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2018年1月7日日曜日

無礼な子供に、コテで焼印をつけ、驢馬を飼うためにパンの寄与を強要して餓死させた。

 植民者はもっと大きな犯罪の罰として、監獄船に乗せられていた。友人こそ、この男を絞首台へ連れていった有り難い人であった。この小暴君ネロは、自分に無礼をしたという子供に、真赤に焼けた壁土を貼るコテをもって真実に焼印をつけたり、若驢馬を飼うために、我々の食用のパンを半分づつ出せと寄与を強要して、我々四十人をほとんど餓死させたのである。その驢馬というのは、一寸信じられない話であるが、情婦であった保姆の娘に黙認してもらって、そっと連れ込んで来て、監房と言われた寄宿舎の鉛板の屋根の上に飼っておいたのである。この慰みは一週間以上も続いたが、この馬鹿な獣類、自分の幸運を黙っていることができず、落ち着いて己を制していることができたら、カリギュラの馬よりも、幸福であったろうにー物語にあるその同類の何れかよりも、ああ更に愚かにもー飽食して得意になり、蹴散したりして、不幸にもある時、思わず下界に向かって声を挙げて、自分の幸運を呼ばずにはいられなくなった。それで一生懸命、その一つと調子の喉をしぼって、もう隠し仰せぬような角笛の一声を吹き立てたのである。一種の情状酌量が加えられ、驢馬の保護者がその折どんな咎めを受けたか、それは知らない。

チャールズ・ラム著 (クライスツ ホスピタル (三十五年前の) )「エリス随筆集」

2017年11月29日水曜日

人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。

 一体我々の祖先たちの事を知り、これを記録に留めようという欲求が、一般に極めて盛な所を見ると、これはきっと人々の精神に対する或る共通原理から来ているに違いない。我々は、何だか自分自身が我々の先祖として生きていたような気持ちになり、この理想の寿命を少しでも長いものにしようとして、虚栄心が骨を折り且つやがて満足するのである。我々の想像力は、自然が我々を閉じ籠めた狭隘な世界を拡大しようと絶えず活動している。普通一人の人間には五十年乃至百年が許されるに過ぎないが、我々は一面宗教や哲学の教える希望によって死を超越し、他面我々の生を創り出した先祖と結びつくことによって我々の誕生以前に在る沈黙の空虚を充実させる。古い優れた家系に就いての矜恃というものは、もっと冷静な批判をこれに加えたところで、幾分和らげられるに留り決して抑圧されない。よし風刺文学者が嗤笑し、哲学者が説教しようとも、人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。自分が内心ひそかにあやかりたいと思っている強味を他人が持っている時、本心からこれを軽蔑し得る人は極く辛である。遠い昔からの我一門に就いて知っているということは、誰にも彼にも出来るものではないから、抽象的に立派なものとしていつも尊敬されるであろうが、百姓や職工の系図がどんなに長く続いていてもその子孫の矜恃に大した満足を与えはせぬであろう。我々は祖先を発見したいと思うが、而も彼等が裕かな財産を持ち、誉高い称号に飾られ、世襲貴族の階級に於て高位に在る所を発見したいと願う。而もこの階級を人々は、地球上の殆ど凡ゆる風土を通じ、又殆ど凡ゆる種類の政治社会に於て、最も賢明且つ有益な目的から、保存して来ているのである。

エドワード・ギボン「ギボン自叙伝  ー 我が生涯と著作との思い出 ー」

2017年10月31日火曜日

形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならない。

 もし集合を命題函数と同じものであるとみなすならば、完全な理論に近づくことができる。すべての集合はそれの要素に対して真となり、それ以外のものに対して偽となるような一つの命題関数で定義される。しかし集合がある一つの命題関数で定義されるならば、それはまたその函数が真であるとき真で、偽であるとき偽となるような他の命題函数でも定義される。従って集合をそのような命題函数の中の特別な一つと ー他のものをさしおいてー 同一視することはできない。そして一つの命題函数が与えられたとき、それが真であるとき真となり、偽であるとき偽となるような命題函数はたくさんある。そのように二つの命題函数を互いに形式的に等価であるという。二つの命題が共に真であるかともに偽であるとき、その二つ命題は等価であるといい、二つの命題函数がすべての値に対して常に等価であるとき、この二つを形式的に等価であるという。与えられた函数に形式的に等価な他の函数があるということは、集合と命題函数とを同一視することのできない理由である。二つの違った集合が全く同じ要素を持つということは望ましくないことであるから、形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならないからである。

