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2018年2月18日日曜日

哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、一切の人知を支配しなければならぬものである。

 私は実験学者としては哲学体系を避けている。しかしそのために哲学的精神までも排斥することはできない。この哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、単に一切の科学のみならず、また一切の人知を支配しなければならぬものである。私が哲学的体系からは全く遠ざかりつつ、しかも哲学者を大いに愛好し、彼らとの交際において無限の愉悦を味わっている理由はこれである。実際また科学的見地から見ても、哲学というものは未知の事象を認識しようとする人間理性の永遠の憧憬をあらわしている。それ故に哲学者はつねに異説粉々たる問題とか、科学の高尚な部分、上級の限界などとかに関係している。そしてそこから科学的思想に向って、これを活気づけ、高尚にするような運動を伝える。哲学者はまた、一般的の知的訓練によって精神を涵養しつつ強壮にし、それと同時に、到底説きつくすことのできないような大問題の解決に、精神を絶えず接触させているのである。このようにして哲学者は、未知に対する一種の飢渇、或いは研究の聖火ー学者にあってはこれが決して消えてはならないーを維持している。

クロード・ベルナール 「実験医学序説」(実験医学はいかなる医学の学派にも哲学の体系にも属さない)

2018年1月6日土曜日

すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。

 すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。そうであるからには、学ぶのも身を修めるのもすべて、人事のためです。それゆえ、内にあっても、外に出ても、貴は君公の位にあろうと、賤は奴婢早隷にいたろうと、ただもう人の間のことですから、ただ孝悌、忠信、礼儀、廉恥の間のことなのです。もし、道というものをこの人の外に立て、人事に害をなすならば、それは人の世、どこにいこうとも、非でありましょう。つまるところ、民衆を安んずるより大いなる道はなく、民衆を利するよりすぐれたる功はありません。そこで、上は一人から下は民衆にいたるまで、その身分に差等はあっても、天の生生の徳にならい、天物をそこなわず、人それぞれが造化を助けようと心がけるなら、天地の大徳に背かないですむのではありますまいか。人は生まれるとすでに早く各己の天地を有し、おのおのの混倫の体を立ておのおのの鬱勃の神を活かしています。人間とはそのようなものですから、人間あいての政治にあってはときに権謀術数をもって民衆を御するなりゆきにもなります。しかし制御するにしても、もしそのやり方に徳を失すれば民衆は粥のようににえたぎって、その権謀も用をなさなくなります。それぞれの心の鬱勃、それぞれの身の混倫と、同じものをもちながらそれぞれ異なったものを同居させている。これが人間です。

三浦 梅園 (人使然の世界)「自然哲学論集」

2017年10月27日金曜日

人は科学により幸福を得ないかも知れないけど、科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

 吾らにして道徳上の真理を恐るべからざるものならば、同様に科学的真理をも恐れてはならぬ。特に注意すべきはこれが真に道徳と矛盾することはあり得ないということである。道徳と科学とはそれぞれ特有の領域を有し、互に接触はするけれども相侵すことは無い。道徳は吾らに努力の目的を教え、科学はその与えられたる目的に到達する手段を知らしめる。かく両者を異にするが故に相対することはあり得ない。科学的道徳の存在し得ざると同様に、道徳に反する科学は存在し得ざるものである。

 人の科学を恐るるは、主として科学が吾人に幸福を与え得ざるによる。あきらかに科学は吾らに幸福を与えることはできぬ。吾らは科学を有せざる獣類が人間よりも苦痛を感ずること少なからざるかと疑う。併しながら人間ははたして獣類と同じく自己の死すべきを知らざるによりて不死的なるこの地上の楽園を追慕する事ができるだろうか。すでに禁断の果実を味った以上、人は苦痛のためにその味を忘れることなく、かえって常に回想希求する。人は科学によって幸福を得ないかも知れぬけれども、しかも今日科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学の価値」

