2017年6月29日木曜日

天才はただ一つのことにしか役に立たないでそれから先はろくでなしなんだ。

 あの人が誰かにそんなことをしてくれるとすれば、そりゃなんかの間違いでやるんです。あれもあれなりに哲学者ですからな。あれは自分のことだけしか考えちゃいない。自分以外の世界のことはあの人にとっちゃ一文の価値もありませんや。娘と女房は好きな時に死ねばいいんで。彼女たちのために鳴らされる教区の鐘が十二度と十七度の音とをいつまでも響かせていさえすれば、なにもかもそれでいいんです。それがあの人にとって幸福なことなんでさあ。これが私が天才というやつのうちでとくに買っている点ですよ。
 彼らはただ一つのことにしか役に立たないですることそれから先は、ろくでなしなんだ。市民とか、父親とか、母親とか、友だちとかであることがどんなことだか、彼らにゃわかりゃしません。ここだけの話ですがね、ひとはあらゆる点で彼らに似るようにしなければなりませんな。もっとも天才の種がだれにもあることを望んだってだめです。普通の人間が必要なのです。天才なんかいりませんや。いやまったく、そんなものはちっとも必要じゃない。ところが、地球の表面を変化させるのは彼らなのだ。しかも、どんな些細な事柄についても、人間の馬鹿さかげんはひどく行き渡っていて根強いもんだから、わいわい騒ぎたてなくちゃその改革なんかできっこないのです。彼ら天才の想像したことの一部は実現されていますが、一部は前のとおりです。
ドゥニ・ディドロ「ラモーの甥」


2017年6月28日水曜日

軍事的侵略による、平時の民族移動等による異系交配から、一定の時期を経て、著変の時代が来る。

 異系交配は、軍事的侵略により、平時の民族移動により、また以前にはカースト的にそれぞれ閉鎖的であった諸階級が混交すること等によって行われる。かかる交配があってのち、一定の時期を経て、著しい天才輩出の時代、すなわち高い文化の時代が来る。そしてこの時代は、その基礎となった生物学的作用のつづくかぎり存続する。
 この文化が「死滅」するのには二通りの生物学的道程がある。一つは、この文化民族の繁殖力には支障がないが、交配によって得た精神上の酵素作用が尽き果て、その上、引きつづく長い期間の同系交配のために、精神の無気力な硬化がもたらされるもの、いわば中国型ともいうべきものであり、次は、生殖本能が文化のために害されて急速な人口の減少が起こり、その結果、崩壊の道程をたどるもの、いわば後期ローマ型とも称すべきものである。
 しかしこの二つの場合にも、土着の人種がさらに他の適当な人種と新たな交配を行うことによって、ふたたび新たな文化を建設し、天才時代を招来する可能性は生物学的に残されている。かつまた理論的には、このような過程が無限に繰り返され得るわけである。事実長命を保った古代文化、たとえばエジプト文化やアッシリア・バビロニア文化等は、このような交配の反復によって、同一地盤の上に文化を更新すること幾たびに及んだものである。