バートランド・ラッセル (第17章 集合)「数理哲学説」

2017年10月25日水曜日

愛国心は最大の危険であり、愛国心の毒々しさを増大するのは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきである。

 疑いもなく、言うところの愛国心は、文明が現在さらされている最大の危険であり、なんであれ愛国心の毒々しさを増大するものは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきものである。現在、若者たちの忠誠心は、一方では親に、他方では国家にというふうに、二分されている。万一、若者の忠誠心が国家にのみにささげられるようになれば、世界は現在よりも一段と残忍なものになる、と危惧するべき理由は十分にある。したがって、国際主義の問題が未解決のままであるかぎりは、子供の教育と世話を国家が分担する量が増えることには、その明白な利益を上回る由々しい危険がある、と私は考えている。
 もしも、国家が国際主義的であるなら、国家が父親の肩代わりをすることは文明にとって利益であるが、国家が国家主義的で軍事的であるかぎりは、戦争が文明なあたえる危機が増大することになる、ということである。家族は、急速に衰退しつつあるが、国際主義の成長は遅々としている。だから、事態は、大いに憂慮されてしかるべきである。それでも、望みがないわけではない。将来は、国際主義が、いままでよりも急速に成長するかもしれないからだ。われわれに未来を予測することができないのは、あるいは幸運なことかもしれない。だから、われわれは、未来が現在よりもよくなることを期待する権利はないにせよ、希望する権利はあるのである。

バートランド・ラッセル「ラッセル結婚論」

2017年10月9日月曜日

我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。

 我々は眠りに落ち入ると薄暗い古代の影の棲家に入る。覚醒時のあの外界からは何の直接光線も照らしてくれぬ。我々は、我々自身の自覚的な意欲なしに、その部屋々をあちこちと連れて行かれる。我々はそのカビの生えた朽ち果てた階段を転がり落ち、神秘に満ちた奥深い所から来る不思議な音や香りに付きまとわれる。我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。我々は再び日常生活の世界に浮かび上がって来ると、一瞬陽の光が、我々が後に閉める戸の閉ざされぬうちに、薄暗い家の中にちらっと射すように思われる。そこで我々は今まで中をさま迷っていた部屋々を、まざまざと垣間見るのだ。そしてごくわずかながら、今までその所で送っていた生活についての多少の断片的の記憶がよみがえってくるのである。
ハヴロック・エリス (緒論) 「夢の世界」

2017年7月9日日曜日

ある歴史家が市民たちに武器をもって襲いかかった戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあった。

 ところが、その歴史家というものがたいていは嘘をつくものだよ。少なくとも昔はそうだったね。わたしはジェイムズの『社会民主党史』とかいう本の中で、1887年かなんでもその頃に、この場所(トラファルガー広場: 1805年の海戦を記念して1845年に設置された)で起こったある戦いのことをごたごたとわかりにくく書いてあったのを読んだことがある。その話によると、なんでもある人びとがこの場所で区民大会というか、まあ何かそういったことをやろうとしたところが、ロンドンの都庁というか、参事会というか、とにかくそうした野蛮な、乳臭い馬鹿者どもの集りが、その市民たち(当時はそういうふうに呼んだものだ)に武器を以って襲いかかった。どうもあまりおかしな話でほんとうのこととは思えない。しかしこの本が伝えるところでは、このことから大したことが何一つ生じたわけでもなかったということだ。これこそますますもってこっけいで、とてもほんとうとは思えない。

ウィリアム・モリス : 第7章 トラファルガー広場「ユートピアだより」

2017年7月5日水曜日

感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見る点で異なり、現在の多くの想像力で理性は負ける。

 もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要はたいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえずむほんをおこし扇動する、
「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」
 のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体を見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多くの想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。しかし、雄弁と説得との力が遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝返りで、理性が勝つのである。
フランシス・ベーコン「学問の進歩」

