西武戦線異常なし
レマルク
ケムメリヒのところに見舞いにゆく。「とても足が痛むのだ。」と顔には死相が出ている。両手はロウの様になり見るに忍ず。煙草をやって看護婦にモルヒネを打ってもらってやる。ミニツレルはケムメリヒの長靴をほしがった。「義足があるよ。僕の長靴をミニツレルへ持って行ってやっても良い。」目がくぼんでもう一、二時間で死にそう。涙が頬を流れ落ちた。軍医を呼びに行って帰ると死んでいた。「この寝台がいるんだ。外は廊下までいっぱいころがっているから。」と軍医は言った。
班長ヒメルストオスに、皆んな恨みを抱いている。寝小便垂れの二人の青腫れの皮膚を見たら誰にもわかった。前線に出る前の夜に、班長が歌をうたって帰って来た。忍び寄りシーツを頭からかぶせてしまい、その上に一打くらわす。順番にくらわす。軍隊では、いつもお互いに他の者を教育してやらねばいけないと言っていた。自分の言葉が当人に向かって実を結んだ。
英国の発射は続く。戦線地帯にやって来て、人間が獣になった。フランス軍の信号弾で、真昼の様に明るい赤と青の照明弾が唸り声をあげ、ヒイヒイシュウーという音が一杯で恐ろしい。弾丸が打ち込まれて、砲弾の音の間に、人の叫び声、気味の悪い叫び声が上がった。馬がやられた。ひでえなあ馬を戦争に引っ張りだすなんて。世の中にはねえー爆発火のどこかにも逃げ道はない。砲弾の破片が鉄兜へぶつかる。「毒ガスだ。外の者へ言え。」とカチンスキイ発言の最初の二、三分が生と死の境目になる。野戦病院で毒ガスにおかされた兵士は締め殺される様な苦しみだ。肺が少しずつ崩れてゆく様を見た。しかし、上にも出られぬ。地面そのものが荒れだした。頭の中はガスマスクでガンガン鳴る。墓地は廃墟だ。棺桶と死骸がばらばらと散乱し、死人は二度殺された。蚤が無数にいる。班長のヒムメルストスが前線にやって来る。チヤアデンが「貴様は猪を追っかける猟犬みたいな者で、猪犬だ。」班長は君を戦時裁判所に附するとかけ出した。「五日間の重営倉だ。」「もう戦争にでないで済むじゃないか。」呑気だ。家鴨を取りに入り、ブルドックに唸られたが一匹盗む。
いよいよ攻勢に出る噂が立つ。学校のそばに、白木の寝棺が二列に高く百個積み重ねてある。「もうちゃんと支度ができてら。」英国軍は砲兵を増加した。弾丸に当るのも偶然なら、助かって来るのも偶然である。ばかにねずみが増え、これは猛烈な合戦の証拠だと言う。躰が大きく死骸を食うねずみ二匹が大きな猫と一匹の犬にかみ殺された。ブランデーが支給される。飲んでも決していい気持ちになれぬ。チーズを銃剣で突き刺すと抜けなくなる。円匙の方がぐさりと切ってしまう。夜中に目を覚ました。地面は鳴動している。砲弾が絶え間なく、つんぼになって来る。犬の尻尾一本も入る隙もない砲火だ。防空壕の入口から逃げて来た鼠の大群が飛び込んで来る。怒鳴り打ちかかってゆく機関銃が火蓋を切った。敵のフランス人の姿も見える。
僕らは戦うのではなく皆殺しに対して防御するのである。倒れている肉の塊の躰の上に足をすべらし、ぱくりと口を開いた腹の中に足を踏み込んだ。偵察機が現れ二、三分すると散弾と大きな砲弾がぶっ放され、一日に十人も死んだこともある。新兵は何も知らず弾の区別もできず、わけなく殺される。大勢が根こそぎ毒ガスで倒れた。
