「思い出の戦争」だけは真の戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは僅かな存在にすぎない市民である。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。 戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として日本思い出の戦争をまとめる。 ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争記を平和市民に送り捧げたいために。@Jan/1/2016, JNW, japan.nowar@gmail.com
2017年11月3日金曜日
2017年9月16日土曜日
人間性の本姓に生理的なもの、獣的なものを明らかに示そうとする。
第一に文学は重圧の感情に表現を与えようとする。社会生活の秩序は既に古く、老い朽ち、風にも堪えぬ脆弱なものになってしまったという。パリでは新しい文学が社会主義と隣り合って、凄んでいる。この作家たちは描写する、描写しながら分析をする。彼等はこれに酔う、そして已が手でその疾病と死を摘別する。しかして事実の表現において真実に忠実であり徹底的かつ的確でなければ解決は得られない。随って第二に新しい文学、美術は自然主義であろうとする。それは現実的なものをあるがままに露わにし、分析しようとする。この文学の最も著しい傾向は、何よりも先ず人間性の本姓の裡に生理的なもの、むしろ獣的なもののあるのを明らかに示そうとするところにある。それは抗い難い本能であって、ただ治世のみがその道を照らし得るのである。
ヴィルヘルム・デルタイ「近代美術史 ー 近代美学の三期と現代美学の課題 ー」
2017年9月11日月曜日
憐れみは、卑下の欲求であり、下ろうとするあこがれである。
道徳的感情も同じ種類の研究にゆだねられると思う。例えば、憐れみを考察しよう。哀れみは先ず第一に、他人の位置に思想上で我が身を老いて、その苦しみを苦しむことにある。けれども、ある人達の主張したように憐れみがそれだけのものにすぎないならば、苦しみは我々に自ずと恐れを抱かせるから、憐れみはみじめな人々を救うよりはもこれを避ける念を我々に抱かせるはずである。この恐れの感情は憐れみの起りにはあるかもしれないが、間もなく新たな一要素が、他の人々を助けてその苦しみを和げてやりたい欲求が、そこに加わってくる。
他人の不幸が我々に抱かせる同情のうちにも、多分恐れは事実何らかの位置を占めるものとして入るであろう。しかし、それはいつも低級な形の憐れみでしかない。本当の憐れみは、苦しみを恐れるよりはむしろ苦しみを望むことにある。それはほとんど実現されるのを願うか願わないかのかすかな望みであるが、それにもかかわらず、自然が何か大きな不正を犯しでもするので自然との凶暴のあらゆる疑いを覗かねばなんらないかのように、自己にめぐってつくる望みである。つまり憐れみは、卑下の欲求であり、下ろうとするあこがれである。
アンリ・ベルグソン (第一章 心理状態の強度について)「時間と自由」
2017年8月20日日曜日
君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。
想像力のはたらきはすごいものだ。君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のゆることだけを考えるべきた。あの石工を見たまえ。彼は落ち着いてハンドルをまわしている。大きな石はほんのわずか動くだけだ。それでもやがて家は出来上がるし、子どもたちが階段でとびまわっているようになる。ある時ぼくは、厚さ15cmもある鋼の壁に穴をあけようとしている独りの職人が、そこに座って曲がり柄錐を扱っているところを見て感心した。口笛を吹きなから錐をまわしているのだ。鋼鉄のこまかいくずが雪のように舞っていた。この男の図太さにぼくはまいっていた。
エミール=オーギスト・シャルティ (アラン)「幸福論 (第1部)」
2017年8月17日木曜日
いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。
軍人。ー 諸君の軍隊はエクスに終結して何をしようというのですか? それでは絶望的ですよ。塹壕にこもっている者は敗れるということは、戦術上の公理です。経験も理論もこの点では一致しています。エクスの城壁は最も出来の悪い原野の防禦陣地にも劣るでしょう。・・・マルセーユの方よ、私の言葉を信じ給え、諸君を反革命に導く少数の不逞の輩のくびきを脱し、諸君の法律で決められた権威をふたたび打ち建て、憲法を受け容れ、代表者たちを自由の身に返してやり給え。そして代表者たちがパリへおも赴いて諸君のためにとりなさんことを。諸君は惑わされているのです、民衆が少数の謀叛人や陰謀家から惑わされるのは今日にはじまったことではない。いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。
オクターヴ・オリブ編「ナポレオン言行録」
2017年7月29日土曜日
現代の政治家たちは、金の計算をやめて、金では買えないものはないが、習俗と市民とは例外であることを反省してもらいたい。
キュロスのペルシア王国は、ペルシアの最も小さな太守よりも、なお貧しい一君主に率いられた三万の兵によって征服されました。また、あらゆる民族の中で最もみじめなスキタイ人は、世界最強の君主達に抵抗しました。二つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。2つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。一つはひじょうに富み、他はなにももちませんでしたが、前者を滅ぼしたのは後者でした。世界のすべての富を併呑した後、こんどは、ローマ帝国が、富が何であるかをさえ知らない人々の餌食になりました。フランク人は、ガリア人を征服し、サクソン人はイギリスを征服しましたが、彼らは、剛勇と貧困の他には、何の財産ももっていなかったのです。数枚の羊の皮で、その欲望がみちされていた一群の貧しい岳人が、傲慢なオーストラリア人征服した後、当時ヨーロッパの専制君主たちをふるえあがらせていた裕福で恐ろしいブルゴーニュ家を粉砕しました。最後に、東西両インドの全財産に支えられていたカール五世の後継者がもっていたあらゆる権力も知力も、一握りの漁夫にぶっつかって、壊滅するにいたりました。現代の政治家たちが、金の計算をやめて、これらの実例を反省してくれれば、また、金では買えないものはないが、習俗と市民とは例外であることを一発でもわかってくれれば、ありがたいのですが。
ジャン=ジャック・ルソー「学問芸術論」
2017年7月27日木曜日
市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。
もし諸君がランシェ島に眼を向けるならば、次のことをあやしまずにいられないだろう。誰がここにこれだけの人間を配置したのか? どんな交通機関があって、彼らをよその人間とつながらせているのか? 彼らは直径一里そこそこの島にいるが、人口の増加するにつれて一体どうなるのか? このことについてブーガンヴィル氏は何も知らない。
私なら最後の質問に対してこう答えるだろう。彼らは殺戮しあうか、共喰いをするか、彼らの繁殖が何らかの迷信的な法律によって遅らせるか、祭司の刀にかかって死ぬかである。また私ならこうも答えるだろう。時のたつにつれて、首を斬りあうことを名誉と考えるようになったにちがいない。あらゆる市民的、国家的制度は神聖なものとして祭り上げられ、ついには超自然的な神がかりの法律に退化する。またそれと反対に、あらゆる超自然な神がかりの法律は市民的、国家的法律に退化するうちに、牢固たるもの、永久不変のものとなる。これは人類の幸福と教育にとって、不詳きわまる悪循環の一つである。
ドゥニ・ディドロ「ブーガンヴィル航海記補遺」
2017年7月18日火曜日
歴史は躍如たる画像を構成するために知識を使用することである。