2017年10月26日木曜日

真理を所有、信ずることは、いつでも個々の結論を、一つ残さず繰り返す以外には手がない。

 真理を、別のもっと単純なものに引き直せることの可能性にこそ、たとえその引き続いた結論の系列が、そんなに長く人工的なものと見えようとも、つぎのことのたしかな証拠があると認めるのである。すなわち真理を所有すること、または真理を信ずることはどんなときにも内的直観によって直接に与えられるものではなくて、いつでも個々の結論を、程度の差はあるにしても、一つ残さず繰り返す以外には手がないということである。このことを、一つ一つ追求して行くのに困難な思考活動を迅速に遂行する理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいだろう。この読書という理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいでしょう。この読書というものも、いつでも多少の差はあれ一歩一歩を残らず繰り返すことであって、初学者はことを骨の折れる一字一字の判読によって遂行しなければならないが、熟練した読書家にとってはその骨折りのごく少しの部分で、従って精神を労することも努力することもはなはだ少なくて、しかもただしい真の言葉をの意味を捉えることができる。
リヒャルト・デーデキント「数についてー連続性と数の本質ー」

2017年10月17日火曜日

あらゆる自然は、互いに分離して中間に空所のはいりこむことを嫌悪する。

 あらゆる物体は、互いに分離してその中間に見かけの空所のはいりこむことを、嫌悪する傾向を持っている。いいかえれば自然はこの見かけの空所を恐れている。あらゆる物体が有するかかる恐れ、もしくは嫌悪は。見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう甚だしいというようなことはない。いいかえれば、その中間の場所の大小の如何にかかわらず、一様の強さで、これを避けようとする。この恐れの強さには、しかし、限度がある。それは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに相当する強さである。この見かけの空所に接している物体は、そこを満たそうとする傾向を有する。空所を満たそうとするこの傾向は、見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう強いというようなことはない。この傾向の強さには、おのずから限度がある。そしてそれは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに、つねに相当する強さである。31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さよりも、ほんの少しでも強さが増せば、この増しただけの強さで以て、いかに大きな見かけの空所をも生じさせるのに十分である。いいかえれば、この見かけの空所に対して自然がいだいている恐れのほかに、物体の分離や疎隔を防げるものが何も存在しないならば、増しただけの強さで、物体を分離させ、いかに大きな空間わも生じることができる。

フレーズ・パスカル (真空に関する新実験)「科学論文集」

2017年9月21日木曜日

世界征服者が戦捷の行軍の日、領土の境界から貢をまぬがれている民をして貢せしめる。

 古い時代の世界征服者が、戦捷の行軍の急速のある一日、その領土の境界を一層詳しくたしかめ、貢をまぬがれている民をして貢せしめたり、或いは砂漠にあって摩下の騎兵隊の打ちかち難しい困難を知り、自分の威力の一つの制限をしらそうと欲するでもあろうように、吾々の時代の世界征服者である自然科学が、その祝宴の機会に祭し、日頃の仕事を休んで、領土の真の限界を一度はっきり画取ろうと試みることも妥当を欠いた企画ではないであろう。かくいうのは、現在自然認識の限界について二つの誤謬が広くゆきわたっていることを信じるからであり、且又私の試みようと如き考察が、一見平凡なことであるにかかわらず、以上の誤謬とは何等関わりのない人達に対しても、幾分の新しい寄与をするということもまた有り得ないことではないと思うため、なおさらこの試みを正当なものと考えるからである。

デュボア・レーモン「自然認識の限界について・宇宙の七つの謎」


2017年7月30日日曜日

好奇心のおもむくままにまかせた「科学のための科学」とは不合理な概念である。

 トルストイから見れば「科学のための科学」とは不合理な概念であるという。「一切の事実を知りつくすことは吾々のよくするところではない。実際には無限ともいうべきほどその数が多いからである。したがってその間、選択をしなければならないのであるが、この選択に際して、吾々は好奇心のおもむくままにまかせて差支えないであろうか。むしろ実益を、いいかえれば吾々の実際的要求を、わけても吾々の道徳的要求を、標準とする方がまさりはしないであろうか。この地球上に何びきテントウムシがいるか、かようなことを計算するよりも、かようなことを計算するよりもさらに価値ある仕事がないであろうか。」というのである。
 わたしにとっては、もとをいうまでもないことであるが、この両者のうちいずれの理想も満足しがたいものである。彼の貧林愚昧な金力政治も、またひたすら右の頬を打たれて左の頬をむけることのみ没頭する彼の道徳的ではあるが凡庸な民衆政治も、ともに私の欲するところではない。後者のもとに住むものは、好奇心の欠けた聖者たちであって、かような聖者たちは極端を戒めるあまり、病に死することはないであろうが、かならず退屈に兼ねて死する相違ない。しかしながら、これは趣味の問題であって、わたしの論じようと欲求するのはこの点ではない。
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」

2017年7月17日月曜日

価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、自分の個人的な神を主張して、訴え出る上級法廷はない。