2017年5月20日土曜日

戦争は知覚されることであり、知覚されることを抜きにして戦争は存在しない。

 平明な常識の大道を歩んで自然の訓えに支配される無智な人類大衆は、概ね安穏で心を錯乱されていない。この人たちにとっては、馴染みのものはすべて、說明が不可能ではないと思われ、了解に困難でないと思われる。その人たちは、感官が明証を欠くという不平を少しも言わなく、懐疑論者になる危険性は全くない。
 しかるに、私たちが感官と本能を去って、一そう優った理知の原理の光に隋うや否や、すなわち事物について推測し、静思し、省察するや否や、以前には遺漏なく了解したように見えた事物について、百千の懐疑が心に湧き起こるのである。感官の偏見と過誤とはあらゆる方面から姿を現わして、私たちに視えてくる。そして、こうした偏見や過誤を理知によって訂正しようと力めながら、私たちは知らず識らずに奇怪な逆説や難問や撞着に陥る。この逆説や難問や撞着は、私たちが思索を進めるにつれて累積し、成長して、ついに、多くの錯綜した迷い路をさまよったすえ、私たちは、自分がちょうど前にいた所にいるのを見出すか、あるいはなお悪いことには、寄る辺ない懐疑のうちに座り込むのである。

ジョージ・バークリ「人知原理論」

2017年5月7日日曜日

意志によって世界は全体として別の強弱の世界へと変化する。

 意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのではなければならない。

 幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。

 同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである。

 死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。

 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。

 視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。

 人間の魂の時間敵な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている役目をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に行き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのであろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。

 世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿は現しはしない。

ルートヴィヒ・ウィトゲンスタイン「論理哲学論考」

2017年5月4日木曜日

死との戦いに勝てる従者、復讐の念、愛、名誉、悲しみ、恐怖、あわれみ

   哲学者で自然人としてのみ語ったセネカが、「死そのものより、むしろ死に付随するものが人を恐れさせる」と言ったのは至言である。うめき声、ひきつり、青ざめた顔、泣く友人たち、黒の喪服、葬式などが、死を恐ろしいものに見せる。人間の心の中にあるどんな情念も死の恐怖を負かして支配できないほど弱くはないことは注目に値する。それゆえ、人が死との戦いに勝てるほどの多くの従者を引き連れている時、死はそれほど恐ろしい敵ではない。復讐の念は死に打ち勝つ。愛は死を軽んずる。名誉はそれを願う。悲しみはそれに逃げ込む。恐怖はそれを先取りする。それどころか、皇帝オトーが自害すると、あわれに思って、あわれみが感情の中で最もやさしい感情である、多くの人が主君に対する純一な同情から、いわば最も忠誠なお供として殉死した、ということが書かれている。
 さらにセネカは気むずかしさと飽きやすさをつけ加える。「君がどんなに長い間、同じことをしてきたかを考えてみたまえ。勇士とか不幸な人とかが死を願うばかりでなく、気むずかしい人も願いかねない」。人間は勇敢でも不幸でもないにもかかわらず、ただ同じことを何度も繰り返すのにうんざりした結果、死を欲するだろう。
フランシス・ベーコン「ベーコン随想集」

2017年3月22日水曜日

戦争の監獄で生気を失い堕落に満ちて監房で息をひきとる

 監獄のなかには、収監されている人びとを見れば、その管理になんらかの誤りがあるに違いないとも誰もが確信するようなところがある。囚人の士気の痩せこけた顔つきが、ひどく惨めな境遇を無言のうちに物語るからである。入ってきたときには健康であった者の多くが、数カ月もたてば痩せ細り、生気を失った人間に変わり果ててしまう。ある者は病気になって ー すなわち「病気なのに監獄入り」という状態になって衰弱し、またある者は伝染病の熱病や天然痘に罹り、よどんだ空気のこもる監房の床で息をひきとる。これらの犠牲者が生じるのは、執政官や治安判事たちが残酷であるが故とまでは言わないにしろ、少なくとも彼らの職務怠慢に起因するものだとは言えるだろう。
 このような惨状の原因は、監獄で物資の供給か乏しく、人間が生存するための最小限度の衣食にさえこと欠くところが少なくない、というところにある。
 懲治院の囚人が強制労働を科されているのは周知の事実である。ならば、囚人たちの労働で食い扶持を賄うことはできないのか。そう問われるむきもあるかもしれないが、現実は信じがたい有様なのだ。何らかの作業を行っている、あるいは行える状態にある懲治院などはほとんど存在しない。なぜなら、囚人たちは作業のための道具も、いかなる種類の材料を持たないからである。怠惰と瀆神と堕落のなかで、彼らはいたずらに時間をすごしている。それがきわめて衝撃的な状況にまでいたっている施設も、現にわたしは目撃してきた。
 ある著書から「ここにあげた悲惨さは、監獄のなかで経験することのできる諸害悪の半分にも及ばない。監獄は、貧困と悪徳が生み出しうる種類の堕落に満ちている。すなわち、ひどい無分別がまねく恥知らずで放埒な大罪の数々、飢えへの怒り、そして絶望にみちた怨嗟といったものがある。監獄の中では、人目もないだけに、法の力も及ばない。怖れもなければ、恥じらいもない。淫らな者たちが、より慎み深い者たちの欲望に火をつける。豪胆な者たちが、臆病者たちを鍛えあげる。誰もが心の底に残った分別に逆らうことができるよう、自らを鼓舞し励ます。自分がされることを他人にもしようとし、最も悪い手合いの仲間たちから、彼らのやり方を真似ることで喝采を浴びるのである。」

ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」

2017年1月5日木曜日

戦争の一原因は社会制度と個人の心理にある

 こうしたさまざまな不幸の原因は、一部は社会制度の中に、一部は個人の心理の中にあるーもちろん、個人の心理は、それ自体、多分に社会制度の所産であ。私は、以前、幸福を増進するために必要な、社会制度の改革について書いたことがある。戦争、経済的な搾取、残酷さや恐怖をたたき込む教育、これらの廃止について本書で語るつもりは、私にはない。戦争を回避する方法を発見することは、私たちの分明にとって絶対的には必要である。しかし、人々が不幸なあまりに、一日一日を耐えて生きつづけていくよりも互いに殺戮しあうほうが恐ろしくないと思われるようである間は、そういう方法が見つかる見込みはない。
 機械生産の恩恵に、それを最も必要とする人びとが少しでもあずかれるようにするためには、貧困の恒常化を避けなければならない。しかし、金持ち自身が不幸であるとしたら、万人を金持ちにしたって、なんの足しになるだろうか。残酷さや恐怖をたたみ込む教育はよくないが、自らこういう情念のとりこになっている人たちからは、それ以外の教育を期待することはできない。このように考えてくると、いきおい、個人の問題に突き当たる。つまり古きよき日をなつかしむだけの今日の社会の只中にあって、男性や女性は、いつまでここで幸福を勝つ取るために何ができるか、ということだ。
 こうした不幸は、大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるもので、ために、人間であれ動物であれ、結局はその幸福のすべてがかかっている。実現可能な事柄に対するあの自然な熱意と欲望が打ち砕かれてしまうのである。こういうことは個人の力でなんとかなる事柄である。そこで、私は、人並みの幸運さえあれば、個人の幸福がかつ得られるような改革を示唆したいと思うのである。

バートランド・ラッセル「ラッセルの幸福論」

2016年11月1日火曜日

誤れる観念が紛糾と混乱を永続する

 我々は、我々の無秩序と混乱との如何にに多くが、我々の社会をこれまで支配した野蛮人とか人々の無秩序と混乱との如何に多くが、我々の社会をこれまで支配した野蛮人とか俗物とかの人の階級・国体の間に存在する、正しき道理すなわち至高最善の自己に対する不信仰によるか、彼等がそれらの中においてただ彼等の日常の自己を主張し表現して永らく我々を支配して来た諸組織の、不可避な衰微と崩壊とによるか、彼等が正しき道理によってではなく彼等のの日常の自己によって建設し今なお支配していると良心に顧みて認めざるを得ない社会が、それの報復者を阻止せむとして激しく動揺するに際した場合の彼等のの優柔不断によるかを見たからであろう。
 しかし、我々ー正しき道理と、我々の最善の自己を解放し向上せしめる義務と可能性と、完全に向かう人類の進歩とを信じる我々ーにとっては社会の組織、この厳粛な劇がその上で展開しなければならないあの劇場は、神聖である。誰がそれを支配しようとも、また如何なる我々が彼等から支配権を奪うことを欲しようとも、なお、彼等が支配している間は、我々はしつかと、一意専心、無政府状態と無秩序とを鎮圧することにおいて彼等を支持する。それは、秩序なかりせば社会は存在し得ず、社会なかりせば人間の完全は有り得ないからである。
 我々の現在の紛糾と混乱との如何ほど多くを我々のうちの大多数の人々の誤れる観念がひき起こして永続させる傾向にあるかを、既に見たのである。それ故、教養の同情者の現在における真の任務は、この誤れる観念を消滅せしめ、正しき道理と、確実な明白な真理とに対する信仰を弘め、人々をとて無私に自由に彼等の思想と意識とを彼等のお定まりの概念や習慣の上に働かすやうにすること、人々をして不完全な知識を以って誠実に行動するよりも、行動するためのより堅実な知識の基礎を得るようにさせることである。