もしも歴史がただたんに過去の記録と考えるならば、初等教育の課程において歴史がなんらか大きな役割を演ずべきであると主張する、いかなる論拠もみいだすことは困難であろう。過去は過去である。死者には安らかにみずからを葬らせておけばいいのである。現在はあまりにも多くの緊切な要求に充たされており、未来の敷居をまたごうとするあまりにも多くの要請が存在しているので、永久に過ぎ去ってしましたものに子どもを没頭させておくわけにはゆかない。
もし歴史教授の目的が、子どもをして社会生活の価値を評価し、人間相互間の有効な協同を助ける諸力、およびこれをさまたげる諸力を想像をとおして看取し、社会生活を助長するところの、またはこれを阻止するところの事物の種々なる性質を理解することを得させることであるならば、歴史を提示するばあいの最も本質的なことがらはその提示を運動的・力動的たらしめることである。歴史は、結果或いは影響の集積、すなわち生起したことのたんなる叙述としてではなくて、力にあふれた、活動しつつあるものとして提示されねばならなぬ。動機ーすなわち原動力ーが明らかにされねばならぬ。歴史を学習するということは、知識を蒐集するということではなくて、いかに、そしてなぜ人間はかくかくのことを為したか、いかに、そしてなぜかれらはその成功をかちえたか、或いはその失敗をまねくにいたったかについての躍如たる画像を構成するために知識を使用するということである。
ジョン・デューイ「学校と社会」
2017年6月29日木曜日
天才はただ一つのことにしか役に立たないでそれから先はろくでなしなんだ。
あの人が誰かにそんなことをしてくれるとすれば、そりゃなんかの間違いでやるんです。あれもあれなりに哲学者ですからな。あれは自分のことだけしか考えちゃいない。自分以外の世界のことはあの人にとっちゃ一文の価値もありませんや。娘と女房は好きな時に死ねばいいんで。彼女たちのために鳴らされる教区の鐘が十二度と十七度の音とをいつまでも響かせていさえすれば、なにもかもそれでいいんです。それがあの人にとって幸福なことなんでさあ。これが私が天才というやつのうちでとくに買っている点ですよ。
彼らはただ一つのことにしか役に立たないですることそれから先は、ろくでなしなんだ。市民とか、父親とか、母親とか、友だちとかであることがどんなことだか、彼らにゃわかりゃしません。ここだけの話ですがね、ひとはあらゆる点で彼らに似るようにしなければなりませんな。もっとも天才の種がだれにもあることを望んだってだめです。普通の人間が必要なのです。天才なんかいりませんや。いやまったく、そんなものはちっとも必要じゃない。ところが、地球の表面を変化させるのは彼らなのだ。しかも、どんな些細な事柄についても、人間の馬鹿さかげんはひどく行き渡っていて根強いもんだから、わいわい騒ぎたてなくちゃその改革なんかできっこないのです。彼ら天才の想像したことの一部は実現されていますが、一部は前のとおりです。
ドゥニ・ディドロ「ラモーの甥」
2017年6月26日月曜日
第一次世界大戦の間は、新聞や雑誌はとかく現在の恐ろしい不安から目を転じた。
第一次世界大戦の間、新聞や雑誌はとかく現在の恐しい不安から目を転じて、後に平和が回復した上で何が行われるかを考えたものである。特に文学の将来が問題となっていた。ある日私のところへ人が来てそれをどう考えるかと尋ねた。私も少し困って、そういう事は考えていないと言明した。『せめて何か可能な方向をお考えになりませんか。それは誰にも細かいところまでは予見できないとは認めても、哲学者である先生には全体の観念というものはおありでしょう。例えば今後の大きな劇作がどうお考えになります。』と言った。『私に今後の大きな劇作がどんな物だかわかれば、私が書きますよ。』と言った時の相手の驚きは、いつまでも忘れないであろう。私には相手が、その時からちゃんと将来の作品が可能なものを秘めたなんだかわからない戸棚の中に仕舞ってあるように考えていることがはっきりとわかった。