 検証された法則は、すべての人間が言葉の上でも、行動の上でも従わなければならない、絶対的な権威を持つことになる。このような法則だけを取り扱っているので、科学の世界と価値の世界との間に一線を画する必要がある。価値の世界では、絶対的な権威は存在せず、個々がそれぞれ自分の個人的な神を主張しており、訴え出る上級法廷はないと考えられている。価値の世界の知恵は個人的な達成でしかなく、受け継ぐのが困難である。サートンは次のように書いている。「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。私たちの時代の芸術家は、ギリシア初期の芸術家ほど偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、私たちの科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし1つだけ確実に正確になっていくということだ。確実な知識の習得と体系化は、人間のみが行われる活動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」
エドウィン・ハッブル「銀河の世界」

2017年6月28日水曜日

軍事的侵略による、平時の民族移動等による異系交配から、一定の時期を経て、著変の時代が来る。

 異系交配は、軍事的侵略により、平時の民族移動により、また以前にはカースト的にそれぞれ閉鎖的であった諸階級が混交すること等によって行われる。かかる交配があってのち、一定の時期を経て、著しい天才輩出の時代、すなわち高い文化の時代が来る。そしてこの時代は、その基礎となった生物学的作用のつづくかぎり存続する。
 この文化が「死滅」するのには二通りの生物学的道程がある。一つは、この文化民族の繁殖力には支障がないが、交配によって得た精神上の酵素作用が尽き果て、その上、引きつづく長い期間の同系交配のために、精神の無気力な硬化がもたらされるもの、いわば中国型ともいうべきものであり、次は、生殖本能が文化のために害されて急速な人口の減少が起こり、その結果、崩壊の道程をたどるもの、いわば後期ローマ型とも称すべきものである。
 しかしこの二つの場合にも、土着の人種がさらに他の適当な人種と新たな交配を行うことによって、ふたたび新たな文化を建設し、天才時代を招来する可能性は生物学的に残されている。かつまた理論的には、このような過程が無限に繰り返され得るわけである。事実長命を保った古代文化、たとえばエジプト文化やアッシリア・バビロニア文化等は、このような交配の反復によって、同一地盤の上に文化を更新すること幾たびに及んだものである。

エルンスト・クレッチマー『天才の心理学』

2017年6月17日土曜日

絶対静止空間は不要であり、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しない。

 光を伝える媒質に対する地球の相対的な速度を確かめようとして、結局は失敗に終わったいくつかの実験をあわせて考えるとき、力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する。いやむしろ次のような推論に導かれる。すなわち、どんな座標系でも、それを規準にとったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合、そのような座標系のどれから眺めても、電気力学の法則および光学の法則はまったく同じであるという推論である。この推論の1次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている。そこでこの推論をさらに一歩推し進め、物理学の前提としてとりあげよう。
 また、これと一見、矛盾しているように見える次の前提も導入しよう。すなわち、光は真空中を、光源の運動状態に無関係なひとつの定まった速さcをもって伝播するという主張である。静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点とし、運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達するためには、これら二つの前提だけで十分である。ここに、これから展開される新しい考え方によれば、特別な性質を与えられた絶対静止空間というようなものは物理学には不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間のなかの各点について、それらの点の絶対的静止空間に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる。このような理由から光エーテルという概念を物理学にもちこむ必要のないことが理解されよう。
アルベルト・アインシュタイン「相対性理論」

2017年5月14日日曜日

分子集合である有機体制の生命の活動は死により停止される。

  有機体制の活動、すなわち内型の力が死によって停止せしめられると、体の分解がこれに続行する。しかし、有機分子は依然として残存し、体の解体と腐敗において釈放され、他の内型の力によって接収されるや否や別の生物体内に移行する。言わば、有機分子なるものは、毫も変化することなく、生物体に栄養と生命とをもたらす永劫不易の性質を保持しつつ、動物体より植物体へ、または植物体より動物体へと移行しうるのである。
 ただ、内型の力が無力である合間には、すなわち有機分子が分解した死体の物質内で開放され、しかもそれが動植物の普通の種を構成する有機体によって吸収されるに至らない合間には、無数の自然発生が生起する。つねに活動的である有機分子は腐敗した物質に衝動を与えようと努め、この物質から原質粒子を獲得し、これらの粒子の再結合によって無数の小さい有機体を生成する。
 この有機体の或ものは、みみずやきのこなどのごとく相当大きい動植物として出現するが、他のものは顕微鏡によってはじめて観察しうるほど小さく、数はほとんど無限である。これらのすべてのものは自然発生によってのみ存在し、生命ある単純な有機分子と動植物の間の間隙を埋めている。
ルイ・パストゥール「自然発生説の検討」

