「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2018年2月11日日曜日
2018年1月28日日曜日
悲劇では行為する人々の再現であるから、視覚的装飾が悲劇を構成する要素でなければならない。
悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによって行われ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化を達成するのである。ここで快い効果をあたえる言葉とは、リズムと音曲をもった言葉のことを、それぞれの媒体を別々に用いるというのは、作品のある部分は韻律のみによって、他の部分はこれに反し歌曲によって仕上げることを意味する。
悲劇では行為する人々が再現をおこなうのであるから、まず視覚的装飾が悲劇を構成する要素の一つでなければならない。つぎに歌曲と語法が悲劇の要素としてあげられる。なぜなら、これらを媒体として再現がおこなわれるからである。ただしここで語法というのは、言葉を韻律にあわせて組みたてることだけを意味する。
悲劇は行為の再現であれ、行為は行為する人々によってなされるが、これらの者は性格と思想においてなんらかの性質をもっていなければならない。というのは、性格と思想によって行為もまたなんらかの性質をもつとわたしたちはいうのでありー行為には、おのずから思想と性格という二つの原因がある。ーそしてすべの人々は、このような行為に応じて、成功したり失敗したりするのである。
詩人の仕事は、すでに起こった断る語ることではく、起こりうることを、すなわち、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方が起こる可能性のあることを、語るこどある。歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。したがって、試作は歴にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。といのは詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別なことを語るからである。
アリストテレス(悲劇の定義と悲劇の構成要素について)「詩学」
2017年12月30日土曜日
慣習は勝利者となるため異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、賞賛を受けることすら許している。
実際人は次のようなことを熟慮すべきである。明らさまに愛するのはひそかに愛するよりも美しく、しかももっとも高貴にもっとも優秀な者をーたとい彼が他のものよりは顔貌が醜いにせよー愛するのは特に美しいといわれていることを。さらにまた、万人が恋する者に与うる異常なるーしかも何か醜悪な行いのあった者には決して与えられぬごときー鼓舞を。かつ恋愛における成功は誉とせられるが、その不成功は恥辱とせられる。慣習はさらにまたその勝利者となるためならば異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、しかもそれに対して賞賛を受けることすら許している。ところがこの行為は、もし誰かが何かこれ以外の目的を追求して、これを達成するためにあえて為したとすれば、フィロソフィヤから非常に手厳しい非難を招かずにはいられぬ種類のものなのである。
プラトン「饗宴」
2017年10月23日月曜日
金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲に我らを支配する力を与えた。
理性活動に何よりも内面的な優秀が必要な如く、国家においてもこれが肝要である。外物は共同生活においてすら、唯活動のための手段としてのみ価値を有する、それはかくして定められたる制限を越えてはならぬ。しかし多数者の際限なく富を重ね積もうとする渇求が、その中に困難なる障害を持って来る。こんなものの中に真の幸福を見出そうとする妄想は、金銭が入り来ったため恐ろしく増大してきた。金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲にいやが上にも我らを支配する力を与えた。かくて国家的社会もまたそれに対して強く戦わねばならない。国家が自らに対して、活動の発展に要するよりも以上に、外的手段を得んと努むべきではないと同じく、国家はまた市民の利得の念に程よき自然な制限をおき、そして特に金銭の支配に対して力を用いるを要する。すなわち確かなまた明らかに認め得られる生活標的によって外物に厳に限界を与えることと、社会の幸福と個人のその一致ということである。
ルードルフ・オイケン (アリストテレス) 「七大哲人」
2017年9月29日金曜日
彼らが善であると思って求めていたものが、実際には悪であっただけのことではないか。
メノン: 悪しきものが有益であると信じてそれを欲する人もあるし、害をなすと知ってそうする人もいるでしょう。
ソクラテス: いったいその場合、悪しきものが為になると信じている人々は、その悪しきものが悪しきものであるということを知っていると思えるかね ?