そこで私はすでに古くから持っている哲学との交渉を考えてみれば、その哲学から戸棚の鍵を手に入れているはずだと思われたのである。『しかしあなたの言う作品は可能ではない。』と言った。ー『そうは仰有つてもその作品が後で出て来るものですから可能に決まっています。』ー『いや可能ではありません。せいぜいその作品が可能だったということになるだろうと認めるだけです。』ー『なに簡単なことですよ。才能もしくは天才のある人が、突然出て来て一つの作品を創造する。そうするとその作品が事象的になり、正にそれによってそれからは、後で逆に眺めると、又は後から逆に作用するものとして可能になります。しかしその人が現れて来なかったとすれば可能になりませんし、可能だったことにもなりません。それで私はその作品が今日可能だったことになるでしょうが、まだ可能ではないというのです。』
アンリ・ベルクソン「可能性と事象」『哲学的直感ー思想と動くもの』
2017年6月21日水曜日
国家は常に同一の状態にとどまるものであり、維持すればよく、増大も有益どころか有害である。
政府が、その基礎を著しく異にする家政に、どうして類似しうるであろうか。父親は子供達よりも肉体的に強力であるから、彼の助力が子供達に必要であるあいだは、父権は自然によって打ちたてられたものと正当にも見なされる。すべての成員が自然に平等である国家においては、政治権力は、その成立に関するかぎり純粋に恣意的なものであって、契約にもとづいてのみ基礎づけられるに過ぎず、役人は、法によらずしては、他人に命令することができない。子供達にたいする父親の権力は、子供達の特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが、主権は、特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが主権は、共同利益以外の何らの目的をもたないから、すでに諒解ずみの公共の利益以外の何らの制限をもたない。
首長は、人民に対して首長が行うことを約束した事柄、すなわち人民がその実行を要求する権利をもつ事柄、についてのみ人民に義務をもつに過ぎない。一般行政は、自らに先行する個人財産を保証するためにのみ樹立される。国家の富は、しばしば非常に誤解されているが、諸個人を平和と富裕のなかに保つための一つの手段でしかない。国家は常に同一の状態にとどまるべく作られたものであり、維持すればよいばかりでなく、いかなる増大も有益どころか有害であることは容易に立証しうるところである。
ジャン・ジャック・ルソー「政治経済論」
2017年5月31日水曜日
苦しみを不断につつづけさせ、不断に新たな苦しみをかきたてるように、たえず新たな攻撃を加える。
あらゆる方法で憎悪心をとぎすましながらも、わたしの迫害者は、そのはげしい憎悪のためにかえってひとつの方法を忘れていた。それは、効果をだんだんとつよめていき、わたしの苦しみを不断につつづけさせ、不断に新たな苦しみをかきたてることができるように、たえず新たな攻撃を加えるということだった。もしもかれらが巧妙に、いくらかでも希望の光を残しておいてくれたなら、それによっていまでもわたしを捕らえていたにちがいない。なにか好餌をもってさらにわたしをなぐさみものにしたうえ、すぐにわたしの期待を裏切って、また新しい苦しみをあたえ、わたしを悲嘆に暮れさせることもできたろう。
ところがかれらは、初めからあらゆる手段を使いはたしてしまった。わたしはなにひとつ残しておくまいとして、自分たちもいっさいすることがなくなってしまったのだ。かれらがわたしに浴びせかけた罵詈、誹謗、嘲笑、汚辱の雨は弱まることはないにせよ、いっそう激しくなることもありえない。かれらは、それをさらに重大なものとすることはできないのだし、わたしはそれからのがれることはできない。どちらも同様に打つ手がない。かれらはあまりにも性急にわたしを不幸のどん底に追い込もうとしたために、いまでは人間に可能なかぎりのことをして、地獄のあらゆる狡知の助けをかりようとも、このうえできることはなにひとつなくなっている。肉体的な苦痛をあたえるとしても、それはわたしの苦悩を増すことなく、かえって苦悩忘れさせてくれるだろう。悲鳴をあげさせるかもしれないが、嘆息する機会は少なくしてくれるだろうし、身体の痛みは心の痛みを忘れさせてくれるにちがいない。
ジャン・ジャック・ルソー「孤独な散歩者の夢想」
2017年5月5日金曜日
平和とは戦争とは何か。