マシュー・アーノルド「教養と無秩序」

2016年10月19日水曜日

霊魂は善悪のいずれかである

 霊魂の諸運動は、原因としていっさいの身体的運動に先立ち、思想・記憶・願望・希望・恐怖のごときがすなわち霊魂の諸運動である。自然学の対象たるいっさいの運動すなわち直動・回転・収縮・膨張およびその他の運動は霊魂の諸運動に依存する。在来の哲学者たちによってなされた大なる誤謬はかかる自然的運動をそれ以上説明を要しないものと考えたことである。この点において彼らは自然の背後には意図も理性も存在しないと主張する妄説に道をひらいた。さて霊魂は善悪そのいずれかである。善なる霊魂は、まさにその善に比例して、秩序ある定まれる運動、すなわち天体の運動はきわめて一定で秩序がある。その帰結として、いっさいの霊魂のうち最高なるものは完全に善なる霊魂でなければならない。しかし、無秩序なる運動も存するがゆえに、これが唯一の霊魂ではありえない、すくなくともひとつよりおおく霊魂がなければこの秩序の錯乱は説明されない。しかしひとつまたはそれ以上の無秩序の霊魂はあきらかに劣っており隷属的である。
 かくのごときが神の存在についてのプラトンの論証である。この論証は、もとよりたしかに一神論を唱えるものではない。もっともプラトンその人がひつとなる神を信じていた疑いえないが。じつのところ、これは当時の教養あるアテナイ人のすべての信じているところであった。

ジョン・バーネット「プラトン哲学」

2016年9月28日水曜日

自尊心が宗教に次いで悪徳を押さえる

 このベレンサレムの国ほど貞潔な国、汚職と悪弊を免れている国はないのです。人間世界の中で、この国民の純潔な精神ほど美しく、誉むものはないからです。あなた方は結婚を無用のものとして、不倫な欲望を癒すものてして定められている。ところが卑しい欲望をもっと暗にに癒す薬が手近にあると結婚はお払い箱になります。結婚して繋がれるよりは放縦不純な独身生活を選ぶ人が多くみられ、結婚しても、年をとり青春の活力が失われてから結婚する人が多いのです。求められるのは姻戚関係とか字残金とか名声とかで、子孫を残すことは付けたりの望みです。また勢力を卑しく浪費してしまった者は、貞潔な人々のように、子供を大切にするはずはありません。こういう、放蕩が、どうしても止むを得ざることしてのみ許されるならば、結婚したら止むはずですが、果たして結婚で事態は多いに改善されますか。いや相変わらず放蕩は続き、結婚はないがしろにされます。変化を求める悪しき習性と罪が芸となるの快楽が、結婚を退屈なもの、一種の懲罰か税金のようなものにしている。
 これらの悪習を、自然にもとる情欲のような、より大きな悪徳をさけるためだと弁護されるそうですが、本末転倒の知恵である。いやそればかりでなく、そんなことをしてもほとんど何の益にもならぬ、同じ悪徳と肉欲が跳梁している。背徳の情欲は炉のようなもので、焔を全部消せばいったんは消えるが、排け口を与えればまたもえさかると言うのです。男色については、ここではいったんは消えるが、ここでせはその気配さえありませんが、それでいて。この国でみられるほど信義に厚く、破られることのない友情は、他のどの国にもありません。要するに、この国の人々ほど貞潔な国民は聞いたことがなく、彼らの口癖は、「貞潔でない人は自分を尊敬できない」で、こうも言っています。「自尊心は、宗教に次いで、あらゆる悪徳を押さえる最大の手綱である」

