「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2017年11月7日火曜日
みな死者にも敬虔な儀礼を尽くしているが、もし少しも死者と関わりがないならば、全然しなかったであろう。
だがまた私は近頃こんなことを言い出した人達にも賛成ができない。その人々は肉体と一緒に精神も滅びるもので、死によってあらゆるものが無に帰するのだという。が私に対しては古代の人々の信念の方が一層重要である。たとえば我々の祖先にしてもみな死者に対してもあのように敬虔な儀礼を尽くしているが、もしそのようなことが少しも死者と関わりがないと考えていたならば、全然しなかったであろう。あるいはまた往昔この土地に住んでいて、今でこそ滅びてしまったが当時は栄えていた大ギリシアを種々な法制や訓示でもって教導した人々にせよ、またアポルロの神宣によって最も賢い者と定められた人物にせよ、皆然りである。彼は大概の人のように時に応じてあれこれと説くことをせず、いつも変わらずに持論として、人間の心というものは神に属するものであって、肉体を出離すれば即ち天上に登り帰還ことが許されている。そしてその心が優れて正しくあればあるほど、その帰途も容易であると説いたのである。
2017年9月23日土曜日
かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。
かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。実際、そこにはなにか死ぬという知覚が、たとえそれが、特に老人においてはつかのまのことであろうと、存在し得るであろう、がしかし死後には、そこにのぞましい知覚があるか、それとも全くないかである。だがこういうことは、われわれが死に無頓着にならんがため、若きときから須く熟考しておかなくてはならない。そういう熟慮反省がなくてはだれも落ち着いた心境にあることはできなぬ。なぜなら死ぬということは定まっている。しかもそれが今日という今日でないと定まっていない。であるから、死がいまにもおしよせてくるようにおじ恐れていたのでは、誰が心のなかでじっとしておられようぞ。この問題については、さほどながたらしい議論には及ばないとおもう。
マルクス・トゥッリウス・キケロ (第20章)「老境について」
2017年8月14日月曜日
美徳が求める名誉と栄光の報酬が、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりする。
労苦と危険の報酬として美徳が求めるのは、他ならぬこの名誉と栄光という報酬だけだからである。
もしも名誉と栄光の報酬が取り去られたら、こんなにも取るに足りない、こんなにも短い人生において、われわれがこれほどの労苦に勤しむ意義が何かあるであろうか。言うまでもなく、もし心が後世のことを念頭に置かず、一生が終わるのと同じ時間の枠ですべての思考も終わるのであれば、そんなにも多くの労苦で身を苛んだり、そんなにも多くの心配や寝ずの努力で苦しんだり、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりするようなことがあるであろうか。ところが、優れた人々の心にはみな美徳が宿っており、夜昼となく栄光へと心を駆り立てている、そしてわれわれの名前は命とともに終わるのではなく、後の世までいつまでも残るのだということを訓告してくれるのだ。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「キケロー弁論集」
2017年4月13日木曜日
死と共に神に属する魂は天に戻り全ての肉体は消滅する。
わたしは、魂は肉体と同時に滅び、死と共に全てが消滅する、というようなことを最近説き始めた連中には同意しないからな。わしには昔の人々の影響が強いのだ。それは死者にあれほどの聖なる権利を与えた先祖たちとかー死者にはそんなものは無関係だと考えたなら、先祖もきっとそうはしなかっただろうがー、かつてこの地に住み、今はなくなったが当時は栄えていたマグナ・グラエキアの人々に制度や訓言を教えた人々とか、アポローンの神託で最高の賢者と判定された彼の人とかだ。この人は時によってああも言えばこうみ言うことが多かったが、そうはせずに常に同じことを述べたのは、人間の魂は神に属するもので、肉体を離れるや天に戻ることになっている、そして心正しく秀れた人であればあるほど天への帰還は容易である、ということであった。
秀れた人であればあるほど、死んだ時その魂は容易に、肉体といういわば獄のいましめから飛び去るものであるなら、神々の許に到る道がスキーピオーほど容易であった人が考えられようか。それだから、彼に起こったことを悲しむのは、友人のすることというよりむしろ焼き餅やきのすることではないかと思う。