平和、それは、一政治社会が享有するー国内では、その成員間によき秩序が支配することによって、国外では、互いによく和合しあって他の諸人民と共生することによって享有するー安寧である。
戦争は、人間の腐敗の果実であり、政治体のけいれん性の重病である。政治体は、平和を享有するときにのみ、健康状態、すなわちその自然状態にある。国家に力をあたえるのは平和である。平和は、市民のあいだに秩序を維持し、法律に必要な力をあたえ、人口増加、農業、商業を促進する。一言でいえば、平和は、すべての社会の目的である幸福を人民に得させる。
戦争は、これに反して、国家の人口を減少させ、国内に無秩序を支配させる。戦争がもたらす放縦にたいしては、法律は沈黙を余儀なくされる。戦争によって、市民の自由と財産は不確実となり、商業は混乱し等閑にふされ、土地は耕されず放棄される。いかなる国家であろうと、もっと目ざましい勝利でも、戦争の犠牲となった多くの成員の損失の埋め合わせをつけることは決してできない。その勝利そのものの国家にもたらす重傷をいやし得るのは、平和のみである。
ダミラヴィル「平和 Paix」
ドゥニ・ディドロ、ジャン・ル・ロン・ダランベール『百科全書』
2017年4月25日火曜日
戦争の苦しみは平時に直ちに忘却して悪意で外国を判断する。
戦争本能が必要であったし、それは自然的と呼ばれ得るような残忍な戦争を目的として存在していたのであるから、単に武器を錆びさないためにも、多数の偶発的戦争が行われた。さて、戦争が始る際の民族の熱狂を考えてみよ! もちろん、そこには恐怖に対する防衛的反応、勇気の自動的鼓舞がある。しかし、そのにはまた、あたかも平和とは二つの戦争の間の一休止に過ぎないかのように、自分は危険と冒険の生活のために作らていたのだという感情もある。熱狂はやがて静まる、なぜなら苦しみが甚だしいからである。
戦争の苦しみは平時にあってはどうして直ちに忘れられてしまうのであろうか、というこは知りたい点である。婦人には分娩の苦痛を忘却させるための特別なメカニズムが存しているーすなわち、あまりに完全な追憶は彼女が再度の分娩を欲するのを妨げるであろう。この種の何等かのメカニズムが特に若い民族にあっては戦争の戦慄の場合にも真実に働いているように見える。自然はこうした方面でなお別の種々な予防策を講じた。自然は、われわれと外国人との間に、無知や偏見や憶断で巧みに織りなされた幕を垂れ下げた。一度も訪れたことのない国を認識しないことは何等驚くべきことではない。しかし、その国の認識を持たないでその国を判断し、しかも殆ど常に悪意で判断するということは、說明を要する事実である。
アンリ・ベルグソン「道徳と宗教の二源泉」
2017年4月22日土曜日
善と悪は感じ方及び外的事物が印象づける度合いに依存する。
われわれに憐憫の情や苦痛の観念を呼び起こす外的な表示の手段のうちで、盲人たちが強い印章をもつのはただ愁訴による場合のみだということから、一般に盲人たちは非人情なものではないかと思うわけなのです。一体、盲人にとって、小便をひっかける人間と、ぐずぐずいわずに潔く血を流す人間との間にどのような違いがあるのでしょう? われわれにしてみても、対象が遠く離れているか、或いは小さいために、視力の喪失が盲人に及ぼすのと同程度の効果を負わされたとしたら、われわれだって同情をもたなくなりはしませんか? それほどさようにわれわれの善はわれわれの感じ方、及び外的事物がわれわれに印象づける度合いに依存するのです! だからこそ、罰さえ怖れなければ、それが燕ほどの大きさに見えない距離で一人の男を殺すことは、多数の人にとっては、彼らの手で一匹の牡牛を絞め殺すよりはるかに楽なのだということを確信するのです。われわれが喘ぎ苦しむ一頭の馬にも憐れみを感じながら、何ら懸念なしに一匹の蟻を踏み殺しえるのは、これと同じ原理に支配されているのではないでしょうか?
ああ盲人の道徳はわれわれとはなんと異なっていることでしょう? 聾者の道徳が盲人のそれとはまたかけ離れていることでしょうし、われわれより一つ余計に感覚をもつ生物がありとすれば、いかに慾目で見たところで、われわれの道徳を不完全なものだと思うことでしょうね?