エルンスト・クレッチマー『天才の心理学』

2017年6月26日月曜日

第一次世界大戦の間は、新聞や雑誌はとかく現在の恐ろしい不安から目を転じた。

 第一次世界大戦の間、新聞や雑誌はとかく現在の恐しい不安から目を転じて、後に平和が回復した上で何が行われるかを考えたものである。特に文学の将来が問題となっていた。ある日私のところへ人が来てそれをどう考えるかと尋ねた。私も少し困って、そういう事は考えていないと言明した。『せめて何か可能な方向をお考えになりませんか。それは誰にも細かいところまでは予見できないとは認めても、哲学者である先生には全体の観念というものはおありでしょう。例えば今後の大きな劇作がどうお考えになります。』と言った。『私に今後の大きな劇作がどんな物だかわかれば、私が書きますよ。』と言った時の相手の驚きは、いつまでも忘れないであろう。私には相手が、その時からちゃんと将来の作品が可能なものを秘めたなんだかわからない戸棚の中に仕舞ってあるように考えていることがはっきりとわかった。
 そこで私はすでに古くから持っている哲学との交渉を考えてみれば、その哲学から戸棚の鍵を手に入れているはずだと思われたのである。『しかしあなたの言う作品は可能ではない。』と言った。ー『そうは仰有つてもその作品が後で出て来るものですから可能に決まっています。』ー『いや可能ではありません。せいぜいその作品が可能だったということになるだろうと認めるだけです。』ー『なに簡単なことですよ。才能もしくは天才のある人が、突然出て来て一つの作品を創造する。そうするとその作品が事象的になり、正にそれによってそれからは、後で逆に眺めると、又は後から逆に作用するものとして可能になります。しかしその人が現れて来なかったとすれば可能になりませんし、可能だったことにもなりません。それで私はその作品が今日可能だったことになるでしょうが、まだ可能ではないというのです。』
 アンリ・ベルクソン「可能性と事象」『哲学的直感ー思想と動くもの』

2017年6月25日日曜日

戦争は明らかに人を殺して是認しているが、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。

 現在の人間の最も願っているものは『平和』である。平和とは一体何か。真の平和をいうならば武力の戦が終わっても資源戦、経済戦など結局人類の滅亡まで、平和は到来しないであろう。最近の書物にちょいちょい見られるのは戦争の倫理性ということである。戦争の倫理性なんて有り得るものであろうか。人を殺せば当然、死刑になる、それは人を殺したからである。戦争は明らかに人を殺している。その戦争を倫理上是認するなんて、一体倫理は人を殺すことを是認するのか。大乗の立場、大乗の立場と強調される。大乗の立場から戦争をみるなら何故人を殺さぬでもよいようにしないのか。人を殺している間に大乗、小乗の区別はあるものか、すべて悪である。死んだ人間に生を与えるなんて、近代の哲学の現実に対するへつらいにすぎない。哲学はあくまでリードするものであるはずだ。過ぎ去った者に道徳性を与えるなど、文化の恥辱、人間の自己行為の欺瞞だ。 
 戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとってあまりにもつよい宿命的な存在である。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ、大義のための戦、大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。宿命と感ずる以上、自分は戦いに出ることは何とも思わない。しかし、それで宿命は解決されるのであろうか。
松岡欽平(東京大学経済学部学生、19455月ビルマにて戦死。22)
日本戦没学生記念会編「きけ わだつみのこえ」


2017年6月23日金曜日

事柄を思索めぐらす者は少数で、それ以外の者は他の主張に思索するだけである。

 著作に先立ってあらかじめ、真剣に考える少数の著作家の仲でも、事柄そのものについて思索をめぐらす者はきわめて少数で、それ以外の者はただ書籍について、他人の主張について思索するだけである。すなわち彼らが思索するためには他人の供給する思索が必要で、なまなましい強烈な刺激をそこに求めなければならない。このようなわけで他人の思想が直接彼等の関心をひくテーマとなり、絶えず借り物の思想に動かされ、その結果真の新機軸をうち出さずに終わってしまう。これに反して少数の中でも、さらにきわめて少数な著作家は、事柄そのものから思索の刺激をうけ、その思索に直接事柄そのものに向かう。このような人たちの間にのみ、永遠の生命をもつ著作家を見いだすことができるのである。もちろん今、私がここで論じたのは精神の尊厳をさまざまな角度から扱う著作家たちのことで、独創性は発揮しても刺激の強い安酒製造に専念する著作家は論外である。