他方もし、魂の死と肉体の死は同じもので、後には何の感覚も残らない、というのがより真実に近いなら、死には何の善きこともないのと同様、何ら悪しきことがないのも確かだ。なぜなら、感覚がなくなれば、そもそも生まれなかったのと同じことになるわけだから。実際は、彼が生まれたことを嬉しく思うわれわれがいるし、この国も存在する限り喜びとするであろう。
マルクス・トゥッリウス・キケロー「友情について」
2017年3月30日木曜日
民衆とは選挙を多数者に従って下す判断の結果となる
何よりも最も大切なことは、我々は牧畜の群れのように、前を進む群のあとを追うべきではないということである。ー 進まなければならぬ途をたどることにはならず、単に皆の行く方向をたどるに過ぎないのだから。ところで、多数者の賛同に迎えられていることを最良のことと考え、流言に賛同することほど、また多くの人々の例にならい、我々が理性に従って生活することなく、人の真似をして生活することほど、我々を大きな禍に巻き込むことはない。
人が倒れると上から上へとかさなって、それこそ大きな転倒者のやまが出来るのだ。民衆が押し合って、誰かが倒れると必ず他の人をも自分と一緒に引き倒さないではおかず、最初の者は次に続く人々にも破滅を至らすことになる。ーこの人間の甚大な数がうち倒れる時に起こるのと丁度同じことが、人生の至るところに起こるのがみうけられるであろう。一人が誤れば、自分ひとりだけではすまない。他の人を誤らしめる原因ともなり、また誘因者ともなる。即ち、先に進む人々に執着するということは害となるからであり、また誰もかもみな自分の判断を下すことなく、常に盲信するばかりで、手から手に移し渡される誤ちの為に我々は翻弄され、打ち倒されてしまうからである。我々は人真似によって失敗している。ただ人の仲間から離れさえすれば、安全になれる。
事実、民衆とはおのれ自身の害悪をかばい、理性に反する態度をとるものである。これは選挙の場合におこる。即ち、気紛れなひいき心が動き回って、自分の投票した人物が、法務官に当選したからとて、投票者当人が驚いたりする。同じ物事を我々は是認したり、また非難したりする。多数者に従って下す判断は、すべてかくの如き結果となるものである。
ルキウス・アンナエウス・セネカ「幸福なる生活について」
2017年2月18日土曜日
戦争の野蛮な行いを安らかな平和をもって助ける
女神よ、永遠の魅力を、私の詩に与えたまえ。その間中、戦争の野蛮な行いを、海といわず、あらゆる陸といわず、ことごとく眠らせ、休止させたまえ。死すべき人類を、安らかな平和を以て、助けることができるのは、あなた独りだけなのだから。というのは、戦争という蛮行を支配するのは、戦に強き武神であり(軍神の別称)、しかも武神は、あなたに対する恋の永遠の深傷にうちひしがれて、ますますあなたの膝の上に、身を投げ出すのだから。それのみかなお、滑らかな首を横たえて、見上げつつ、口を開いて、女神よ、あなたを見つめつつ飢えた眼に恋の思いをむさぼらしてやり、そのあお向きになった彼の息は、あなたの口の左右するままにまかされているのだから。女神よ、あなたの神聖な体の上に横たわる武神に、上から抱いて、あなたの口から、甘い言葉を注ぎかけ、世にあまねく知れわたる女神よ、ローマ人のために、安らかな平和の来るように乞いたまえ。祖国がこのように不安定であっては(第一期三頭政治直前の不安定な社会情勢をさす)。心を平らかにして、充分に、務めをはたすことは、私にはできないし、且つまた、メンミウス家の立派な子孫にとっても、このような時局に際しては、国家の福祉のために、政務から遠ざかっていないのだから。
ティトゥス・ルクレーティウス・カルス
「物の本質について」
2017年2月14日火曜日
軍神は盲目により、人殺し、闘争心、敵愾心、対抗意識となる
エロス(愛)とは対局にある軍神アレスだが、銅板に画かれているのを見たまえ。人間がこの神をいかに崇めまつっているかがわかる。しかし同時に、そのアレスは何と悪しざまに言われていることか。ソポクレスが「女たちよ、アレスは盲目ゆえに、ただやみくもに」猪にも似た顔をして、あらゆる禍をかきまわす。」といっているかと思えば、ホメロスはアレスの事を「血汐に染んだ」とか呼んでいるし、ストア派のクリュシュボスが、この神の名の由来を說明した文句などは、そのままこの神に対する非難誹謗だね。
「アレスとは「人殺し」ということだと言い、つまりアレスというのは、吾々の内部にひそむ闘争心、論争好き、激しやすさ、そういうものを指す呼び名だと考える人々に道を開いたというわけだ。このほかにも、アプロディナとは欲望のことだと言う人もあるだろうし、ヘルメスは言論、ミュースは技芸で、アテナは智慧だという人もあるだろう。もしこんな調子で、すべての神々を片はしから、人間の感情や能力や徳性の異名だということにしてしまったら、たぶん無視論の深淵に吸い込まれていくのを見る思いがするだろう。」
