しんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、それに加えてその破壊欲においても、さそりやくもや二三の昆虫の幼虫のように、主としてその同族のものをめがける傾向をもっている。
 そして今日にいたるまでこの兵士たちのように、すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。この戦闘は、すでに二千年以上も打ちつづけている。その中から、いつか最後の勝利者と恒久平和が出現するようになるであろうか。このように哲学の体系は主として戦闘的な性質をもち、それらが万人の万人に対する戦いを現じているために、哲学者として勢力を得ることは、詩人として勢力を得ることよりも、無限に困難なことである。なぜといって、詩人の作品が読者に求めることは、読者をたのしませあるいは感奮させる書物の系列の中に歩み入ってきて、たかが一、二時間の関心を傾けるというだけではないか。
 これに反して哲学の著作は、読者の考え方をすっかりくつがえそうとするものであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じていた一切のものをみずから誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを読者に求める。それが存続させるには、たかだか一人むの戦陣の遺跡の二三にすぎず、そしてこれを自分の基礎として使用するのである。その上、哲学的著作にとっては、既存の体系の読者の一人一人が公儀上の敵対者であり、それどころか、時には国家でさえも自分に好ましい哲学体系の保護者となり、その強力な物資的手段によってあらゆる体系の出頭を防圧するのである。

アルトゥル・ショーペンハウアー「知性について」

2016年8月15日月曜日

全国戦没者追悼式 【日本天皇陛下】

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に71年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
平成28年8月15日(月) 日本武道館【日本宮内庁】

  On this Day to Commemorate the War Dead and Pray for Peace, my thoughts are with the numerous people who lost their precious lives in the last war and their bereaved families, as I attend this Memorial Ceremony for the War Dead with a deep and renewed sense of sorrow.
  Seventy-one years have already passed since the end of the war, and our country today enjoys peace and prosperity, thanks to the ceaseless effort made by the people of Japan, but when I look back on the sufferings and tribulations of the past, I cannot help but be overcome with deep emotion.
   Reflecting on our past and bearing in mind the feelings of deep remorse,  I earnestly hope that the ravages of war will never be repeated. Together with all of our people, I now pay my heartfelt tribute to all those who lost their lives in the war, both on the battlefields and elsewhere, and pray for world peace and for the continuing development of our country. 

August 15th, 2016 Japan Budokan【Imperial Household Agency in Japan】

生と死の謎

 精神は諸々の生関係とそれに基く諸経験とを全体に総括しようとするが、それを果たし得ない。生殖、誕生、成長及び死が一切の不可解の中心話である。生けるものは死について知っているが、しかし、死を理解することは出来ぬ。死者を初めて見たときから死は人生にとって理解すべきからざるものである。
 そうして我々が世界に対して何か他のもの、異様なもの、または恐ろしきものに対する如き態度をとるのは、何よりもこのところに基いている。従って死という事実の中には、この事実を説明する想像的観念を強要するものがある。死者の信仰、祖先の崇拝、死者の祭祀が宗教的信仰や形而上学の基礎観念を生む。
 永遠の闘争、他の生物によってある生物が絶えず滅ぼされること、自然を支配しいてるものの残忍さ。これらのことを人が社会や自然において経験するにつれ、生の異様さは増大する。生活経験において次第に強く意識されてくるが、決して解かれることのない様々の奇異な矛盾が現れてくる。すなわち、一般に諸行無常なることと確固たるものに向かう我々の意志、自然の力と我々意志の自立性、時間空間内のあらゆる事物の被限定性と如何なる限界をも超越する我々の能力がこれである。今日のキリスト教の牧師の説教と同じ様に、この謎の解決に従事したのである。