アルトゥル・ショウペンハウエル「読書について」

2017年6月22日木曜日

市民である士は武器で国家防衛に参加と義務を有し、戦国時代から国都での軍士の集団を意味した。

 市民というのは、中語でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する装丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むに至ったものである。司馬遷の『史記』は実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げたのである。このことは彼が、社会なるものは単に君臣関係からばかりで成り立つものではなく、時にはそこからはみ出した市民の生活によって支えられている事実を認識したものに外ならない。列伝に散見する個人の興味ある逸話等は、彼自身が採訪した独特の史料によるもので『史記』は言わば足で書いた歴史ともいえるであろう。そこに『史記』の歴史としての価値が存在する。
 しかし司馬遷は歴史を、君主と官僚との君臣関係、及びそれを支える市民という個人に還元することで能事了れりとはしなかった。君主も官僚も市民も、その時々の社会制約の中で生活する。そこには制度があり経済があり道徳があり文化がある。司馬遷はこれらの社会的規範を「礼書」、「楽書」などの八書にまとめた。もちろんその内容は今日から見て甚だ不十分であるが、その意図は十分に汲みとられるち思う。中国の市民生活は漢代を頂点として以後は下り坂にむかう。そしてその後、六朝時代に現れたのは「士族」と称する特権貴族階級である。中国の歴史もそれにつれて、貴族の盛衰を中心に記述されるようになった。
宮崎 市定「中国文明論」

2017年6月21日水曜日

国家は常に同一の状態にとどまるものであり、維持すればよく、増大も有益どころか有害である。

 政府が、その基礎を著しく異にする家政に、どうして類似しうるであろうか。父親は子供達よりも肉体的に強力であるから、彼の助力が子供達に必要であるあいだは、父権は自然によって打ちたてられたものと正当にも見なされる。すべての成員が自然に平等である国家においては、政治権力は、その成立に関するかぎり純粋に恣意的なものであって、契約にもとづいてのみ基礎づけられるに過ぎず、役人は、法によらずしては、他人に命令することができない。子供達にたいする父親の権力は、子供達の特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが、主権は、特殊利益に基礎をおくものであって、その本性上、生や死の権利にまで及ぶものではない。ところが主権は、共同利益以外の何らの目的をもたないから、すでに諒解ずみの公共の利益以外の何らの制限をもたない。
 首長は、人民に対して首長が行うことを約束した事柄、すなわち人民がその実行を要求する権利をもつ事柄、についてのみ人民に義務をもつに過ぎない。一般行政は、自らに先行する個人財産を保証するためにのみ樹立される。国家の富は、しばしば非常に誤解されているが、諸個人を平和と富裕のなかに保つための一つの手段でしかない。国家は常に同一の状態にとどまるべく作られたものであり、維持すればよいばかりでなく、いかなる増大も有益どころか有害であることは容易に立証しうるところである。

ジャン・ジャック・ルソー「政治経済論」

2017年6月20日火曜日

キリストは神に従順のために正義を守りたまうため戦死を招かれた。

 神はキリストに死ぬことを強制せられたのではないのだ、キリストには毫末も罪はなかったのだから。だが、御自身で自発的に死を受けたまうのだ。それは従順によって生命を捨てたまうためではなく、卻って従順のために正義を守りたまうためであった、キリストは極めて強くその正義を守り通されたので、そのため、終に、死を招かれたのだ。
 そのうえ更に、聖父が彼に死ぬことを命じたまうのだと言うこともできるだろう、彼が死を招くに至ったその原因は、聖父が命じたまうことなのだから。そういう訳で、「父の彼に命じたまうところに遵ひて、彼は行った」のであるし、また「父の彼に賜ひたる杯を」彼は飲み、「死に至るまで父に従順なるものとなりたまひ」、且つ「受けたまひし苦によって従順を学びたまうた」のである、即ち、いつまでも従順をまもらなければならないかを学びたまうたのである。
 卻って、それは、キリスト御自身が己を聖父と聖霊とにひとしくしたまうて、死による以外の道で、己が全能の気高さを世に示さうとは為したまわなかったからである。というのは、あの死による以外には、為されることのできなかったことが、死によって為されたのであるから、あの死によって為されたと言っても、不適当ではないであろう。

