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2018年1月1日月曜日

「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする。

 文化の概念をあまりに狭く局限された一群の諸客体だけに限る諸規定を取り扱わねばならない。文化なる語が多くの人々に対してむしろ不快な副次的意味を多分生じて来たからのことであって、この副次的意味から、文化科学なる用語の嫌悪されるわけが判然するであろう。私はもちろん科学とは何の関係もない文化闘争や倫理教化運動のような複合語のことを言うのではない、且つまた「文化」を集団運動の意味のみに解しようとしたり、昔の戦争を「不道徳」として文化の中へ数えまいとしたりする、一部の方面からなされた言葉の濫用に、この語の使用の嫌われる所以があると考えるのでもない。私はむしろ、世間一般にあれほど人気のある「文化史」なる概念と特に結びついている思想を眼中に置いているのである。いわゆる文化史なる学問と、例えば政治史との間に立てられた対立と我々のいう文化の概念とは全く無関係にしておかれなくてはならぬからである。我々の規定によれば、一方において国家は全く国民経済や芸術と同様に一個の文化財であるが、誰も直ちに国家生活と同一視することもできぬ。が他方においてはまた、文化生活を直ちに国家生活と同一視することもできぬ。

ハインリッヒ・リッケルト「文化科学と自然科学」


2017年11月21日火曜日

東方の者は統一のために差別を見失ふに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。

 ドイツ思弁哲学は古へのソロモンの智慧と正反対を成している。これは日の下に新しき何ものもないと見るに引きかへ、それは新しきもののみを見る。東方の者は統一のために差別を見失うに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。彼らは永久に一様なものに対する自己の無関心を、愚妄の無感情にまで押し進めるに引きかえ、之れは多種多様なものに対する自己の感受性を、恣まな想像の病熱にまで高める。ここにドイツ思弁哲学というは、現在支配的ある哲学 ー ヘーゲル哲学を特に意味するのである。けだしシェリング哲学は本来一の外来種 ー ゲルマンの土地に育った古への東方的同一性 ー であって、従ってシェリング学派の東方に対する性向は、この学派の本質的性向であるのと同じく、その反対に、西方に対する性向と東方の卑下がヘーゲル哲学とその学派との特徴なのである。同一哲学の東方主義に対し、ヘーゲルの特徴的要素は差別という要素である。

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ「ヘーゲル哲学の批判」

2017年11月11日土曜日

存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。

 存在ー存在と我はいうーと生とは、これもまた同一のものである。ただ生のみが独立的に、自己自身によって現存することができる。しかしてまた生は、生である限り、現存を伴うものである。普通には人は存在を、動かない、凝固して、死んだものとして考える。哲学者さえもほとんど例外なくそう考えて来た。存在を絶対者として言い表した場合でさえそう考えていた。このことは全く、人が生きた概念を以てにあらず、死んだ概念を以て存在の思索に向かったことに基づく。存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。この誤謬の中に他のすべての誤謬の根源が存在し、此の誤謬のために、真理の世界、精神世界が永遠に我々の眼から閉ざされているのである、ということは、他の場所において、少なくともそれを理解し得る人々には、説明しておいた。このところにおいては、この命題の歴史的引用のみで充分である。
 これと反対にー存在と生とが同一のものである如く、死と非存在も同一のものである。上に述べた如く、純粋の死、純粋の非存在というものはない。しかし仮象というものはあるのであって、これは生と死、存在と非存在、との混和である。このことからしても次のことが帰結する。すなわち仮象の内部にあって仮象をして仮象たらしめるもの、仮象の中、真実の実在と生に対立しているもの、かかるものに関して言えば、仮像は死であり、非存在である。
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「浄福なる生への指教」

2017年11月9日木曜日

戦闘的天性は抵抗を必要とする、抵抗を求める。復讐や怨恨の情の弱さと同じ必然さで、進攻的激情は強さに属する。

 戦はまた別個の物である。私は私の流儀から見て戦闘的である。攻撃することは私の本能に属する。敵であり得ること、敵であること ー それは恐らく一つの強い性質を前提とする、ともかくもそれはあらゆる強い性質を条件とする。かかる天性は抵抗を必要とする、この故にそれは抵抗を求める。進攻的激情は、復讐や怨恨の情の弱さに属するのとちょうど同じ必然さで強さに属する。攻撃者の強さの一種の尺準は、彼の必要とする対抗の中にある。あらゆる成長はより強大なる敵対者 ー もしくは問題を探究することの中に示される。何となれば戦闘的な哲人は、問題を引き出して来てまでも決闘をするからである。なすべき任務は一般に抵抗を征服するというのでなく、彼の力量や、自在や又練達した武芸の全体を打込むべき抵抗ー 対等の敵対者を征服するにある・・・敵との対等は ー 正々堂々たる決闘の第一条件だ。軽蔑している場合には戦をすることはできない。命令する場合、何ものかを自分の下に見る場合、戦はなされるべきでない。
フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」