ペンプティディスが言った。「そのとおりだ。だが神々とは人間のいろいろな感情のことだとするのも、また反対に、感情が神だと考えるのも、どちらも不敬のそしりを免れない点では同じだな」父が言った。「するとどうなのかね。君はアレスは神だと信じるのか、それとも我々の感情のことだと思っているのか。」ペンプティディスが、「アレスは神で、我々の心の中の激しさや勇気を司っているのだ」と答えると、父が一段と声を張り上げて、「というとつまりなんだね、君の考えだと、闘争心や敵愾心、対抗意識などの神はあるが、愛情や協調の精神、和の精神などの神はないことになるのかな。人間が殺したり殺されたりする、剣を振い矢を放ち、あるいは城壁に押し寄せ、あるいは戦利品を奪い去る、そういう場合には、荒ぶる神だか軍神だかいうのがいて、それを見そなわし、そして判定を下すが、結婚を目指す情熱や、心を一つにし、行動をともにしたいと願う愛については、その証人となってください神もなければ、指導し案内し助けてください神様もないというわけか。」
プルタルコス「愛をめぐる対話」
2016年12月17日土曜日
邪悪に委ねた高位や勢力は害悪を与える
さて高位や勢力に関しては、私は何を語るべきであらうか。まことの高位やまことの勢力を知らないお前たちは、これらを天に比しても尊んでいる。しかしこれらが、最も邪悪な人々に委ねられたとしたなら、如何なるエトナの噴火が、又如何なる洪水が、そのように大きい害悪を与え得よう。お前も思い出すことであろうが、たしかにお前たちの祖先は、自由の起源であった執政政治を、執政官たちの傲慢の故に廃止しようと望んだ。又その以前に於いて、同様の傲慢の故に、彼等は王の称号を国から追い払った。だが高位や勢力が正善な人々に委ねられる(それは極めてまれにしかないことだが)としたなら、その際立派なのは、その高位や勢力の保持者の正善以外の何物であらうか。すなわち、徳が位のために尊ばれるのではなく、逆に、位が徳のために尊ばれるのである。
一体、お前たちが望んでいるその輝く勢力とは如何なるものであろうか。おお、地上の生物よ、お前たちは誰が誰に対して支配することになるかを考えないであろうか。もし数匹のハツカネズミの中にあって、或る一匹が他に対し権利と勢力とを潜するのを見たとしたら、お前はどうな哄笑に誘われることであろう?
ところで、肉体を顧みる限り、お前は人間より弱い何物も発見し得まい。小さいハツカネズミに噛まれても、また毛虫や蛇が体内に入り込んでも、しばしば死ぬのだから。だが、或人が他の人に対して或る勢力を振る場合、どうしてその肉体と肉体に従属するものー換言すればその人の外的所有物ーとに対して以外に之を及ぼすことが出来ようか。お前は、自由な精神に向かって何事かを命じ得るであろうか。お前は、確固たる理性に従って自己統制のとれている精神をその本来の平和状態から掻き出すことが出来るであろうか。かつて或る暴君が、或る自由人に対し、拷問をかけることに依って、自分へ企てられた陰謀への関与者を白状するように強制しているつもりでいたところが、その自由人は舌を噛み切って、猛れる暴君の顔へそれを吐きかけた。こうして、暴君がその残酷さを示すようすがと考えていたところの拷問を、賢人は却ってその徳を顕す機会となしたのであった。
アニキウス・ボエティウス「哲学の慰め」
2016年12月16日金曜日
戦争・恐怖・麻痺・奴隷状態は信念を消し去る
人間の風刺喜劇、戦争、恐怖、麻痺状態、奴隷状態ーこういうものが君の神聖な信念を日に日に消し去ってしまうであろう。これらの信念は、自然の探求者として君が抱懐し、受け入れたものだ。だから君はつぎのようにしなくてはならない。すなわちなにを見るにもおこなうにも、目の前の務めを果たしながら同時に思索の能力を働かせるように心かげけ、各々の事柄に関する知識からくる自身を人知れず、しかしわざわざ保ち続けることだ。
いったいいつ君は単純であることを楽しむようになるのであろうか。いつ品位を持つことを?また個々の物に関する知識、たとえば本質においてそれがなんであるか、宇宙の中でどんな場所を占めるのか、どのくらい間存続すべく創られてするか、それを構成するものはなにか。誰に属しうるものであるか、それを与えたり奪ったりすることのできる人々は誰か、等の知識を楽しみとするようになるのはいつだろうか。