              ウィルヘルム・ディルタイ「世界観の研究」

2016年8月14日日曜日

世に恐る偏理者と執迷者

 世の恐るべきは偏理哲学者と、執迷的盲信者なり。彼らはその周囲に何の頓着する所なく、その見る所直ちにこれを語り、その語る所直ちにこれを行わんとす。彼ら自身即ち社会不調和の要素にして、彼らはいかなる時世らおいても、社会不調和の要素にして、彼らは如何なる時世においても、社会の治安と相容と相容されざる厄介物なり。切言すれば彼らは革命の卵子なり。経世家はいからず、時勢を観、人情を察し、如何なる場合においても、調子の外れの事を為さず。その運動予算の外に出でず。その予算成敗の外に出でず。
 彼らは恐るべき大力量あるも、殆ど恐るべき運用をなさず。故に恐るべきは、ビイマルクにあらずしてルソーにあり、島津斉彬にあらずにして吉田松陰にあり。彼らはその力量に比較して、ややもすれば大なる出来事の張本人たり。何となればその結果に頓着せずして、その前提よりも奮進すればなり。いわゆる晴天に霹靂を下し、平地に波乱を生じるもの、実に彼らの仕業といわざるを得ず。徳川時代にあにさの人なからんや。
 偏理的哲学も、冷酷なる論理のみならば、まだしものことなれども、その一たび宗教的熱気と触るるに至りては、実に甚だ恐るべきものなからず。その時においてもあたかも酒石酸水に重ソーダを投ずるが如く、こつ然として沸騰し来るなり。しこうして、徳川時代における偏理的儒教は、早くも神道と抱合し、尊王攘夷、大義名分、倒幕復古、祭政一致の理想を連互するに至れり。これあに儒教と神道との化合したる鉄案にあらずや。

徳富蘇峰「吉田松陰」

2016年8月13日土曜日

「国体」からの「天皇」

 「国体」は、過去・現在・未来を通じて天皇を統治権の総覧者とする独特の国柄、という意味をもってこの用語は不可侵性を帯び、国民を畏怖させました。もともと一般的に国家の形態や体面を意味していた国体の用語が、日本独特の国柄との意味を持ち、また多様されるに至ったのは、幕末の対外的な危機の到来を引き金とします。日神の子孫である天皇が皇統を継いでいるという意味で、それも日本の比類のない価値をづけを盛り込んでいます。結果として国体論は、1) 天皇の一系支配 2) 天皇と億兆の親密性 3) 奉孝心の3つの要素をを軸とする国柄との論へゆきます。
 「国体論」は「昭和」の時代に、人びとの思想を規制するうえでとくに猛威を振いました。「昭和」に入る直前の1925(大正14)年に制定・施行された治安維持法は、第一条に「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」として「国体」の二文字を法律の条文に登場させました。三年後にこの条文は、緊急勅令をもって、国体変革と私有財産否認の二項に分離されるとともに、前者については最高刑が死刑にまで引き上げられます。そこには「国体」を「天皇制」に捉えるマルクス主義およびその運動の出現にたいする恐怖と敵意がむき出しになっていました。その国体の観念は、1931(昭和6)年のいわゆる「満州」事変以後、戦時体制化が進むとともに、人びとを精神的に動員するためのキーワードとして日本に溢れ出します。
 国体論の跳梁でした。戦時下(1937(昭和12)年-1944(昭和19)年)のキーワードを分析すると、「戦時下用語」に関しては 1)聖旨 2) 一億一心 3) 東亜新秩序 4) 御稜威 5)国体 「天皇」に関しては1) 聖旨 2) 御稜威 3) 国体 4) 大御心 5) 皇恩 でありました。
日本は国体の大本が輝いていること、日本が一大家族国家で臣民は自然の心のあらわれとして天皇に絶対に従うことが強調されました。
 されだけの畏怖性を備えるため、ほとんどだれも、正面を切って国体を否認することはできませんでした。国体は大戦後の民主主義で歴史上の名辞と化しましたが、人々を畏怖させる力を、なまの暴力性を伴って潜在させています。国体は休火山にはなったが、死火山とはなっていません。

 鹿野 政直「近代日本思想案内」



 