ドゥニ・ディドロ「盲人書簡」
2017年3月25日土曜日
戦争による死の威嚇は未来の関心を突然に失い過去を放棄する
仮説ではありません。例外的な場合には注意が生活に対して持っていた関心を突然放棄する場合がある。そうするとたちまち魔法にかかったように過去がまた現在になる。不意に眼の前に差し迫った死の威嚇が現れて来た人々は、崖から下へ滑る登山家や水に溺れるものや首を吊ったものには、注意の急激な転換が生じることがあるようです。ー それまで未来に向けられて行動の必要に奪われていた意識の方向が変わったために、突然それらに対し関心を失うようなことが起こるようです。それだけでも十分に『忘れていた』何千という細かい事が記憶に蘇り、その人の歴史全体が眼の前に動くパノラマとなって展開するのです。
そこで記憶は説明する必要はありません。というよりも、過去を保持してそれを現在の中に注ぎ込むことを役目とする特別な能力というものはありません。過去はひとりで、自発的に保存される。もちろん、我々が変化の不可分という、我々の最も遠い過去が我々の現在に密着していてそれと共に唯一つの同じ遮られない変化を構成するという事実に眼を閉じれば、過去は正常的には廃棄されたもので、過去の保存は何か非凡のことのように思われ、我々はそこでどうしても、後で意識に再び現れて来ることのある過去の諸部分の記録を役目とする装置を考えなければならないと信じる。しかし、我々が内生活の連続、したがってその不可分を考慮に入れれれば、説明を要するのは過去の保存ではなく、却ってその見かけの上の廃棄だということになる。我々は想起ではなく忘却を説明しなければならなくなる。
アンリ・ベルグソン「哲学入門ー変化の知覚」
2017年2月22日水曜日
激しい飢餓は狂暴の嵐の中で、力の弱い者が強いものの餌食になる
自然と真理とを研究するだけでは賢人には不足である。考えることを欲しまたできる少数の人のために、進んでこれを述べる義務がある。けだし、その他の人々、自ら進んで偏見の奴隷となっている徒輩に至っては、蛙に羽で飛ぶことができないと同様、かれらが真理に達することは不可能の業だからである。
もっとも賢明な連中は、魂はただ信仰の光によってのみ、自らを識ることができる。しかも道理のわかった人間という資格で、精神なる言葉によって聖書がなにを意味しようとしたかをしらべてみる権利は、これを留保しうると信じたのである。聖書は、人間の魂を語る際に、この言葉を用いている。さらに神学者たちは他のすべての点に関して相互の間に果たしてこれ以上の一致を見せているであろうか。
神なるものがあるとすれば、それは自然界の創造者であり、同じく天啓の創造者である。神は一方を說明するために、他方をわれわれに与え、さらに両方を調和させるために理性を与えたのである。生物体の中から汲みとりうる知識を信用しないことは、自然と天啓とを、相互に衝突しあう二つの相反したものとして眺めることであり、従って、神はその数多くの創造者において矛盾し、われわれを欺くものとなり、途方もないことを、大胆にも指示することになる。
人間はきわめて複雑な機械である。一挙にしてあきらかなる観念を持つことは不可能であり、従ってこれを定義することは不可能である。獰猛性は他の原因からもきているが、教育の力を借りなければ無力にすることはできない。この獰猛性は魂の中に傲慢、憎悪、他国民への蔑視、不柔順、およびその他の感情をつくりだすが、これらのものが性格を低劣にさせるのである。激しい飢餓はじつに極端なところまでわれわれを押しやるではないか! 自分が生命を貰った生命、ないし自分が生命を与えた生命に対してさえ見さかいがつかなくなってしまい、牙をむき出してこれを引き裂き、恐ろしい饗宴を始める。人を無我夢中にするこの狂暴の嵐の中で、力の弱いものが強いものの餌食になる。
ド・ラ・メトリ著「人間機械論」
2017年1月18日水曜日
君主の野心や貪欲が市民に戦争を招きよせる
専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、というひともあろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪欲や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうろところがあろう? もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう? ひとは牢獄のなかでも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だといえるか? キクロポスのほら穴に閉じ込められたギリシア人たちは、食い殺される順番がくるまでは、そこで安らかにに暮らしたのである。