隣の枝からきりはなされた枝は、樹全体からもきりはなされずにはいられない。それと同様に、一人の人間から離反した人間は、社会全体から落伍したのである。ところが枝は他の者がこれをきりはなすのであるが、人間のほうは。隣人を憎み嫌うことによって自分で自分をその隣人からひきはなすのだ。しかも彼はそうすると同時に共同社会の全体からも自分を削除したことを知らないのである。ただしここで注意すべきことはこの共同体の創設者であるゼウスの神が与え給うた賜であって、そのお陰で我々は再び隣の枝に結合して全体として完全なものに復することが許されているのである。しかしこういう離反がたびかさなると、はなれた部分がふたたび結合して元どおりになるのは難しくなる。一般にいうと、最初から樹とともに呼吸し続けた枝は、ひとたびきりはなされ、後にふたたび接木された枝とは違う。これは庭造りたちのいうところである。だから同じ幹の上で成長せよ。ただし意見は同じうしなくともよい。
マルクス・アウレーリウス「自省録」
2016年12月1日木曜日
召使いと奴隷は戦争になると軍に編入
マスリウスが言うには、「クテシクレスの『時事録』によると、前310年頃にデオメトリス(前4-3世紀)がアッティカの人口調査をして、その結果アテナイの人口は2万1000、居留外国人は1万、奴隷は40万だとわかった。クセノポンが『租税論』で述べているように、ニケラトスの子ニキアスは1,000人の奴隷を所有していて、これを鉱山の鉱夫としてトラキアのソシアスに、1人1日オボロスの割で貸した。アリストテレスは『アルギナ人の国制』の中で、アルギナにも47万人の奴隷がいたと言っている。アガルタルキデス(前2世紀)は『エウロパ』の第38巻で、ダルダネイス人は、ある人は1,000人、・・・、ある人はそれ以上の奴隷をかかえていたと言っている。これらの奴隷は、平和時には農業に従事し、戦争になるとそれぞれの主人を隊長として軍に編入された。」
ローマ人の役人であるラレンシスが言った、「ローマ人もそりゃたいへんな数の奴隷をかかえている。いままったく、ギリシアのお大尽のニキアスじゃないが、一万とか二万とか、あるいはもっとかかえているものがいる。ただ、大方のローマ人は、外出する時いっしょに連れていくんだ。アテナイの方をもって数える奴隷というのは、囚われの身で鉱山で働くわけだろう。さっきから何べんも引き合いに出されている哲学者のポセイドニオスだが、彼によると、アテナイの奴隷たちは反乱を起こし、現場監督を殺し、スニオン岬のアクロポリスを占領し、長い間アッティカを略奪した。これはまさに、シシリー島で第二の奴隷の反乱が起こった時だ。シシリーでは反乱が何度も起きて、百万以上の奴隷が死んでいる。この島のカレ岬出身の弁論家カキリウス(前1世紀)は奴隷戦争を扱った著作を公にした。また剣闘士のスパルタはミトリダス戦争の頃、イタリア人の都市カプアから逃亡して、非常に多くの奴隷たちに反乱を起こさせ(彼自身トラキア出身の奴隷だった)、全イタリアを長期間その渦に巻き込んだ。そして彼のもとへは毎日奴隷が川の流れのように集まってきた。もし彼がリキニウス・クラッススとの戦闘で討ち死にしなかったなら、シシリーのエウヌスの場合のように、わが同胞は大汗をかいたことだろう。
アテナイオス「食卓の賢人たち」
2016年11月17日木曜日
神は王や君主ではないこと
神のことがあっちでもこっちでも言い伝えられたり、これがそうだと見せられたりするものですから、これはみな王や君主の事蹟なのだと考える人々がいます。際立った資質や勢力ゆえに赫々たる成果を挙げたのが、神だという名声によっていっそう輝かしくされた、しかしやがては運命に従わねばならなかったが、その事蹟と経験はいつまでも驚くべき偉大なものとして記憶される、というように。
ですが、このように説明する人々は、正しい説明をすり抜けて、具合の悪いことは神から人間に移しかえています。そういう例なら言い伝えからいくらでも助けが得られますね。現にエジプト人は、ヘルメスの体は腕が短かったと言っておりますし、テュボンは赤ら顔でホメロスは色白、オシリスは黒かったなどと申しております。まるでこれらの神が本性人間だったのごとくにです。
それだけではありません。エジプト人はオシリスを将軍と呼び、カノボスを舵取り、船長と呼んでいて、天の星にもこのカノボス(カノプス)という名がついている、そしてその船の方は、ギリシア人がアルゴ船と呼んでいるもので、これはオシリスの船の似像であり、オリオンと犬星(シリウス)からさして遠くない空を航行しているのだと言っております。そして、オリオンはホロスの、犬はイシスの聖なる星だとエジプト人は信じているのです。