メノン: その点になると、そうは思えません。
ソクラテス: すると明らかに、その人たちは、悪しきものを欲しているのではないということになりはしないか。悪しきものであることを知らないのだから。むしろ、彼らが善であると思って求めていたものが、実際には悪であっただけのことではないか。したがって、それと知らずに善きものだと思っている人たちは、明らかに善きものを欲しているのだということになる。そうではないかね。
プラトン「メノン」
2017年7月28日金曜日
映像の流れは、個体の面での原子の位置と秩序とを保持しているが、周囲の大気中に、速やかに集像が生じることもある。
映像の生成が思想と同時に、思想と同じ原子的速さで、起こるということを、どんな現われている事実も逆証しない。じっさい、物体の表面からの映像の流出はたえずおこなわているが、しかも、このことが物体の大きさの減少という結果となってわれわれに看取されることのないのは、たえず代りの原子によって補填がおこなわれるからである。そして、映像の流れは、ときに乱されることもあるけれども、長いあいだ、個体の面での原子の位置と秩序とを保持している。だがまた、周囲の大気中に、速やかに、集像が生じることもある。というのは、立体的に内部まで充実することは必要ではないからである。そのほかにも、このような実在を生じうる仕方はいろいろある。というのは、もしわれわれが、感覚は、われわれにたいし、外界の事物から、どんな仕方で明瞭性をもたらし、また、どのような仕方でその対応的性質、外界の事物に対応する性質、をもたらすであろうか、に着目するならば、これらの説明の仕方はどれも、感覚によって逆証されないからである。
エピクロス「教説と手紙」
2017年6月13日火曜日
自分自身の魂をゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねないことだろう。
自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね? かりにもしこれが、君が身体を誰かにゆだねて、身体がよくなるか悪くなるかの危険をおかさねばならないというような場合だったとしたら、君はきっと、その人にゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねたことだろうし、また、何日も何日も考えながら、友人や身内の者の助言を求めたことだろう。しかるに、君が身体よりも大切にしているこの魂というもの、君のすべての幸不幸はそこにかかり、それが善くなるか、悪くなるかによって左右されるところのもの、そういうものについては、君は父親にも、兄弟にも、またわれわれ仲間の誰ひとりにも、ほかならぬこの君の魂をあの新米のよそ者に、ゆだねるべきか否かを、相談しなかったのかね。
君の話によると、昨夜このことを耳にするや、夜明けを待たずにとんできて、君自身をあの男にゆだねるべきかどうかということについては、一言も語らず、相談もせず、そして自分の金ばかりか、友達の金まで注ぎこんでもかまわぬつもりになっているのかーまるで何が何でもプロタゴラスにつかなければならないと、もうすっかり決め込んでしまったかのように! そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、君自身をゆだねようとするのか。
プラトン著「プロタゴラスーソフィストたち」
2017年5月22日月曜日
寡頭政治の世の中は同罪の死刑に巻き込む様なことを命じる。
まだ国家に民主政治が行われている頃に起こった事である。しかるに寡頭政治の世となったとき、「三十人」はまたもや私を他の四人と共に円堂に召喚してサラミス人レオンをサラミスから、死刑に処せんがために連れて来ることをわれわれに命じた。彼らは、できる限り多くの人を自分達と同罪に巻き込まんとして、他の多くの人々にもしばしば同じ様なことを命じたのである。
その時にもまた私は、言葉によってではなく、実行によってーもしこういういい方があまり粗野に失しないならばー自ら死は寸毫も顧慮しないが、これと反対に、不正と瀆神の行為を避けることは何よりも重視する者であることを証示した。あれほど強大な権力を持っていた政府も、私を威嚇して何らの不正も行わしめることができなかった。そうして私達が円堂を出てから、他の四人はサラミスへおもむいてレオンを連れてきたが、ひとり私は家に帰ってしまったのである。もしある政府がその後に、追いかけて崩壊しなかったら、恐らく私はそのために生命を失っているに違いない。またこの事については多くの人が諸君に証言するであろう。