聖アンセルムス「クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)」


2017年6月19日月曜日

一切の奴隷制度は人種と場所による遺伝と気候という二個の基本的条件のみに左右されると誇った。

 一切は人種と場所、換言すれば遺伝と気候という二個の基本的条件に左右されるのであるが、更にこれをアメリカ合衆国の南部と北部との対照について見るに、その気候の及ぼす影響は一層大きいようである。奴隷制度が北部に繁栄するに至らなかった理由は、最も敬神的なる清教徒達ですら奴隷を有していたのであるから、それに対する道徳的反対のあったためではなく、むしろ気候の関係上諸制度が不利益であったからである。不断の刻苦勉励によらなければ生活を維持することのできぬような気候であって、かつ白人が異常の努力をしている所において、奴隷を養うことは経済上収支償はなかったのである。
 けだしかかる能力不十分な奴隷の労働では、その身を養うことすらできなかったので、その主人の利益とはならなかったからである。これに反して南部においては能率の低い黒人の労働すら、その身を養って尚あまりある生産をなしていたから、奴隷制度は有利であった。加うるに南部の白人は精励せず、その肉体労働は黒人のそれよりも大して価値あるものではなかったから、彼らは勢いその優秀なる頭脳を使用するに止め、肉体的労働は黒人をしてこれにあたらしめる習慣を作るに至った。もし清教徒がジョージア州に居住していたとしても、恐らく彼等は肉体労働を軽蔑し、奴隷所有者たることを誇りとするに至ったのであろう。

エルズワース・ハンチントン「気候と文明」

2017年6月17日土曜日

絶対静止空間は不要であり、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しない。

 光を伝える媒質に対する地球の相対的な速度を確かめようとして、結局は失敗に終わったいくつかの実験をあわせて考えるとき、力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象はまったく存在しないという推論に到達する。いやむしろ次のような推論に導かれる。すなわち、どんな座標系でも、それを規準にとったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合、そのような座標系のどれから眺めても、電気力学の法則および光学の法則はまったく同じであるという推論である。この推論の1次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている。そこでこの推論をさらに一歩推し進め、物理学の前提としてとりあげよう。
 また、これと一見、矛盾しているように見える次の前提も導入しよう。すなわち、光は真空中を、光源の運動状態に無関係なひとつの定まった速さcをもって伝播するという主張である。静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点とし、運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達するためには、これら二つの前提だけで十分である。ここに、これから展開される新しい考え方によれば、特別な性質を与えられた絶対静止空間というようなものは物理学には不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間のなかの各点について、それらの点の絶対的静止空間に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる。このような理由から光エーテルという概念を物理学にもちこむ必要のないことが理解されよう。
アルベルト・アインシュタイン「相対性理論」

2017年6月14日水曜日

戦争は、一般の理解はまだ荒々しく、常に廻り会う悲哀は、歴史観が心もとなく、立場が多く曖昧である。

 工芸のことに関しては、一般の理解はまだ荒々しいものに過ぎない。残念なことに多くの人たちは、日々一緒に暮らす器物には、そう深く注意してくれない。始終身の廻りにある平凡な品物の領域であるから、それから真理問題を汲み取ろうとする人はほとんどいない。ましてそこに美の法則を見出そうとは考えてはくれない。もっとも私たちは今無数の醜いものに囲まれている。だから美の問題を身近くに考える機縁が乏しいのだともいえる。それに美のことなら、高く深い美術の領域が思い出される。これに比べれば工芸の世界など凡庸なものに映るであろう。だからこそそこに真理を探る人が少ないのも無理はない。だが日々の実用に使うという性質が、そんなにも美と遠いものだろうか。当たり前なものということは、そんなにも省る必要のない性質だろうか。
 工芸史家はどうであろうか。私たちは彼らの調べた歴史的委細から教わるものは些少でない。だが私たちが常に廻り会う悲哀は、彼らに知識があっても直感が乏しいことである。その証拠には彼らはしばしば美しいものと醜いものとを同じように賞める。玉石の判断がなかなかつかないと見える。だから記録は便りになるとしても、歴史観は心もとない。結局工芸への正しい理解の持ち合わせがないのである。特に工芸美に関する点に来ると立場は多く曖昧である。だが歴史家に価値認識が乏しいことは致命的ではないか。ただ史料に依る記述は工芸史観を産まない。
柳 宗悦「工芸文化」