しかしながら、これは「動かすべからざるものを動かす」ことではないかと恐れてますし、シモニデスの言う(断片193)「古りにし時の間に挑む」ばかりではなく、多くの人間の種族、神々への敬虔な気持ちをしっかりと抱いている民族に対する挑戦ではないかと思います。これでは、人類誕生のはじめから、ほとんどすべの人々の胸に抱かれてきた、かくも古き尊き御名を天上から地上に引きずり下ろし、その尊崇の念、敬虔な気持ちを失わせ、また打ち壊すことになりましょうし、神を平面に引き下げることによって、レオン(前4世紀)のような著述家のために広々と道を空けてやり、メッセネのエウヘメロス(ヤコビ『ギリシア歴史家断片集』63T4e)の徒のいかさまに、自由な発言を許すことにより、光輝を添えることになりましょう。このエウヘメロスこそ、自分の手で、およそ信じるに足りぬ、ありもしない神話を作り上げてから、全世界に無神論を撒き散らした人です。
プルタルコス「エジプト神イシリスとオシリスの伝説について」
2016年9月19日月曜日
戦争に生死の権利を握る首領
自分たちの身柄も財産も掠奪から守られず、目の前で土地を荒らされ、子供を奴隷に連れられ町を落とされないようにカエサルに援助を求めた。
カエサルに降伏の使節をよこすと、カエサルは人質と武器と奴隷を求めた。
勝った者が負けた者に思いのままの命令をするのは戦争の掟である。当たり前の状態をまもって年貢を納めている限り、不当な戦争はしないとおどす。
敵も最後の望みをかけて奮戦し、先頭のものが倒れば次のものは倒れたものの上にたって屍の中で戦い、これらのものも倒れると生き残ったものはさらに死体を積み重ねた。
兵士は命ぜられたとおり飛び出し、陣地を取るつもりで来たものを到る処で取り囲んで殺し、その野蛮人3万余りの3分1以上を殺し、その村の家をすべて焼き払った。
すべての若者、智略や名望のある年寄りは集り、町の護りようもなく、身柄財産をカエサルにあげて、元老をすべて殺し、残りは奴隷として売り払った。
カエサルに平和と友情を求めるのに対して、人質を差し出すように命じ、村と家とをことごとく焼き払い、穀物も刈り倒した。
ローマ軍の大軍に迫られると、塹壕の中に投げ込み、闘いながら死んだ、夜まで攻撃を支えたが、夜になると救われることを諦めて自殺した。
国境をできるだけ広く荒廃させて無人が最大の名誉である。隣が土地をおわれて去り、誰も住もうとしない、不意の侵入の恐れがなくなり、一層安全と思っている。
部族が戦争をしたり、しかれられて防いだりする場合には、戦争を指揮して生死の権利を握る首領が選ばれ、平和の時には一般の首領はおらず、裁判をして論争を沈める。
カエサルに降伏の使節をよこすと、カエサルは人質と武器と奴隷を求めた。
勝った者が負けた者に思いのままの命令をするのは戦争の掟である。当たり前の状態をまもって年貢を納めている限り、不当な戦争はしないとおどす。
敵も最後の望みをかけて奮戦し、先頭のものが倒れば次のものは倒れたものの上にたって屍の中で戦い、これらのものも倒れると生き残ったものはさらに死体を積み重ねた。
兵士は命ぜられたとおり飛び出し、陣地を取るつもりで来たものを到る処で取り囲んで殺し、その野蛮人3万余りの3分1以上を殺し、その村の家をすべて焼き払った。
すべての若者、智略や名望のある年寄りは集り、町の護りようもなく、身柄財産をカエサルにあげて、元老をすべて殺し、残りは奴隷として売り払った。
カエサルに平和と友情を求めるのに対して、人質を差し出すように命じ、村と家とをことごとく焼き払い、穀物も刈り倒した。
ローマ軍の大軍に迫られると、塹壕の中に投げ込み、闘いながら死んだ、夜まで攻撃を支えたが、夜になると救われることを諦めて自殺した。
国境をできるだけ広く荒廃させて無人が最大の名誉である。隣が土地をおわれて去り、誰も住もうとしない、不意の侵入の恐れがなくなり、一層安全と思っている。
部族が戦争をしたり、しかれられて防いだりする場合には、戦争を指揮して生死の権利を握る首領が選ばれ、平和の時には一般の首領はおらず、裁判をして論争を沈める。
ガリウス・ユリウス・カエサル「ガリア戦記」
2016年9月14日水曜日
踊らされ中国に「征伐の役」
神道では正邪の観念は浄、不浄の観念に置き換えられる。不幸や病気、とりわけ死および人間や動物の死体との接触は不浄なものとみなされた。かくしてある種の職業にたずさわる人々は、慢性的な癒しがたい不浄を背負わされることになった。そしてこのことが、社会から排斥された身分を生むのである。ひとたび穢れた死者は、不浄なものの「払い清め」ないし「叩き出し」の助けをかりて、清められるのが普通である。神道のいたって単純な儀式的側面は、この祓いあるいは浄化作用に尽きるといってもいい。