毒ガスは、窪んだ穴の中に最も長く停滞していることを皆は知らない。早くマスクを脱いで肺を焼いてしまうことがある。ある塹壕で思いかけずヒムメルストオスにぶっかった。カッとなり「外へ出ろ。」という。阻止砲撃、煙幕砲撃、地雷や毒ガス・タンク・機関銃・手榴弾に世界のあらゆる恐怖が含まれている。第二中隊の百五十人がたった三十二人になった。ヒムメルストオスと仲直りする。炊事当番を命じられる様に取り計らい、将校に食事を食わせる。川を裸で渡り、食パンのカンズメを持って三人は、女の所にゆく。女郎屋の長い列を作って、順番を待つのとは大違いである。休暇が十七日間出る。国の姉が、「ああパウル」と叫んだ。ベルギー全部とフランスの炭鉱地方とロシアから領土を取る。ドイツがなぜ取らねば、いけないのか理由と詳細に述べる。
ミッテルスが、耳新しいこと伝えてくれた。オントレック先生が隊にいる。昔誰かがフランス語を間違えると鉛筆の先で突いて、震え上がったものだ。習ったフランス語は、約にたたないじゃないか。私を一度落第させたことがある。教師は、そのまま文句を言って慰めた。「国家危急の場合には、生きることを大いに幸福としちょる、大々に鍛えてやらにゃあかん。」と言う。あんな奴わ相手にしてよ!
ケムメリヒの母親を訪ねる。母親は、身体を震わせてむせび泣く。「あんな子が心で、なぜあなたが生きているのです。」胸に一発弾丸をくらって、すぐその場で戦死したと伝える。本当のことを言ってくださいと言われるも、断じてしゃべるまい。死んだことには変わりない。神にかけてもおっしゃるのですかと言われるも、「何が神様をかけてだ。」神様なんてとうの昔に吹っ飛んでいる。ロシアの捕虜の歩哨に立つ。僕らよりもはるかに人間的である。もうこの人たちはには、戦争は済んで何に対しても興味を失った人間になっている。
自分の隊を捜したが、誰も知ったものはいない。ある朝どろどろに汚れて帰ってきたカンスキにクロツウが言った。「なんで俺たちロシアへゆくと言う話だる」新品の上着をもらった。破損したものは新品と交換された。あるカイゼルが検閲に来ると言う。済むとはほとんど返品を命じられ、元の古い物が戻された。
地雷だよ、樹の上に死人が引かかっている。真っ裸である。砲弾穴に入ると、一つの身体がどしんと滑り落ちてくる。気違いのように突き刺した。手はべとべとと血で濡れた。「戦友どうぞ許してくれ。」軍隊手帳に印刷業のデュヴァルを殺したのである。僕の頭はくらくらしてきた。自分は印刷屋になろう。ブロップは膝をやられる。弾丸は僕らを追って来てやられる。野戦病院に入る。軍医がやってきて、傷の中をかき回した。目の前が真っ暗になるくらい痛い。手に砲弾の破片を釣り上げ放り出した。きれいなシーツには虱を背負っていると唸った。看護婦は笑って「虱にもちょっと楽にさせてやらなけりゃ」おしっこのための尿器を受け取った。プロップは熱を出した。出される事になる。僕も検温器をマッチで三十・七度に上げ、一緒に列車から降ろされた。ブロップの具合がよくない。足を切断されていた。
戦争終了の時が来たら、父親たちは僕らに何を期待するであろう。幾年のあいだ僕らの仕事は人を殺すことであった。志願兵のパウルボイメルも、一九十八年十月に戦死した。司令部の報告は「西武戦線異常なし。報告すべき件なし。」という文句であった。ボイメルは前に伏して、倒れてまるで寝ているように地上にころがっていた。身体をひっくり返してみると、長く苦しんだ形跡はない。こういう最後を遂げることを満足に感じて覚悟の見えた沈着な顔をしていた。