2016年8月12日金曜日

欲望は野心と支配を動かす

  人は最も文明的な、ヨーロッパのどこかの州における人間の生活と、新インドの最も野蛮な、どこかの地方における生活との間に、どれほど距りがあるかをよく考えてもらいたい。彼は、単に援助や福祉のゆえばかりでなく、生活状態の比較によっても、まさしく「人は人に対して神である」と、当然言うことができるほど、差異があると判断するのであるろう。そしてこのことは、土地でも風土でも体質でもなく、まさに技術が与えるのである。
 さらに、発見された事物の力と効能と結果とを、見守ることが望ましい。それらは他でもないかの三つのこと、古代人には知られず、その発端はたとい近くであっても、あいまいで世に知られている三つのこと、すなわち印刷機、火薬、および航海用磁針に明瞭に示される。
 というのも、この三者は世界の事物の様相と状態とを変革したからでだが、すなわち第一はのものは文筆的なことがらにおいて、第二は戦争関係のことで、第三は航海に関することにおいて、そしてそこから、数限りない事物の変化が続いた。したがって、人間的な事がらに対して、より大きな効果および影響のごとき、及ぼしたとは見えないほどである。。
 のみならず人々の野心の三つの種類、いわば程度を区別することも、不当ではないだろう。第ーは、自分のの祖国において、自分の力を伸ばそうとと欲する人々のそれであって、この類の野心は通俗的で、また変性している。第二は、祖国の力と支配を人類の間に伸長することに努める人々のそれであって、これは前のより、品格はあるが、しかし劣らず欲望に動かされている。
 ところがもし人が、人類そのものがも全世界への力と支配とを、革新し伸長することに努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそは、残余のものに比べて、より健全でもあればより高貴であるもある。しかるに人間の事物への支配は、ただ技術と、知識のうちにある。自然はこれに従うことなくして、命令されないからである。

フランシス・ベーコン「ノヴム・オルガヌム」


2016年8月11日木曜日

きけわだつみのこえ(戦没学生の遺稿)

 自分の短い一生はもう幕切れに近づいたらしい。戦争に参加してしまえば、もうそれで自分は一生を閉じたのだ。万一にも生きて帰れたら、そしたらそこで新しい一生の一幕が上げられるのだ。そこで新たに設計して新たな生活を築こう。短い一生を回顧して、思い出ずるままに何か書き残して置きたい。それは世紀末のあわただしさ混乱に似たものかもしれぬ。これからあと、四、五十日の余命と思って、最も冷静な態度で永遠の真理を勉学することが念願だ。その余暇に、二十年ちょっとの、我が人生というにも恥しき生涯をふりかえってみたい。
 現在の人間の最も願っているものは「平和」である。平和とは何か。真の平和をいうならば武力の戦いが終わっても、資源戦、経済戦など結局人類の滅亡まで、平和は到来しないであろう。最近の書籍にちょいちょい観られるのは戦争の倫理性ということである。戦争の倫理性なんて有り得るものであろうか。人を殺せば当然、死刑になる、それは人を殺したからである。戦争はあきらかに人を殺している。その戦争を倫理上是認するなんて、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。大乗の立場、大乗の立場と強調される。大乗の立場から戦争をみるなら何故人を殺さぬでもよいようにしないのか。人を殺している間に、大乗、小乗などの区別はあるものか。すべて悪である。死んだ人間に生を与えるなんて、近代哲学の現実に対するへつらいにすぎない。哲学はあくまでもリードするものであるはずだ。過ぎ去った者に道徳性を与えるなど、文化の恥辱、人間の自己の行為の欺瞞だ。
1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部入学、
1945(昭和20)年5月27日 ミャンマー(ビルマ)にて21歳で戦死。

松岡 欣平

2016年8月10日水曜日

自衛権の発動とは何か

 日本の満州経営は一朝一夕の事ではない。満蒙が国防上または経済上我が国にいかなる関係を有するや今更努説するけが野暮だ。我が国はこれがために一度国連を賭してロシアと戦った、その後支那政府の諒解を得ていろいろの権益をこの地方に設定した。しかるに最近彼くに官憲は種々の口実を設けては権益の完成を助ける。甚だしきは既に完成したものを蹂躙する。信義にもとって我が国人の生存発展を阻止するが如き事実は数売るにいとまない。かくして満鉄線路爆破という突発事件に機会を見つけて今次の事変が勃発したのである。 さてそういう意味で起こったとすれば、今次事変の行き着く先はほぼ自ら明白はずだ。この事変を通じて我が国の民国に望むところは最小限において既得権益の尊重でなければならぬ。これは理においても当然であるが、しかし実際の問題になるとしかしくその範囲が明瞭でない。それは第一に既得権の内容について彼我の間に著しい見解の相違があるからである。そこで我が国はややもすると遠い外国からの侵略的なると誤解されるわけであるが、これに対して我が国官憲は断じて侵略の意志なきを中外に声言し頼りに一切の行動は自衛権の発動に外ならない旨を弁解して居る。 満州における軍事行動は、時を経るに従って段々趣を変えて来ているようである。初めはなるほど単なる自衛権の発動であったかも私レない。今日では自衛権の意味をよほど広く取らねば説明のつかぬことが多い。しばらく一変の理屈を弄ぶを許されるなら、一体自衛権の発動として非常行動に出て得るのは、重大なる利害が不当の脅迫にあいその状態のこうむる急な場合に限るのである。普通の個人間にあってはその際相手方を必要以上に追窮するのはそれ自身また一不法行為として難ぜられるが、国際間では必ずしもしからず、禍根を絶つことも場合によっては自衛権の圏内として許され得んも、事実の認定に格別慎重の注意を加うべきは言を待たない。更に進んで自衛権の発動として達せんとする目的のうちに繋争権益の確認とか将来の保障のための新義務の負担とかを含まし得るかというに「戦争」の結果ならばいざ知らず、単純な自衛権の発動の結果としては些か無理だと思う。現に我が国は他日の撤兵交渉において永年我の主張し彼の避妊し来たり諸権益の新たなる確認を要求、排日雑貨の将来における取り締まりにつき厳重なる義務を負担せしめ、更にまた条約一般尊重の再確認を約せしめて、例えば二十一カ条問題のごとき脅迫を理由とする条約の一方的無効宣言を防ごうとして居るとやら。いずけも我が国としては至当必要の要求であるが、しかしこれを自衛権の発動の当然の要求するのはいささか理屈に合わぬと考える。しかして必要当然の要求なら何も自衛権の文字に拘泥するには及ぶまいと考える。