プラトン「ソクラテスの弁明」
2017年1月10日火曜日
独裁とは権力と利益を熱望する支配欲
独裁とは権力と利益とを熱望する支配欲であると考えられるので、独裁者とはつぎのようなものである。庶民が、だれだれを挙げて執政官の補佐として祭礼の行列を司らしめたものかと協議をしている。その場にでて、その人たちは当然全権をにぎるべきものであると主張する。他のものらが人数は十名ではどうかと申出ると、それに答えて、言う「一名で十分である、ただしその者が真人間でなくてはならぬ」。
ホメロスの詩句のなかでただこの一言だけを覚えている「多数統治は好ましからず、治者は一人たるべし」。その他は皆ご存じない。また得意顔につぎのように口説をもてあそぶ「われわれは結束して自ら之等の事件を審議しなければならない。愚民や市場を遠ざけよ。当路の者につきまとったり、かれらより侮辱や恩顧をうけたりすることを慎めよ」。端然と上衣をまとひ、程よく髪を刈らせ、念入りに爪をつませ、日の頂きをみはからって家をでて次のやうな御託をならべながら、そこらをのしまわる。
「公務に向うて口嘴をはさむのが一体なんのつもりか合点がいかぬ」「あさましいものは民衆である、いつも施す人と与える人との奴隷となっているんだ」大会のときみすぼらしい不潔な者にそばにすわられると気がひけるものだ。
またいう「いつになったら、わしらは公役や兵船用意で破産の憂目をのがれることか」「憎むべきは民塊の一味である。まず最初に民衆の手にかかって殺されたのは、全部の大衆を統御し在来の王権を覆滅したその人であった。」そのほかこのようなことを他国の人々へも、また市民のうちで同気同好の者どもへもいう。
テオフラストス「人さまざま」
2016年12月29日木曜日
先頭と後方に最強者と中間は最弱市民
「だがそれは」とソークラテースは言った。「将軍学の一小部分に過ぎぬ。なぜかというと、将軍は戦争のための軍備一切をととめえ、そして兵士たちに糧食を供給できなくてはならなぬし、それから奇策縦横で活動的で注意細密でなくてはならず、柔和でるとともに残忍であり、率直であるとともに策謀的であり、用意堅固であり攻撃的であり、その他たくさんのことに、あるいは生まれながらに、あるいは学習によって、参軍を率いんとする者は練達しててなくてはならぬ。軍列の配備に長ずるのはもとより良い。なんとなれば軍隊は陣列の見事に配置されたのは、でたらめなのとくらべて、大変なちがいだからだ。それはあだかも石と煉瓦と木材と瓦とが乱雑に投げ出されてあるのはなんの役にも立たないが、これに反して、腐ること崩れることのない石と瓦とが下と上に配置され、中間に煉瓦と材木とか、建築におけるごとく組み立てられると、そのときはまことに価値のある財産、家が出来上がるに等しい。」とソクラテースは言った。
「そうです」と青年は言った。「ソークラテース、おっしゃるとおりです。なぜと言って戦争ではもっとも強い兵士を先頭と殿にに配置し、中間にもっも弱い兵士を入れ、こうして先頭にみちびかれ殿に追い立てられるようにしなくてはならないからです。」
「そうだ、もし彼が優秀な兵士と劣等な兵士の見分け方を教えたならそれでよい。しかしそうでなかったなら、君の学んだことがなんの役に立つのか。たとえば、もし将軍が君に命じて、もっとも上等な銀貨を先頭と殿とにおき、中間にもっとも下等な銀貨を入れるように言って、真物と贋金との鑑別を教えなかったならば、君はなんの役にも立つまい。」とソークラテースは言った。
クセノフォーン「ソークラーテース」の思い出
2016年12月22日木曜日
危険と死を収穫する人々で君主の富と勢いが強まる
アジアとヨーロッパの住民の性質・体格の相違については以上のとおりである。住民の無気力と勇気のないことに関してであるが、アジア人の方がヨーロッパ人よりも戦闘的ではなくて気質が温和であることの主要原因は、その諸季節が暑熱、寒冷のどちらでも激しい変化を示さず、平均していることである。すなわち精神の衝撃や身体の激しい変調がおこらないから、気質が始終同一の状態に保たれずに猛々しくなったり無鉄砲や勇猛になる、ということがないからである。あらゆる物の変化にこそ人間の精神を掻き立てて平静をゆるさないものである。
思うにこの理由によってアジアの諸族は柔軟なのであるが、他に制度もこれに役立っている。すなわちアジアはその大部分が王の統制下にある。人間が自分自身を統治せず、独立ではなく専制君主の下にあるところでは、人々は武勇を練ることよりも、かえって戦闘力ををもたないように装おうと努める。両者の危険はくらべものにならないからである。君主のために軍務に服し労苦をなめ死をおかし、妻子その他の身内と鑑別することを強いられるであろう。彼らのなしとげるて手柄と武勲によってその富が増大し勢いが強まるのは君主たちであり、危険と死を収穫するのは彼ら自身である。