2017年6月13日火曜日

自分自身の魂をゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねないことだろう。

 自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね? かりにもしこれが、君が身体を誰かにゆだねて、身体がよくなるか悪くなるかの危険をおかさねばならないというような場合だったとしたら、君はきっと、その人にゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねたことだろうし、また、何日も何日も考えながら、友人や身内の者の助言を求めたことだろう。しかるに、君が身体よりも大切にしているこの魂というもの、君のすべての幸不幸はそこにかかり、それが善くなるか、悪くなるかによって左右されるところのもの、そういうものについては、君は父親にも、兄弟にも、またわれわれ仲間の誰ひとりにも、ほかならぬこの君の魂をあの新米のよそ者に、ゆだねるべきか否かを、相談しなかったのかね。

 君の話によると、昨夜このことを耳にするや、夜明けを待たずにとんできて、君自身をあの男にゆだねるべきかどうかということについては、一言も語らず、相談もせず、そして自分の金ばかりか、友達の金まで注ぎこんでもかまわぬつもりになっているのかーまるで何が何でもプロタゴラスにつかなければならないと、もうすっかり決め込んでしまったかのように! そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、君自身をゆだねようとするのか。

プラトン著「プロタゴラスーソフィストたち」

2017年6月12日月曜日

戦争の如き、その最中には実に修羅の苦界となれども、平和に帰すれば禍を転じて福となし。

 政治固有の性質にして、その働の急激なるは事実の要用においてまぬかるべからざるものなり。その細目にいたりては、一年農作の飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばただちに兵を促し、事、平和に記すれば、また財政を修むる等、左顧右視、臨機応変、一日片時も怠慢に附すべからず、一小事件も容易に看過すべからず。政治の働、活発なりというべし。

 政治の働きは活発なるがゆえに、利害ともにその痕跡を遺すこと深からず。たとえば政府の議定をもって、一時租税を荷重にして国民の苦しむあるも、その法を除くときはたちまち跡を見ず。今日は鼓腹撃壌とて安堵するも、たちまち国難に逢うて財政にくるしめらるるときは、たままち艱難の民たるべし、いわんや、かの戦争の如き、その最中には実に修羅の苦界なれども、事、平和に帰すれば禍をまぬかるるのみならず、あるいは禍を転じて福となしたるの例も少なからず。 

福沢諭吉、政治と教育と分離すべし「福沢諭吉教育論集」


2017年6月7日水曜日

神も天も諸物体も虚偽であるも「我思惟す故に我あり(ego cogito, ergo sum) 」は最初の最も確実な自由である。

 我々は、以前に最も確実と考えていた他のことについても疑うであろう、即ち、数学的証明についても、また今まで自明と信じていた諸原理についても。なぜならば、かつて幾人かの人が、かようなことにおいて誤りを犯し、我々には誤りと思われたことを、最も確実で自明的だと認めていたようなことを、我々は知っているし、またとりわけ、一切を為すことができ、かつ 我々をも創造した神が、存在することを聞いているからである。というのは、我々が自分に最も明白に見えることにおいてさえ、いつでも思い違いをするような工合に、神が我々を創造しようと欲しなかったかどうかは、我々にはわからないであろう。なぜならそうしたことが起こり得たことは、我々が前に気付いていることだが、我々が時に思い違いをすることがあるのに劣らず、あり得ることだからである。そして我々が全能の神によってではなく、我々自らによってか、或いは何であれ他のものによって存在するのだと創造するならば、そうした我々の創造者の力を小さく見積もれば見積るほど、我々がいつも思い違いをするほど不完全だということも、いっそう信じ得ることであろう。
 我々が何らかの仕方で疑い得る一切のことを斥け、かつ虚偽であると考えることによって、我々はなるほど神も天も諸物体も存在せず、また我々自ら手も足も、そしてついには身体をも有しないと創造することは容易であろう。しかしその故に、かようなことを思惟する我々が、無であるとは創造することはできない。というのは思惟するものが、思惟しているその時に存在しないことは不合理だからである。それ故に、「我思惟する故に我あり」(ego cogito, ergo sum)というこの認識は、一切の認識のうち、誰でも順序正しく哲学する人が出会う最初の最も確実なものなのである。