「吉野作造評論集」

2016年8月9日火曜日

家と主観的な故郷の攻防

 なじみの道と近い関係にあるのが家と故郷である。
 故郷はまさに環世界の問題である。なぜなら、それはあくまでも主観的な産物であって、その存在についてはその環境を非常に厳密に知っていてもほとんどなんの根拠も示せないからである。問題は、どんな動物が故郷をもち、どんな動物がもたないかである。
 おそらく、非常に多くの動物が自分の猟場を同種の仲間から防衛し、それによってそこを故郷にしているのがわかるだろう。任意の地域を選んでそこに故郷領域を描きいれてみると、それはそれぞれの種について、攻撃と防衛によって境界線がきまる一種の政治地図のようなものになる。しかも多くの場合、空いた土地は一つもなく、いたるところで故郷と故郷がぶつかりあっていることが明らかになるであろう。
 猛禽の巣と猟場の間には、中立地帯があり、彼らはそこでは普通いっさい獲物を襲わないという、大変注目すべき観察がある。この環世界の区分は、猛禽が自分のひなを襲うのを防ぐために自然によって与えられたものだと鳥類学者は考えており、おそらくこの推察は正しいであろう。よく言われるように、ひなは巣立ちして親の巣のそばで枝から枝へ跳んで過ごす時期に、自分の親に過って襲われるという危険に遭いやすい。このため、ひなは保護地域である中立地帯で数日間安全に暮らすのである。この保護区域にはいろいろな小鳥がやってきて巣を作り、ひなを育てる。ここなら大型の猛禽に守られて、安全にひなを育てられるからである。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「生物から見た世界」

2016年8月8日月曜日

出生不平等からの階級差別

国 家

家族の自然的社会は一般的国家的社会に拡大される。国家的社会は自然性に基いて建築された結合であると共に、また自由意志によって結ばれた結合でもあり、法に基づくと共に道徳にも基づくものである。しかし一般的にいえば、国家的社会は本質的には個人から成り立った社会であるというよりは、むしろそれ自身として統一した、個性的な民族精神と見られるものである。
 国家学とは、それ自身において生きた有機的全体である民族がもつところの体制の叙述である。
 国家は一般的なものとして個人に対立する。国家はその一般的なものが理性に一致するだけ、また個人が全体の精神と一つになるだけ、ますます完全になる。国家とその政府に対する市民の本質的な心情は、政府の命令に対する盲目的服従にあるのではなく、また国家の制度や処置に対して各人が唯々として賛意をあらわさなければならないということでもない。ただ国家に対する信頼と賢明な服従にある。
 国家はその体制の契機となす種々の権力を持つ。立法権、司法権、行政権は一般に権力の抽象的な契機である。実在的な権力は全体を構成するところの権力、すなわち裁判権と警察権、財政上と行政上の権力、軍事上と政治上の権力であって、それらの各々の中にはじめていまいう抽象的な契機が現れるのである。しかし、それらのすべての権力行使の最高の中枢は政府である。
 骨格の各種の身分は一般的に具体的な区別であって、それに基づいて個人は階級に分けられる。階級は主として富、関係、教養の不平等に基づく。しかし、これらの不平等はみた一面では出生の不平等に基づく。しかも、この出生の不平等によって個人の国家に対する活動に差別が生じ、ある者は他のものよりもより多く有用だという、有用性の差別が生じる。
 憲法は諸種の国家権力の分立と関係、及び各々の効力関係を確定する。特に国家に対する関係から見た個人の諸々の権力と個人が政府の選挙に当って、のみならず一般的市民である限り持つはずの個人の参与の範囲を決定する。
 慣習、法律、憲法は民族的精神の有機的な内面的な内的生命を構成する。民族精神というものの原理または洋式と規定がその中に現れれている。その他に民族精神は外的な関係と外的な関係と外的な関係と外的な運動を伴う。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「哲学入門」