さらにまた、このような人々の土地は戦争と放置によって荒廃させられるのである。だからして、よし生来勇敢で元気のある者までも、制度によっては気質が変化するものである。そのはっきりした証拠は次のとおりである。アジアにいるギリシア人にせよ異邦人にせよ、専制君主の下になくて独立し、自分たちの利益のために労苦する人々は、あらゆる人々のうちでももっとも尚武である。彼らは自分たち自身のために危険をおかすのであり、その武勇に対する褒美も自分たちが得、その卑怯な振舞いの罪も自分たちが受けるからである。
ヒポクラテス「古い医術について」
2016年11月4日金曜日
独裁を好み民衆を憎む
独裁好み
独裁好みとは、権力と利益を執拗に求める支配欲であると思われる。
独裁好みとは、権力と利益を執拗に求める支配欲であると思われる。
すなわち、執政官の補佐となって、祭礼の行列をとりしきる人には、どういう人たちを選んだものだろうと民会が審議している場合、彼は進み出てわが見解を述べる。「その人たちは独裁権をもつねのでなくてはならぬ」と。そして、他の人たつが、10人説を提案すると、彼は「一人で十分だ。だがその一人は、すぐれた人物でなくてはならぬ。支配者の数多きは善からず、支配者は一人たるべし。」と語る。だがそれ以外の句は、一つも心得ていない。
「われわれだけで団結し、もってこの審議にあたらなくてはならぬ。烏合の民衆や広場の者どもから遠ざからねばならなぬ。要職選挙にあたって民衆に尻尾をふり、ときには彼等の侮辱を、ときにはその尊敬をうけたりすることはやめねばならぬ、いやしくも、彼ら民衆か、はた、われわれか、そのどちらかがこの国を治めるべき時であれば」などと。
さらにまた、気取った風に上衣を肩にかけ、外出し、つぎのような文句を、悲劇の台詞よろしく朗々と口にしながら、誇らしげに闊歩する。「密告者ゆえ、この国には暮らしもならず」とか、「公務につかんと心はやる者たちの望むところ、そもそもいずくに在りや、これ、われのかねてより不審とするところなり」「忘恩の徒輩はこれ民衆、恩をふりまき、与える者の側につねにつく」「憎むべきは民衆の頭目なり」「テセウスは、12国を1つの国に統合し、もって民衆の勢力を増大せしめ、ついには王政も壊滅させて、万事の支配権を民衆の手にゆだねたればなり。されぱ当然の報いを彼はうけたり。彼ら民衆の手にほうむられた最初の者なれば」、と。その他それに類したことを、外国の人たちにも、また人生観、政治観ひとしくする同胞の者たちへも、彼は口にするのである。
テオプラストス「人さまざま」
2016年10月6日木曜日
無知は奴隷同然に放置
学者たちは人間的関心事についてはもう十分知悉しており、人間界の外にあって人間の心理発見能力を越えるような事物の研究のためには、そんな問題は無視したってやっていけるとでも思っているのかとソクラテスは尋ねるのである。かれらは基礎的な諸点においてさえ自分たちどうし意見が一致せず、互いに異論を唱えあっているのに。あるいは天空の事象を研究することで、天候や気象を制御できるとでも思っているのだろうか、それともどのようにして風が吹き、雨は降るのかを知りさえすればそれで満足なのだろうか。ソクラテス自身はただ人間的関心事ー何が人々を個人として、あるいはまた市民として善き者にするのかということだけを論じたとクセノポンは言う。この分野では知識は気高い人格の条件であり、無知は人を奴隷同然の状態に放置するものだった。
クセノポンの報告を信頼してよいのなら、ソクラテスは当時行われていた自然について思索を二つの根拠から拒否した。それは独断的であり、役に立たないというのである。
一つめは、自分たちの話すことが真実であると知りうるはずがないのに自信たっぷりに教える人々の話を信じるように求められたときの反論である。イオニアの自然学者たちが世界の起源を叙述する場合、かれらはそれを自分たちがそこに居合わせて目撃したような確かな口ぶりで語っていた。
もう一つの反論は、そういう理論は役に立たないというものである。「役に立たない」という言葉でソクラテスが何を言おうとしていたのか、クラノホンの説明はその点のかれの無理解を露呈している。