幕末に対する天皇の回答は、彼自身、即刻厳格な断食の行に入り、祖国が異国の襲撃を免れるべく、全国でそれ相応の献祭をとりおこなうよう命じたという主旨のものだった。またこれとは別に、火急の事態にそなえるため、天皇は特別に頌歌をものした。他方最高会議は、この件でなんらかの合意を得ることができなかった。徳川が遺した法律も含め、この際何世紀にもわたる鎖国政策をきっぱりと捨てるべきと考えるものもいた。またあるものは、諸外国との関係の開始は災難にちがいないが、さりとて抵抗することもできないと認めている。
明治維新からの国民教育省すなわち文部省自体が、きわめて困難な立場に追い込まれてしまう。異常に膨れ上がったこれら多数の生徒全員を官費でまかなうだけでも容易でなかったのに、これに加えて国民教育予算が、海軍省、陸軍省の兵備増強による財政危機のあおりをくって、とつぜん大幅に削減されてしまったからである。なぜ陸海軍省が増強されたかというと、イギリスに踊らされて「征伐の役」を不当とし日本側に屈辱的対応をとりだした中国とのあいだに、戦争が起こるのではないかと予想されたからだ。
幕末に対する天皇の回答は、彼自身、即刻厳格な断食の行に入り、祖国が異国の襲撃を免れるべく、全国でそれ相応の献祭をとりおこなうよう命じたという主旨のものだった。またこれとは別に、火急の事態にそなえるため、天皇は特別に頌歌をものした。他方最高会議は、この件でなんらかの合意を得ることができなかった。徳川が遺した法律も含め、この際何世紀にもわたる鎖国政策をきっぱりと捨てるべきと考えるものもいた。またあるものは、諸外国との関係の開始は災難にちがいないが、さりとて抵抗することもできないと認めている。
明治維新からの国民教育省すなわち文部省自体が、きわめて困難な立場に追い込まれてしまう。異常に膨れ上がったこれら多数の生徒全員を官費でまかなうだけでも容易でなかったのに、これに加えて国民教育予算が、海軍省、陸軍省の兵備増強による財政危機のあおりをくって、とつぜん大幅に削減されてしまったからである。なぜ陸海軍省が増強されたかというと、イギリスに踊らされて「征伐の役」を不当とし日本側に屈辱的対応をとりだした中国とのあいだに、戦争が起こるのではないかと予想されたからだ。
レフ・メーチニコフ「回想の明治維新ーロシア人革命家の手記ー」
2016年7月22日金曜日
自己愛に追従と悪
自分を大いに愛していると公言する人を世間では大目に見ている。しかし、それからいろいろ困ったことも生じ、自分自身を偏見なく正しく判断できなくなるのは重大だ。自己愛に対して盲目になる。そのために追従者に広い活躍の場が与えられる。自己愛が自分にとりいるための格好な足がかりになる。自分が何を思い欲しているか、自分だけでなく他人までが証人となることを許す。へつわられるのが好きだと非難されている人は、相当に自己愛の強い。自分を好意的な目で見るために、自分にはあらゆる特性を欲したり、現にあると思う。特性があるように欲するのは別に不都合ではない。しかし、現にあると思う方は危険であり、大いに警戒を必要とする。追従者は善を敵にする危険がある。追従者は自分自身をあざむき、何が善で何が悪であるかに気が付かなく、善は放置され、悪はまったく矯正できない。自らは本当大きな過ちは見て見ぬふりをするきずかないふりをするが、小さなうわべのことで何か欠陥を見つけるとえらい勢いて襲いかかる。
悪は、もし追従者がとくに身分の低い者卑しい者だけにまつわるのであれば、恐れるに足らず容易に警戒できる。しかし、名誉心の強い性格の人、有為の人、穏当な人ほど追従者を受け入れ、ひとたびとりつかれると育てやすい。追従へのへつらいも同じで、その日暮らしの人、無名の人、無能の人にとりつかず、名門の家や重大問題、さらに王国や皇帝にとりついて、つまずかせ倒したりする。追従が友愛を傷つけたり疑念を生じないように探し出すことは小事ではなく、目配りで足りない。
しらみは臨終の人の体を去っていきます。栄養分の人間の血が死によって途絶えるためである。追従者たちも、乾いたもの、冷えて固くなったものには近づきません。名声や権力のあるところに自分を肥やす。事情が変わるとたちまち姿を消す。
しかし、そこに至るまで待てない。その経験などは無益というより有害で、危険である。まさに友を必要としている時に、真の友はいない。不確かな友、偽りの人に代えて、良き友、信頼できる友を持てない。友は貨幣と同じで、本物かにせ物を判定するのは手遅れで、必要になる前に、本物かにせ物かを定めるべきである。被害ではじめて気がつくのではなく、被害に合わないように追従者を知り見破るべきである。猛毒な毒薬を知るために一服して、毒薬と知った時には命を落として身を滅ぼす。友人は気持ちのいいものでもなく、立派なな有益だけのものではない。友愛が尊いものなるのは、辛辣や厳しいからでなく、立派さ尊さが心よく慕われやすさである。
プルタルコス「似て非なる友について」
2016年7月15日金曜日
勇気は一種の野蛮性・野獣性