2016年8月7日日曜日

戦争に懲りない戦争

1945(昭和20)年1月1日

昨夜から今暁にかけ3回空襲警報となる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない。
 配給のお餅を食って、お目出とうをいうとやはり新年らしくなる。曇天。
 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だからといって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんとうに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄であることに酔う。第三に彼らに国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
 当分は戦争を嫌う気持ちが起ろうから、その間に教育をしなしてはならない。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
 日本で最大の不自由は、国際問題において、相手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできなぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。
 日本が、どうぞして健全に進歩するようにーそれが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命をたどるのだ。いくくでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考えを捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るようにー。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようでは国民に見込みはない。
 僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世を目指して努力しよう。
 本年の予想ードイツは本年度中に敗戦するであろう。大東亜戦争は本年度中には片はつくことはないであろう。ダンバートン・オークス案は成立するであろう。そうすると日本だけが、孤立奮闘するような事情が生まれるであろうことも想像できる。

清沢 洌 「暗黒日記」


2016年8月6日土曜日

大陸の土を踏む従軍看護婦

大陸の土を踏む

 大本営陸海軍の臨時ニュースが入る。「帝国陸海軍は1941(昭和16)年12月8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。ラジオは、ハワイ真珠湾のアメリカ軍太平洋艦隊を全滅させたことを伝えた。1931(昭和6)年満州事変、1937(昭和12)年支那事変が始まる。「八紘一宇(はっこういちう)」の合言葉により、全世界を一つの家とし、その家の家長は日本の天皇陛下である。勝利のちょうちん行列がにぎやかに行われた。「大東亜共栄圏」は間近と信じた。
 看護婦は婦人職業の花形だった。17歳の時に松江赤十字看護養成所に入学する。連隊責任がおしつけられ予告なしに私物検査があった。不愉快な思い出として残る。「1億火の玉」「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」という標語により、男子はカーキー色の国民服と坊主頭、女子はモンペ姿に統一される。「外地派遣救護要員トシテ召集セラルル筈ニ付承知相成度候也」と赤紙が来る。
 釜山連絡船興安丸に乗り込む。行ん先は知らされず。「飯飯進上」と浮浪児が残飯乞いに群がる。列車でEさんの帽子が飛ばされ「陛下からいただいたものを」と始末書を取られる。南京第一陸軍病院は、国立中央大学を接収した病院でベッド数1500床、看護婦1000人いた。「患者に母性愛を持ってはいけない」「石のようになって働け」「伝染病結核病棟に勤務して感染したら恥辱と思え」と言われ、看護婦の病気は私傷であった。罹患しちら最後、国から見放される。秋になると流行性脳脊髄炎の患者がどっと入院してきた。弟の戦死を知り忍び泣く。
 1945(昭和20)年が明けると、戦局はいよいよ不利になり、甘い物は少なく、白衣も草色に染めた。看護婦は軍服を着て「女の兵隊」と言われる。隣村のKさんと会う。彼は防疫給水隊に勤め、そこが細菌研究所であることは、公然の秘密として知れ渡っている。パンをあげて、だましてクリークを連れて来て生体実験して殺していると誰言うことなく言われていた。1945(昭和20)年7月25日、患者を迎えにトラックで出かけた時に、機関銃掃射にあう。患者は石炭船で輸送される。勝った勝ったの戦況報告とは信じられない惨状であった。よくもこんなに死ぬものと思うほど死人が出た。
 1945(昭和20)年8月15日に敗戦となる。「陛下の赤子として力が足りなかった」と自殺者が続いた。日本軍は南京市市民老若男女4万2000人を虐殺し、南京進撃中にも30万人の中国人を殺していたと言われる。軍の関係者が汚れた過去を消すため、防疫吸水隊の建物を爆破する。1946(昭和21)年7月に内地に帰る。