フランシス・ベーコン「ニュー・アトランティス」





2016年9月12日月曜日

日本は全体と英国は自由の尊重

  わたしたちイギリス人の間では家族の結束はずっと弱いといえます。自分だけ金持ちでも仕方ないのでもちろん他の人の助けはしますが、家族に対する態度を比べると日本人とわたしたちの間には大きな違いがあります。一万キロも離れていることによる違いです。ここ東洋では個人の自由は重要ではありません。日本人は国民の幸せのためには個人の権利を放棄しなくてはならないと考えます。それで個人の自由を大切にする私たち西洋人が、日本時と同じように国民の幸福を望んでいることが理解できないのです。

 現在の変化しつつある世の中では、よいものを一部の人が占領するのではなく、みんなが共有するためには自由を制限を加える必要があるというのはもっともな意見で、私たちイギリス人も賛成です。それでも私たちにとっては命ともいえる個人の自由を放棄することは拒みます。どちらを向いたも目に入る他国の重苦しい全体主義の考えより、個人の自由を尊重する私たちの考え方がいいと思います。

 過程の中の一員が、その家族にとって資質を持つことがあります。肉体的な欠陥ならともかく、思想上の欠陥の場合には、例えば、旺盛な探究心に取り付かれたというような場合には、家族の中心的な人たちは、このまま放っておくと、一族の昔からの平和が荒らされることをちょ感敵に感じ取ります。あるいは、彼の方が自由を拘束する慣習に従おうとしないかもしれません。そんな時は、大人たちが勝手に本人のためと考えて、家族全員で事の解決にあたります。いかなる行動を起こすにせよ、両者ともに伝統に従って厳かに行います。何世紀にもわたって培われてきた家族に対する愛情は、その家独特の階層を作り出し、下の者は上に従順で礼儀正しく、またお互いが、あまり自由がない組織の中でできる限りの思いやりを持つようににりました。ある個人を愛するという自然で強い感情が、日本では、家族の愛に取って替わったのです。従って、団結した家族とその外の世界との境界線はイギリスよりもはっきりしています。

キャサリン・サムソン「東京に暮らす living in Tokyo 1928-1936」

2016年8月12日金曜日

欲望は野心と支配を動かす

  人は最も文明的な、ヨーロッパのどこかの州における人間の生活と、新インドの最も野蛮な、どこかの地方における生活との間に、どれほど距りがあるかをよく考えてもらいたい。彼は、単に援助や福祉のゆえばかりでなく、生活状態の比較によっても、まさしく「人は人に対して神である」と、当然言うことができるほど、差異があると判断するのであるろう。そしてこのことは、土地でも風土でも体質でもなく、まさに技術が与えるのである。
 さらに、発見された事物の力と効能と結果とを、見守ることが望ましい。それらは他でもないかの三つのこと、古代人には知られず、その発端はたとい近くであっても、あいまいで世に知られている三つのこと、すなわち印刷機、火薬、および航海用磁針に明瞭に示される。
 というのも、この三者は世界の事物の様相と状態とを変革したからでだが、すなわち第一はのものは文筆的なことがらにおいて、第二は戦争関係のことで、第三は航海に関することにおいて、そしてそこから、数限りない事物の変化が続いた。したがって、人間的な事がらに対して、より大きな効果および影響のごとき、及ぼしたとは見えないほどである。。
 のみならず人々の野心の三つの種類、いわば程度を区別することも、不当ではないだろう。第ーは、自分のの祖国において、自分の力を伸ばそうとと欲する人々のそれであって、この類の野心は通俗的で、また変性している。第二は、祖国の力と支配を人類の間に伸長することに努める人々のそれであって、これは前のより、品格はあるが、しかし劣らず欲望に動かされている。
 ところがもし人が、人類そのものがも全世界への力と支配とを、革新し伸長することに努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそは、残余のものに比べて、より健全でもあればより高貴であるもある。しかるに人間の事物への支配は、ただ技術と、知識のうちにある。自然はこれに従うことなくして、命令されないからである。