ソクラテスが「役に立たない」と言ったのは、どちらかというと、人間の主要かつ本来的関心事だと彼が思っていたものー自己自身と正しい生き方についての知識ーのためには役に立たないということだった。人生の終極目的はいまこの時この場所において知ることができる、そうソクラテスは思った。
フランシス・マクドナルド・コーンフォード「ソクラテス以前以後」
2016年6月22日水曜日
戦争で支配される奴隷
他の人々に比べて、肉体が魂に、動物が人間に劣るのと同じほど劣る人々は、誰でも皆自然によって奴隷であって、その人々にとっては、劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、その支配を受けることの方が善いことなのである。なぜなら他人のものであることのできる人間、すなわち道理をもっていないが、それを理解するくらいには関与している人間は自然によつて奴隷だからである。他の動物どもは道理を理解して従うことはなく、本能に仕えているからである。実は奴隷と動物の間に有用では大した相違は存在しない。生活必需品のために肉体をもって貢献することが両者の能力だからである。
自然は肉体をも自由人と奴隷では異なった者として、奴隷は生活に必要な仕事に適する丈夫であり、自由人は真っ直ぐで労働には役に立たないが、国民としての戦争と平和に関する仕事には有用な生活を作る意向をもっている。逆にある奴隷は自由人の肉体をもち、魂をさえもつこともある。ただ肉体に関してだけでも、神の像と人間の姿との相違と同じ程度の相違が人々にあるなら、疑いもなくすべての人は、劣れる者が優れた者に奴隷として仕えるのは当然だろう。肉体の場合に真実であるなら、精神の場合に同じ規則を適用するのは、はるかに正当なことである。自然によって人々は自由人であり、ある人々は奴隷であることが有益なことであり、正しいことは明らかである。
自然とよって奴隷、法によって奴隷、奴隷として仕えている奴隷もある。戦争中に征服された者は、征服者の者であると規定する法律が一種の約束として存在する。徳は必要な外的手段を手に入れば、力による征服を最もよくなし得る。力によって征服者にある者は善を常に非征服者よりも余計にもっている。力は徳なくして存じえないので奴隷にする事を正当化する。征服者と非征服者の相互間の好意が正当化する事になり、人々には力の優れた者の支配が無条件に正しいと思うからである。
戦争はその起こりが正しくないこともあり、奴隷に適さないものが奴隷である事を承認はしない。捕われても自分自身を奴隷と呼ばれる事を好まず、自然によっての奴隷以外のものではない。人間からは人間、動物からは動物が生まれるように、善き親からは善き子供が生まれるのが当然である意向を自然は持っている。ある者は支配され、ある者は支配する、悪しく支配することは両者に不利益をもたらす。
自然は肉体をも自由人と奴隷では異なった者として、奴隷は生活に必要な仕事に適する丈夫であり、自由人は真っ直ぐで労働には役に立たないが、国民としての戦争と平和に関する仕事には有用な生活を作る意向をもっている。逆にある奴隷は自由人の肉体をもち、魂をさえもつこともある。ただ肉体に関してだけでも、神の像と人間の姿との相違と同じ程度の相違が人々にあるなら、疑いもなくすべての人は、劣れる者が優れた者に奴隷として仕えるのは当然だろう。肉体の場合に真実であるなら、精神の場合に同じ規則を適用するのは、はるかに正当なことである。自然によって人々は自由人であり、ある人々は奴隷であることが有益なことであり、正しいことは明らかである。
自然とよって奴隷、法によって奴隷、奴隷として仕えている奴隷もある。戦争中に征服された者は、征服者の者であると規定する法律が一種の約束として存在する。徳は必要な外的手段を手に入れば、力による征服を最もよくなし得る。力によって征服者にある者は善を常に非征服者よりも余計にもっている。力は徳なくして存じえないので奴隷にする事を正当化する。征服者と非征服者の相互間の好意が正当化する事になり、人々には力の優れた者の支配が無条件に正しいと思うからである。
戦争はその起こりが正しくないこともあり、奴隷に適さないものが奴隷である事を承認はしない。捕われても自分自身を奴隷と呼ばれる事を好まず、自然によっての奴隷以外のものではない。人間からは人間、動物からは動物が生まれるように、善き親からは善き子供が生まれるのが当然である意向を自然は持っている。ある者は支配され、ある者は支配する、悪しく支配することは両者に不利益をもたらす。
アリストテレスの政治学
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