白の墓標銘(従軍看護婦の記録) 鈴木 妙子


2016年8月5日金曜日

麻山事件(婦女子400名の自決)

 満州の野に、婦女400名が自決する。1945(昭和20)年8月12似に満州の東部国境に近い麻山において避難途上にあったハリバ開拓団の一団が、ソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子約4百数十名が自決する事件が起こった。介錯は十数名の男子団員により、小銃を用いて行われた。男子団員は、その後ソ連軍陣地に斬りこむことになっていたが、果たせずまもなく終戦を迎え、その過半数し新京ハルピンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している。新聞が取り上げ報道する。麻山事件の男達は口を開こうとしない。だからこそ身をよじるような痛烈な痛みに傷口から血をしたたらせその十字架の重みに耐えている。性格に記録したいと思う。
 加藤完治は、我が国の過剰人口と過小耕地の問題の解決に満州に求めた、「開拓の父」と呼ばれた。1932(昭和)7年に第一次の武装移民集団423人が渡満州し入植する。1937(昭和12)年に20数年らわたり百万戸送り出す計画へと発展してゆく、終戦時に青少年義勇軍は、8万530人となる。加藤完治の率いる職員は誰も傷つくことなく、日本に帰ってきている。戦犯の追求を恐れて、福島県白河市に入植する。彼は満州に行った開拓者が、生きて帰ねのは不思議だ。全部死んでもよかったと言った。「満州は10年の間に整備されてゆき天照大神を祀る。家族を呼び。学校も出来る。」といっていた。
 満州の気候は、冬期が厳寒であるのに、夏は猛暑が襲うという大陸的気候である。雨量は日本の1/2から1/3であり、北と南でし農耕法も当然違っている。東北満州は雨量が多いと黒色重粘の土壌は、一度強い雨が降れば、平均3〜6尺の表土にたい水して、それが強い日光に照らされるとコンクート状に固まり、毛根の発生が破壊され枯死する。スコップ1ちょうも馬も日本の物ではだめである。1945(昭和20)年ころには、食料の供給状況は悪化し、開拓団も裸で供出する所まで追い込まれる。7月に入って全満州かせ「根こそぎ動員」が下令される。「まぼろしの関東軍」からも日本政府からも見放された。
 1945(昭和20)年8月9日に日ソ開戦となる。30余機の襲撃死に死に狂いの列車争奪の悲痛な叫びと凄まじさ、悲痛な叫びと断末魔の呻き声が起こる。古川吉岡も家族を撃ち殺す。「私を殺して下さい。と女達が声をあげる。自決しよう。晴着を着て水盃を交わし、みな鉢巻をしめており、覚悟の様子が解る。集団自決の現場を前にして「正に魂も昇天する驚愕」と言っている。苦悶する婦女子に、とどめの弾を撃って楽にしてやりたい。そんな余裕がなく結局は成し得なかった。大勢集まって休息しているように見えた。近づいてみると400人くらいの婦女子が自決している。皆んなうつぶせで死んでいた。現場から7人の子供が現地人に助け出された。1947(昭和22)年5月には汽車の窓から白骨が真白になるほど散らばっていた・そのあと昼も白く青光りする燐の燃えているのが見えた。死臭は4Km先からも臭ったという。
 先頭集団が、ソ連軍に壊滅した後でも、2Km後方には何の情報も入って来ない。青校正は「団長以下全員自決玉砕す。斬込隊編制のため全員集合せよ。」茫然自失した福地医師から「斬込みに婦女子を連れて言ってどうする。」と強い叱責を受ける。そのために救われる。上野勝は死んだと思った妻と子にばったりと会う。彼は麻山の人々に対する追目をさらに深くする。1957(昭和33年)7月にハルピン副団長として処理を済ませ、ひっそり南米ボリビアに渡り奥地にある日本移民として入籍し、密林に斧を振う。満州国の皇帝溥儀は、建国以来13年5ケ月で歴史を終えた。1943(昭和18)年ハタバに飛行場が出来る。一度も使用せず、敗戦後に中国大陸の日本人捕虜に使われた。1日に蒸しパン3個で鞭で追い回し仕事をさす。労役の果て、軍機保持のためにひそかに処分された噂もある。