フランシス・ベーコン「ノヴム・オルガヌム」


2016年7月28日木曜日

戦争状態は敵意と破壊

 戦争状態は、敵意と破壊との状態である。それゆえ、言葉と行為によって、感情的性急にではなく冷静沈着に、他の生命を狙うと宣言すると、これによって彼はこのような企画をした相手に対して、彼は戦争状態におかれるのである。何故なら彼は自分の生命を、他人つまりこのような相手方や、あるいはその防御に立ち、その議論の肩を持つ者の力にょって奪われる危険にさらしたからである。私は自分に破壊の脅威を与えるものを破壊する権利が合理的であり、また正当である以上、それをもたざる得ない。基本的自然法によると、ひとは出来る限り生存を維持されなければならないが、もしすべての者の存続は不可能とするならば、罪なきものの安全が何よりも望ましいからである。そしてひとが自分に対して戦いをなしあるいは自分の存在に対して敵意を示した者を破壊してもいいのは、彼が狼や獅子を殺してもいいのと同じ理由によるのである。何故ならこのような人は、理性の普通法の高速の下にあるのではなく、ただ暴力の法則を知るのみであり、したがって猛獣、すなわちもし彼がその手におちれば必ず殺されるにきまっているところの危険有害な動物として取り扱われても仕方がないからである。
 それ故、他の者を自己の絶対権利下におこう試みる者は、これによって自分自身を、そのものと戦争状態におくのである。けだしそれはその者の生命を狙うことの宣言と解されねばならないからである。すなわち、私の同意なしに私を権力下に置こうと欲する者は、もし私を手に入れるならば、その欲するままに私を殺すであろう、結論する理由が私にあるからである。というのは暴力によって私に私の自由権に反することを強制する、すなわち私を奴隷にしようとのではなければ、何人も私を彼の絶対権利の下におこうと欲するはずはないからである。このような力から自由であることが、私の生存を維持するための唯一の保障である。そしてそれを保障している自由を私から奪い去ろうとする者を、私の生存維持の敵とみなすことは、理性の命ずるところである。このようにして私を奴隷にしようと試みる者は、これによって自分を私と戦争状態に置くのである。自然状態において、このような状態にあるものがすべての自由を奪いさろうとするものは必然的に、その他の一切のものを奪い去ろうと試みているのだと想像しないわけにはいかない。その自由はその他の一切のものの基礎であるからである。それはちょうど社会状態において、その社会もしくは国家の人々に属する自由を奪い去ろうとする者は、またその他の一切のものを奪いさろうと企てているものと考られねばならず、したがって彼らは戦争状態にあるものと見なければならないのと同じである。

ジョン・ロック「市民政府論」



2016年7月23日土曜日

国家に役立つ教育

 近代の日本は、あらゆる大国に顕著に見受けられる一つの傾向を最も明瞭に示している。つまり、国家を偉大にすることを教育の至上目的とする傾向である。日本の教育の目的は、感情の訓練を通じて国家を熱愛し、身につけた知識を通じて国家に役立つ市民を作り出すことにある。この二重の目的を追求する際に示された見事な腕前である。
 ペリー提督の小艦隊が到来して以来、日本人は、自己保存が非常に困難な状況に置かれていた。自己保存そのものがけしからと考えるのでないかぎり、彼らがそれに成功した以上、その教育方法も正しかったことになる。しかし、彼らの教育方法は、絶望的な状況にあったからこそ正しかったのであって、どんな国民であれ、差し迫った危機にさらされていない場合はけしからぬものであったろう。 
 神道は、大学の教授さえも疑問をはさむことを許されないもので、そこには「創世記」と同じくらい疑わしい歴史が含まれている。日本の神学上の圧政に比べれば、デイトンの裁判も顔色を失って、瑣末なものになってしまう。これに劣らぬ道徳上の圧政もある。たとえば、国家主義、親孝行、天皇崇拝などは疑いをさしはさんではならないものであり、したがって、さまざまな進歩がおよそ不可能になる。この種のかんじがらめの制度は、唯一の進歩の方法として革命を誘発しかねないという大きな危機をはらんでいる。この危険は、いますぐというわけではないが、現実のものであり、主として教育制度に起因しているのである。
 近代の日本には、古代の中国の欠点とは正反対の欠点が見出される。中国の知識階級があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。教育が生み出すべきものは、たとい困難ではあっても、知識はある程度獲得できるものであり、知識はある程度獲得できる。知識の誤りは注意と勤勉さにより正すことができる教育である。
 このように、近代の日本には、中国の知識階級があまりにも懐疑的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。
独断論者も懐疑論者はともに誤っている。その誤りが世にはびこれば、社会的な災害が引き起こされる。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル「ラッセル教育論」

2016年7月2日土曜日

リヴァイアサン (Leviathan)