蜜蜂の群れは蜜房をつくるために相群がるのではなく、本能的に群衆性があるために集まって蜜房をつくる。人間もはるかに強く、本能的に相集まって、ともに巧緻な行動と思弁をあらわす。従ってひろく人間を守る精神、人類協同の精神に成立する徳が、認識による追求に伴なわなければ、認識も孤行して無効に帰するほかはない。精神の勇気も人間の間の協同と結合を失っては、一種の野蛮性・野獣性にすぎない。結局、認識への努力は人類の社会的むすびつきと協同の下風に立つことになる。
人間は他人の助けがなければ、自然に要求されるものを手に入れ実現することができないので、生活の必然性に迫られて他人と協同し結合する。反対にもし我々の生存と生活に必要なものが伝説の魔法の杖のように供給されるなら、優れた天賦の人はみなあらゆる仕事を放棄して認識と知識に没頭するであろうというのは誤っている。やはり孤独をのがれて研究の仲間を求め、互いに教え互いに習い、聞いたり聞かれたりを望むに違いない。従って人間の社会的な結合を守って力があるすべての義務は、当然単に認識と知識に由来する義務よりも上位に置かれる。
当然に問題も起こされるであろう。本性に最も深く根ざす共同性は、節度や謹慎に対してさえいつも優越するとは思われない。世の中には、賢人なら、たとえ祖国を救うためにも行うのを潔しとしないほど、一面では醜悪、他面において罪悪的なことがらがあるからである。あまりにもいまわしく見苦しいものがあって、口にもできないほど醜悪だといえる。賢人は国家のために取り上げられることはなく、国家もそれを望まない。これらの醜いことが賢人によって行われることが国家の利益である事態はありえないからである。
結局、いろいろな義務からの選択において、かの人間の社会的結合に根ざす種類の義務が優越するのは間違いがない。道徳的な義務の選択に際して、いずれを他に対して優越させるべきかは容易に判定できるからである。しかし社会的共同体自体に関してもその義務の段階があり、段階のあることを知れば、義務のいずれを他に先立てるべきかも知ることができる。例えば、第一の義務は不死の神々に、第二は祖国に、第三は祖先など段階的に義務が尽くされるに至る。
常に人間は、それが道徳的に高貴か、醜悪かにまどうだけでなく、高貴さのうちいずれはが高貴かについても迷うことがわかる。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「義務について」(最後の著作)
2016年6月13日月曜日
怒りと平和
怒りが自然に合ったものかどうかは、人間を見れば明らかであろう。人間が正しい精神状態にあるときほど平和なことがあるだろうか。しかし、怒りほど無情なものがあろうか。人間ほど他人に愛情をもったものがあったろうか。怒りほど敵意のもったものがあろうか。
人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。相互扶助は結合を望むが、怒りは離反を望む。相互扶助は利することを望むが、怒りは害することを望む。相互扶助はは見知らぬ人々をも助けようとするが、怒りは最愛の者たちをも襲おうとする。相互扶助は他人の利益のために自分を消耗させようとさえしているが、怒りは他人を追い出すことができるなら、危険をもおかそうとしている。
それゆえ、この野蛮で有害な悪徳の原因を、最良で完全な自然の働きに帰する者ほど、自然の本姓を知らない者があろうか。怒りは、依然として、報復に熱心であって、そのような欲望の存在するどころか、最も平和な人間の胸のなかであるとは、人間の自然の本姓に最もそぐわないことである。人間生活は善行と協調のうえに成り立っており、脅迫によってではなく、相互愛によって、睦み合い助け合うために結び付けられているからである。
怒りはしばしば同情心によって静められるものである。というのは、怒りは本当の力強さをもっているわけではなく、中身はからに膨れあがったものである。激しいのは初めだけだからである。怒りはものすごい勢いで始まるが、やがてはまもなく疲れて弱まる。そして、初めは残虐な仕打ちや新奇な処罰の仕方を思いめぐらしていたものの、いざ処罰をする段になると、すでに腰が碎けて、おとなしくなっている。激情は急速に衰え、理性が怒りに釣り合うようになる。
怒りは全く移の気である。限度を越えてはるか遠くに突っ走るかと思うと、当然に行くべきところので行かないうちに止まってしまう。怒りは自分勝手のことしか考えず、気まぐれに判断し、何ごとも聞こうとはせずに、弁護の余地を認めず、襲いかかったものは離さず、たとえ自分の意見が間違っていても捨て去ろうとはしない。
ルキウス・アンナエウス・セネカ
2016年6月11日土曜日
ゲルマーニアの戦争と平和