 仲村 雪子

2016年8月4日木曜日

取囲む生殺の権利の暗雲

 父親と君主との間、生活難の重荷を負わされている貧者と更に一層苦しい悩みの下にため息をつく富者との間、無知な女と不評判な博識家との間、惰眠を貪る者とあの鳶のような力が全世界に影響する天才との間に溝渠がある。
 しかし高い地位にある一方の人に純粋な人間らしさが欠けているならば、そこでは暗雲が彼を取り囲むであろう。ところが賤しい伏屋にあっても陶冶された人間らしさは、純粋な気高いそして足るを知る人間の偉大さを自分から放射する。
 だからたとえ高い位にあって、一人の君主が彼の囚人のために賢明な正しい法律を渇望しても、おそらく彼は黄金の一杯はいった財布をその経費として浪費することになるであろう。ところがもし彼が軍事会議において、自己の家の内部においては、また狩猟局と税務局とにおいて、人間らしさを発揮し、自己の家の内部においては純粋な親心を発揮するならば、彼は彼の囚人の裁判官や守衛を賢く真面目にそして父親らしく陶冶するようになるであろう。
 こうしたことがないならば、聡明な法律の文句も無情な人の口にする隣人愛の言葉と選ぶところはない。君主よ、汝はおそらく汝の求める心理の浄福からそのように遠く離れているであろう。
 ところが汝の脚下の塵埃の中にいる世の父親たちは、不良な息子たちを賢明に取り扱っている。君主よ、彼らの眠らぬよるの涙のうちに、また彼らの書の重荷の苦しみのうちに、汝の囚人のために智慧を学べ。そしてこのような道において智慧を求める人々に、汝の有っている生殺の権利を与えよ。君主よ、この世の浄福は陶冶された人間らしさであり、そしてこの人間らしさによってのみ啓蒙と智慧とそして一切の法律の内的浄福との力が働くのである。

ペスタロッチー「隠者の夕暮れーシュタンツだより」

2016年8月3日水曜日

水子の譜

 引揚孤児と犯された女たちの昭和史の記録である。富田糸絵は30歳を過ぎた混血の女性で、引揚船の中で生まれた。中国でソ連兵に犯された母親が産んだ。白い肌、青く澄んだ眼で、福岡のジーパンセンターで働く。聖福寺境内の引揚げ孤児施設に、母親が置いて駆け落ちてゆく。託児所に預かれて育てられた。劇場主に里子に出す。夫婦に三人の女の子が生まれる。二日市保養所はひそかに治療回復させる施設である。強姦によって女性に堕胎手術が行われ、性病も治療された。糸江は大阪で結婚し、キャバレーにも勤めたこともある。養母は彼女に静かにしてくれと言う。「博多に行けば何とかなる」と思い博多に来たる朝鮮人滞留者は常に1万5千になり、引き上げた来た邦人の数は32万人になり、送還した朝鮮人は49万人にのぼる。
 聖福寺を借り受けて病院にする医療救護は。泉靖一が組織する。才能を持った人で、政界にあれば大臣が務まるような男であった。1947(昭和22)年に14人と保母さんが集まって話合う。「引揚」「病気」「親との死別」という三重苦を受けた恐怖で神経や精神が冒されている。引き取り手のない子供は、孤児施設の松風園にひとまず入れる。1947(昭和22)年4月5日、最後の引揚船である恵山丸が入港し、その業務を終える。220人にコレラ患者、67人のコレラ死亡者を出した。引揚の専従職員は1500人にのぼる。聖福寮は1947(昭和22)年3月に任務を終える。1947(昭和22)年3月18日に、「宿泊託児所聖福子供寮」として開設する。泉靖一の人間に対するやさしさと、福岡友の会の若い女性達の努力の結果により、児童33名、保母9名で開所する。1952(昭和27)年に「いずみ保育園」と改めた。1965(昭和40)年4月に閉院になる。寺総代が境内借地からの立退をすませた 。
 二日市保養所は、京都帝大医学部のメンバーがその任に当たる。中国大陸に残留した一般邦人の引揚は、米軍艦艇の大量配船によって1年で終結した。二日市保養所は、不法妊婦堕胎のための秘密病院であった。日本軍も南京占領時、外人の証言によると2万人の強姦事件があった。性病検診とその治療が行われた。日本民族の防衛が目的で、女性の深い傷に思いを寄せる人は誰もいない。
 人工妊娠中絶手術は、橋爪医師が1人でする。不法妊婦47名、性病11名の患者がいる。8か月以降の堕胎児手術には穿頭手術を施す。特殊なノミの様な器械を入れる。泣きもせずに脳が出て、桜並木の土手に埋められる。済生会二日病院は、病院では時々腑に落ちないことが起きる。土地や建物に付いた霊を慰めるため、年に一度祈祷師を招いておはらいをする。暴れて困った手術の人はいない。なすがままで、無邪気な状態であった。麻酔もされずに手術台に乗り、一つあげない女達、片すみで力なく泣き声をあげた赤ちゃん、そのおぞましさに戦慄する。
 1946(昭和21)年4月25日、博多港に婦人健康相談所が設置される。国立福岡療養所、九大、久留米医専の病院などでも手術や治療が行われた。不妊妊娠の女性だけでなく、正常妊娠でも先行き不安から申告して堕胎するケースもあった。佐世保湾内に浮かぶ針尾島には「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を発した無線機がある。最近では原子力船「むつ」の修理港にも、当時は何千人と着く復員軍人や一般引揚者を受け入れて、また吐き出す。宿舎には1日数万人を賄う炊事場、浴場の大煙突を中心に、附属病院、郵便局出張所、そして悲しい火葬場までを持つ小都市になっていた。