2017年4月9日日曜日

生活要約の変化が独立性の消失や変異の唯一の原因ではない。

 これまで確実に知られていることは、多くの観賞花卉の花の色は、非常に変わり易い形質であるということに止まっていた。諸種の花卉は、栽培すると、その安定性が高度に乱されることになり、或はそれが全然破られてしまうという意見を発表した人達はしばしばあった。そして栽培植物の発達は、全く規則に当てはまらぬもの、偶然なものであるとするのが、大部分の傾向である。それで不安定的なものの見本として、観賞用花卉のはなの色が、よく引き合いに出されている。しかし、唯単に庭の土に植えるということだけで、如何にして、植物体に、それほど徹底的な、永続的な変革が起こるものであるかということは理解すべくもないのである。
 自然のままに生えている植物の発育が、庭園に植えられたものとは違った法則に支配されるものであるということを真面目に主張する人は、よもやありはすまい。これら両者のいずれにあっても、ある種のために生活要約が変わり、その植物にその新しい要約に応じて応化する性能があれば、必ず一定の変化が起こるはずである。栽培によって、新しい変わりものの発達が助成され、自然の状態にあっては、仮令形成されても、消失してしまうような変化でも、人手の力によれば、保存されることがあるのは勿論認められる。
 しかしながら、庭に植えるということが、変わりものを作る傾向を非常に強くして、それがために、植物の種がすなわちその独立性を失い、その子孫に高度の変更性をもつものが限りなく出て来るという想定は、正しいとするわけにはいかない。もしも生活要約の変わることが変異の唯一の原因であるとすれば、幾百年もの間、ほとんど同一なる要約のもとに育てられて来た栽培植物は、また再びその独立性を回復していると考えるべきである。実際は左様ではないことは、周知の通りであってそれらのうちには、種々様々であるばかりでなく、この上もなく変わりやすいものが見られるのである。
グレゴール・ヨハン・メンデル「雑種植物の研究」

2017年2月27日月曜日

戦争と平和は絶えず刺激なければ心と記憶は薄れてしまう

 卓越した能力をみった人びとの立派な行いが妬みによって傷つけられないように、また、不滅の価値をもったその名が忘却にさらされないように、努めている人びとがいます。かれらの企ては、ひとなみすぐれた、教養高きひとにふさわしいものです。卓越した人びとのイメージを後世に伝えるものに、大理石に刻んだり青銅で鋳造したりした小像があります。足を踏まえて立ち、あるいは、馬にまたがった鋳像があります。ある詩人がうたっているように、星にもとどかんばかりの巨額の富を投じた石柱やピラミッドがあります。最後に、後世の人びとが永遠に語りつぐであろうひとの名を冠した都市があります。じっさい、人の心の常として、物であらわしたイメージによって絶えず刺激されなければ、どんな記憶もたちまちうすれてしまうものです。
 しかし、大理石や金属よりいっそう確実で永続性を求めるひとは、詩神の保護の下に、つまり、不朽の文学作品に、偉大な人びとの名声を託します。ところで、人間の英知はこの地上に満足しきって、あえてそれを超えようとはしなかったと、どうしていえましょうか? それどころか、英知は人工的な記念物が暴力や自然の怒りや歳月によって、ついには破壊されることを十分に理解し見抜きます。そして、貪欲な時や嫉妬深い歳月をどうすることもできない、もっと滅びにくい記念物を考えだしました。こうして、天空に目をうつし、永遠に記憶されるきわめて明るい星の天球に、偉大な人びとの名をつけました。その名は、輝かしい崇高な行いによって、その星とともに永遠の生命をうけるに値する、とみなされたからです。こうすることによって、星がその名でよばれるようになったユピテル(木星)、マルス(火星)、メルクリウス(水星)、ヘルクレス(星座名)、その他の英雄たちの名声は、その星が輝きを失うまでは、決してうすれることはないでしょう。しかし、人間の英知のこの創意は、もっと高貴な讃えるべき行為であるのに数世紀のあいだ廃れていました。ところがいまや古代の英雄たちは栄光の座につき、ようやくその権利を回復するに至っています。
ガレリオ・ガルレイ「星界の報告」