一人の人間が、ただで自分の身をあたえるなどというのは、ばかばかしくて想像もつかぬことである。こうした行為は、それをやる人が思慮分別を失っているという、ただそのことだけで、不法な行為なのだ。それとおなじことを人民全体についていうのは、人民を気ちがいとみなすことである。ところで、狂気からは何の権利も生まれない。
自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務さえ放棄することである。何びとにせよ、すべてを放棄する人には、どんなつぐないも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして、意思から自由を全くうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去ることである。要するに、約束するとき、一方に絶対の権威をあたえ、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。もし、ある人にすべてを要求しうるとすれば、その人から何の拘束もうけないことは明らかではなかろうか? そして代償もあたえず、交換もしない、というこの条件だけで、その約束行為は無効だということにはなりはしないか? なぜなら、わたしのドレイはわたしにたいして、いかなる権利をもつであろうか? というのは、すべて彼のものはわたしのものであり、また、彼の権利はわたしの権利であるからには、この権利はわたしに対するわたしの権利ということになり、それは何の意味もない言葉だから。
ジャン-ジャク・ルソー「社会契約論」
2016年10月31日月曜日
歴史は後から作り出される
我々が現在の事象において未来の歴史家に最も関心を起こさせるものを正しく指摘するためには、都合のいい偶然、例外的な僥倖が必要である。この歴史家が我々の現在を考察する際には、そこにその人の現在の説明、特にその人の現在が含む新しいところの説明が必要である。その新しいところは、もしもそれが創作になるはずだとすれば、それについて我々は今日数々の事実のうちから、記録すべき事実を選ぶために行うというよりも、むしろこの指示に従って現在の事象を切り抜いては様々な事実を作り出すために、その新しさに合わせればいいのか。
近世の重要な事実は民主政の到来である。その時代の人々が述べたような過去の中に民主政の先端となる徴候を我々が見出すということは疑いをいれない。しかしその時代の人々がこの方向に向かう人類の歩みを知らなかったならば、恐らく最も関心を引く指示を与えなかったであろう。ところでこの方向も他の方向もその時には気づかれずにいたというよりは、むしろまだ実在していなかったのであって、経路そのものによって、つまり民主政を漸次著想し実現した人々の前進運動によって、後から作り出されたのである。
してみると、先端となる徴候が我々の目に徴候となっているのは。我々が今その経過を知るからであり、その経過が果たされているからである。経過もその方向も、従ってその終点も、それらの事実が行われていた時には与えられてなかったのであるから、これらの事実はまだ徴候ではなかった。
アンリ・ベルグソン「哲学の方法ー思想と動くものⅢー」
2016年10月29日土曜日
貧困市民の無知は社会の不正のため
子供のときに、知識を獲得することが必要であるとよく教えられて来たのだが、生きるがために働かねばならなかったので、この考えはやがて失ってしまい、哀れにも知っていることは、無知なのは自然の意志によるのではなく、社会の不正のためなのだということだけである。
貧困な市民に対して政府が言うべきことは、これまでは、諸君は親の財産の関係上、わずかに最も必要不可欠の知識を獲得ができたばかりだった。ところが、今や諸君には容易に知識を確保し、発展させる手段が保証されることとなった。諸君にして生まれながらの才能を持ってさえいれば、諸君はこれを発達させることができるだろう。しかも諸君のためにも、また祖国のためにも、これらの才能は決して滅却されることはないであろう。
かくして教育は普遍的でなければならぬ。すなわちあらゆる市民に普及せられなければならぬ。教育は全く平等に教与されなければならぬが、この平等は必要な経費の範囲においてであり、国内の人口分布状態が許す限りにおいてであり、また多かれ少なけれ、児童が教育のために費すことのできる時間の許される限りにおいてである。教育は、その諸段階を通じて人間知識の全体系を包含しなければならず、全生涯を通じて誰でもこれらの知識を確保し、もしくは新たな知識を獲得し易からしめなければならぬ。
如何なる政府といえども、新しい真理の発展を妨害し、政府の特殊な政策や一時的な利益に反する理論を教授することを妨害するような権威を持ってはならないし、かかる信頼さえも持ってはならない。
ニコラ・ド・コンドルセ「革命議会における教育計画」
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