上坪 隆

2016年8月2日火曜日

方丈記は徹底せざる無常

ゆく河のながれはたえずして、しかも.もとのの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとどまる事なし。
世中にある、人の栖と又かくのごとし。
たましきのみやこのうちに棟をならべ、いらかをあらそへるたかきいやしき人のすまいは世々をへてつきせぬ物なれども、是をまことかと尋ねれば、昔しありし家はまれなり。
或いはこぞやけてことしは作り、或いは大家ほろびて小家となる。
すむ人も是に同じ。
ところもかはらず、人もおおかれど、いにしへ見し人は二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生きる々ならひ、ただ水の泡にぞ似たりける
知らず、うまれ死ぬる人いずかたよりきたり、いずかたへ去る。
また知らず、かりのやどり、たが為にか心をなやまし、なにによりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと無常をあらそうさま、いはばあさがおの梅雨にことならず。
或いは露おちて花のこれり。
のこるといへどもあさ日にかれぬ。
或いは花しぼみて露おちて花て露なほきえず。
きえずといへども、夕べをまつ事なし。
作者は、社会において軽き意味にてのいんととしての境遇に立てりしものと認められる。かくの如き内外の種々の事情は作者をして世を遁るるに至らしめしならむ。無常観も厭世主義も徹底せざる観あり。本書により、日本人の性格の消極的方面は或いはあらわれたりとすとも積極的方向はおそらく認めがたき所ならしむ。

鴨 長明「方丈記」山田 孝雄校訂

2016年8月1日月曜日

戦時下の26法の言論統制

第二次世界大戦において、日本では二十六もの法令にて言論統制が行われた。

治安警察関係の法令

1) 刑法、2) 治安警察法、3)警察犯処罰令、4) 治安維持法、5) 言論・出版・集会・総社等臨時取締法 6) 思想犯保護観察法

軍事国防関係の法令

7) 厳戒令、8) 要塞地帯法、9) 陸軍刑法、10) 海軍刑法、11) 軍機保護法、12) 国家総動員法、13) 軍用資源秘密保護法、14) 国家保安法、15) 戦時刑事特例法

新聞出版関係の法令

16) 新聞紙法、17) 新聞紙等掲載制限令、18) 出版法、19) 不穏文書臨時取締法

郵便放送映画公告関係の法令

20) 臨時郵便取締法、21) 電信法、22) 無線電信法、23) 大正12年逓信省令第89条、24)映画法 25) 映画法施行規則、26) 公告取締法
新聞紙法第22条「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして安寧秩序をみだし又は風俗を害すると認るときはその発売及び領布を禁止し必要な場合においてはこれを差し押さえることを得」の安寧処分が、解釈次第でいくらでも運用でき、裁判によらず、政府の裁量で行政処分でき、取締側には実に好都合であった。内閣情報局が、言論統制の中心的役割を果たした。発行前の検閲は、1943(昭和18)年では約9万件、その内不許可が1万2000件もあった。さらに陸海軍省や官庁までも言論統制を実施してマスコミはあやつり人形となった。

(読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事)