 ルネ・デカルト「哲学原理」

2017年6月6日火曜日

強い戦闘的天性は抵抗するものを必要とし求め、敵と対等が決闘の前提である。

   戦いとなると、話は別である。わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。敵となりうること、敵であることーこれはおそらく強い天性を前提とする。いずれにせよ、これは、すべての強い天性の所有者に起ることである。こういう天性は抵抗するものを必要とする、従って抵抗するものを求める。攻撃的パトスが強さに必然的に伴うものであることは、復讐や遺恨の感情の弱さに伴うのと同断である。
 攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの成長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーあるいは、どれほど手強い問題を、求めているのかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいというのではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。・・・敵と対等であることーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない。

フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」

2017年6月4日日曜日

残忍な聖書は殺戮をやめず、ヨブ記は不義の源であり、人間は死んで眠る。

 聖書、すなわちこの残忍な書は、殺戮をやめなかった。「ヨブ記」は涸れることのない不義の源である。霊からなるものは涸れることはない。読みた合わせて楽しんでいる。ヨブの友人たちはヨブに諦めるように勧める。彼はそれを自分自身に勧めている。どうやって神と戦うというのか。どうやって神を訴えるというのか。このような霊に対する崇拝、すなわち外に立ち、怒っている、仮借なき、抗えない霊に対する崇拝は、おそらく本質的に偶像崇拝である。なぜなら、フェティシストたちは多くの神がいることでーある神が他の神に勝利するといことでー慰められ希望をもっているから。これらのナイーヴな空想は、人間の置かれている現実の状況をうまく表している。なぜなら、さまざまな事物があることによって、すべてに救いがあることになるから。
 しかし、唯一の神、霊であると同時に力である神。それは観念だけで、圧倒する、殺戮する。ヨブは金持ちであった、しあわせであった。友人たちがいた。突然、彼は貧乏な者となり、病気になり、人から見捨てられている。それはヨブにとって、当然のことのように見えている。この偉大な宇宙、われわれよりもはるかに力の強い宇宙は、ヨブの眼には、決意をもった一人の人間がその小さな指を動かしただけでは粉砕できない、変更できないものであった。たしかに、この世界は「霊」なのだ。この世界のすべて、一物から、ただ一つの意志からなっているのだ。その時、人間は眠っている、死んでいる。

アラン (エミール・オーグスト・シャルティエ)「四季をめぐる51のプロポ」

2017年6月3日土曜日

開花した諸国民に重くのしかかる最大の害悪が戦争に由来する。

 我々は、開花した諸国民の上に重くのしかかるところの最大の害悪が、戦争に由来することを認めざる得ない、しかもそれは、現に行われている、或いは過去に行われた戦争の結果と言うよりは、むしろ将来の戦争のための軍備ーそれも永久に軽減されることのない、それどころか不断に増大しつつある軍備によって引き起こされるのである。実に国家の一切の力、その国の文化の一切の成果は、このことのために費やされているのであるが、しかしこれらの諸力や成果は、軍備のことさえなかったなら、更に大なる文化の創造のために用いられ得るところのものなのである。自由は、諸方において著しく阻害されているし、また本来ならば国家が個々の国民に致すべきいつくしみ深い配慮は、国民に仮借なく課せられる苛酷な要求に化している、しかもこの過酷さは、実に外寇の危険をおもんばかっての措置として是認されて居るのである。
 とはいえ諸国の文化にせよ、或いは公共体を形成する諸階級が緊密に結束して彼等の福祉を互いに促進し合うための協力にせよ、或いは植民にせよ、或いは法律による厳しい制限にも拘らずなお残されているほどの自由にせよ、これらのものがとにかく存在しているのは、常に忌み憚られている戦争そのものが諸国家の主権者を強要して人間性の尊重を止むなく認めざる得なくしたためにほかならないのである。
イマニュエル・カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か他四編』