青年たちは、公事と私の事を問わず、なにごとも武将してでなければならない。武器を帯びることは、その民族(civitas)団体が資格あると認めるまでは、一般に青年にも許されない習いである。それが認められた時、同じ会議において、長老、あるいは父、または近縁のものが、武器とをもって青年を飾る。これらが青年服であり、青年に与えられる最初の名誉である。これまでは彼はただ家族集団の一部であった。今後は、民族(res publica)の正員として見なされる。
貴族の身分、先祖のの偉功によって、少年たちに対しても、長老の主従が与えられる。青年らは、より長老の成人として、すでに世に認められている他の人々の周囲に集まる。家来の間の姿をあらわすことは、少しも恥辱とはならない。それどころか、家来の間には、家来をひきいる人の判断によって、そこに階級ができる。
ここで激しいのは、長老の許の第一席は誰によって占められるかの長老たちの争い、最も多くのかつ最も精鋭な家来たちを得ているかの長老たちの競い合いである。選ばれた青年の大群によって常に囲まれることは、平和には誇りであり、戦場では防衛である。
長老の権威であり、これが力である。家来の数と意気に優越を示す長老も、みずからの部族のみならず、近隣の諸邦にさえ、名誉と尊ばれ、光栄として仰がれる。長老は諸邦から来る使節来訪の名誉を受け、贈物に飾られ、単にその名声にて戦勝を左右すると思う。
戦列についた以上、勇気にて家来に負けるのは長老の恥辱であり、長老の勇気に及ばないのは家来の恥辱である。長老の戦死をさしおき、家来が生を全うして戦列を退いたら、生涯の恥辱であり、不面目である。長老は勝利のために戦い、家来は長老のために戦う。
もし母国が永い平和と無為のために英気を喪失していると、高い身分の青年の大部分は、みずから進んで、なんらかの戦争をを行っている部族を求めて出かける。
平静をこの種族は喜ばず、功名は危機の間に立てやすい。多くの家来は力で戦いをしなければ保養できないからである。血潮したたるかの戦勝を勝ち取らんことを、家来たちは主人の寛大さに期待し、ゆたかな供養は家来に対する賞与となるからである。この寛大さの材料は、もっぱら戦争と略奪による。もし家来に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くならば、家来に敵に挑んで、名誉の負傷を被ることを勧めるのは容易ではないとに悟る。血をもって光栄を受けるものを、あえて額の汗して収穫を獲得するのは怠惰でありち、無能であるとさえ、家来は考えているのである。
貴族の身分、先祖のの偉功によって、少年たちに対しても、長老の主従が与えられる。青年らは、より長老の成人として、すでに世に認められている他の人々の周囲に集まる。家来の間の姿をあらわすことは、少しも恥辱とはならない。それどころか、家来の間には、家来をひきいる人の判断によって、そこに階級ができる。
ここで激しいのは、長老の許の第一席は誰によって占められるかの長老たちの争い、最も多くのかつ最も精鋭な家来たちを得ているかの長老たちの競い合いである。選ばれた青年の大群によって常に囲まれることは、平和には誇りであり、戦場では防衛である。
長老の権威であり、これが力である。家来の数と意気に優越を示す長老も、みずからの部族のみならず、近隣の諸邦にさえ、名誉と尊ばれ、光栄として仰がれる。長老は諸邦から来る使節来訪の名誉を受け、贈物に飾られ、単にその名声にて戦勝を左右すると思う。
戦列についた以上、勇気にて家来に負けるのは長老の恥辱であり、長老の勇気に及ばないのは家来の恥辱である。長老の戦死をさしおき、家来が生を全うして戦列を退いたら、生涯の恥辱であり、不面目である。長老は勝利のために戦い、家来は長老のために戦う。
もし母国が永い平和と無為のために英気を喪失していると、高い身分の青年の大部分は、みずから進んで、なんらかの戦争をを行っている部族を求めて出かける。
平静をこの種族は喜ばず、功名は危機の間に立てやすい。多くの家来は力で戦いをしなければ保養できないからである。血潮したたるかの戦勝を勝ち取らんことを、家来たちは主人の寛大さに期待し、ゆたかな供養は家来に対する賞与となるからである。この寛大さの材料は、もっぱら戦争と略奪による。もし家来に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くならば、家来に敵に挑んで、名誉の負傷を被ることを勧めるのは容易ではないとに悟る。血をもって光栄を受けるものを、あえて額の汗して収穫を獲得するのは怠惰でありち、無能であるとさえ、家来は考えているのである。
ゲルマーニア
コルネーウス・タキトゥス
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