 全人類の一般的性向として、つぎからつぎへ力をもとめ、死によってのみ消滅する。永久不断の意欲をあげる。これらの原因は、かならずしもつねに、人がすでにえたよりも強度の歓喜をのぞむということではなく、またかれが適当な力に満足できないということでもなくて、かれが現在もっているところの、よく生きるための力と手段を、確保しうるには、それをさらにそれ以上獲得しなければならないからである。そしてここから、つぎのことが生ずる。すなわち、最大の力の所有者たる王は、国内では法により、国外では戦争によって、それを確保すべく努力し、それがなしとげられると、あたらしい意欲がそれにつづくのである。ある王は、あたらしい征服による名誉を、他の王は、安楽と肉感的なたのしみを、また他の王は、ある芸術やその他の精神の能力がすぐれているとしょうさんされへつらわれることを、欲するのである。
 平和の原因にたいする無知よって、人々は、すべての事件を、直接にして手段的な原因に帰せしめようとする。かかるものが、かれらがかんがえる原因のすべてを、直接にして手段的な原因に帰せしめようとする。かかるものが、かれらがかんがえる原因のすべてであるからである。そして、ここからつぎのことが生じる。すなわち、あらゆるところで、公共体への支払いをなげく人々は、かれらの怒を、収税者、すなわち微税請負人や徴収に人、およびその他の公収入役人にたいして注ぎ、そして、公共体統治の欠点をさがすような人々につきしたがう。さらに、こうして、正当とされる可能性のないことをしたばあいには、罰せられることのおそれや、寛恕をうけることのはずかしさのたるに、至上権威をも攻撃するのである。
 社会状態のそとには、つねに各人対各人にの戦争が存在する。人々が威圧しておく共通の力なしに、生活していねーる時代には、かれらは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、かかる戦争は、戦闘や闘争行為のみに存するのではなく、戦闘によってあらわそうとする意志が十分にしられている期間に、存する。そして、したがって、時間の概念は、戦争の本質に関しては、不良な天候の本質は、ひと降りふた降りの雨にあるのではなくて、おおくの日をいっしょにした、それへの傾向にあるのであるが、それとおなじく戦争の本質は、実際の闘争に存するのではなくて、おおくの日をいっしょにした、それへの傾向にあるのであるが、それとおなじく、戦争の本質は、実際の闘争に存するのではなくて、その反対にむかうなんの保証もないときの全期間における、それへのあきらかな志向に存するのである。その他のすべての期間は、平和である。
 人々を平和にむかわせる諸情念は、死の恐怖であり、快適な生活に必要なものごとへの意欲であり、かれらの勤労によってそれらを獲得する希望である。そして、理性は、平和にかんする、つごうのよい諸条件を示唆し、人々はそれについて協定するようにみちびかれる。これらの諸条件は自然の諸法とよばれるものである。
 正義および不正という名辞が、その地位をもちうるためには、そのまえにそこになんらかの強制力があって、人々が新約破棄から期待する利益よりも大きな罰により、かれらに平等にに信約履行を強制しなければならず、かつまた、人々が相互の契約によって、かれらが放棄する普遍的権利のかわりに獲得する、所有権を、維持しなければならない。そのようなような力は共和政体(Common Wealth)の樹立以前には存在しないのである。そして、このことは正義についてのスコラ学派の通常定義からも推察されうる。かれらのいうところでは、正義は各人に各自のものをあたえようとする不断の意志である。したがって、各自のものがないばあい、すなわち所有権がない場合には、不正義は存在しない。また強制力が樹立されていないところでは、すなわち共和政体がないところでは、所有権は存在しない。すべての人々は、すべての物にたいして権利を有するのだからである。そこで、共和政体がないところでは、なにごとも不正ではない。このようにして、正義の本質は、有効な信約をまもるところに存するが、信約の有効性は、人々をしてそれをまもらせるのに十分な、社会的権力の設立によってはじまり、それと同時にに所有権もまた、はじまるのである。
 わたしは、人間の性質を、かれらの統治者のおおきな力といっしょに、のべてきた。神は、リヴァイアサン (Leviathan: ヨブ記第41章)の大きな力をのべて、かれを高慢の王とよんでいる。地上においてかれと比較されるべきものもない、かれはおそれをもたすようにつくられている。かれはすべてのたかいものをみくだし、あらゆる高慢の子たちの王である。

トマス・ホッブス