2017年10月29日日曜日

理性から生じる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なす。

  理性はこの概念に関して徹頭徹尾おのれ自身をあざむいて居る、理性が之を自分の子と思うのは誤りである、何故なら、この概念は所詮想像力の私生児に他ならぬからである、想像力は経験によって受胎して、或る表象を連想律の下に置き、それから生ずる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なすのである、と。之によって彼は更に推論した ー 理性はかかる結合を唯だ一般的にさえ思惟するする能力をもっていない、なぜというに然る場合には理性の概念は単なる仮想であるだろうから。そして理性が先天的に成立する認識と自称するものはすべて虚偽の烙印を押された普通の経験に他ならぬであろうと、かくの如きはまさしく形而上学は決して存在しない、また存在することはできぬ、と主張するのである。

イマニュエル・カント (デイヴィット・ヒューム)「プロレゴーメナ」

2017年10月8日日曜日

省察ほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。

 人間が人間に贈りうるもののうちで最も心おきない贈物は、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものをおいて他にない。それはあらゆる神秘のうちの最も神秘なものを、自由な本質を洞察するあの広い無垢な眼を与えてくれるからである。また、これ以上に信頼のおける贈物は他にない。その訳は、親しい友人を純粋に直感することから生じるあの歓びが生涯を通じて君に付きまとい、また内的な真理が君の愛をしっかり捉えて、君をしばしば進んで省察へと立ち帰らせるようにするからである。更に、これほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。そこには不当なものを誘い寄せたり、劣悪な目的に濫用されたりしそうな誘惑的な附属物はないからである。

フリードリヒ・シュライエルマッハー (献辞)「独白録」

2017年10月4日水曜日

あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。

 あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。とりわけ倫理的義務は内的立法のみが可能であるような強制を、これに反して法的義務は外的立法もまた可能であるような強制を含んでいる。それ故両者が強制の概念を含んでいる、それが自己強制であろうと、他社による強制であろうと。かく前者の道徳的能力は徳とよばれ、かかる心情(法則に対する尊敬)から発する行為は徳行為(倫理的)と呼ばれ得る、たといその法則が法の義務を告げるにしても、何となれば人間の権利を神聖に保つように命ずるのは特論であるから。        併し徳を行うということは、それがためにまだ直ちに本来の徳の義務なのではない。前者は単に格率の形式にのみかかわることができるのに、後者は格率の実質に、すなわち同時に義務として考えられるところの目的にかかわるのである。ー ところが目的 ー これは数多く存在し得るが ー に対する倫理的責任は広い責任であり、ー 蓋し倫理的責任はその場合単に行為の格率に対する法則のみを含むから ー そして目的は執意の実質(対象)であるから、合法的目的の相異るにつれて相異る諸々の義務が存在するのであり、これらの義務が徳の義務と名づけられる、まさしくかく名づけられるわけはこれらの義務は単に自由な自己強制に属していて、他人の強制には属しておらず、同時に義務であるところの目的を規定するからである。

エマニュエル・カント (特論への緒論) 「道徳哲学」

2017年10月1日日曜日

多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。

  もとより、時として個人の生活を『社会のために』犠牲にするに躊躇するものではない。けれども、ここで熟考せねばならぬ。このとこは、実に唯だ諸他の個人が彼等の生存を全うし得んがためにのみなされるのであろうか。集団の単なる生存が個人の単なる生存を左右し得る如き道徳的権利は、果して存在するであろうか。もとより自然においては、多数者が少数者を犠牲にして自己を保存しはする。然しもっぱら多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。逆に我々の道徳的希望が、集団の生存を一個人もしくは少数者の生存のために犠牲に供せられる場合に問題となるところのものは、単なる生存ではなくて生存するものの価値である。個人といえども独立的価値を有し得るのであるから、我々は決して個人を、如何ばかり多数にもせよ諸他の個人の単なる生存のために犠牲にするべきでなかろう。
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント『道徳の原理に就て』

2017年9月24日日曜日

現象が「本来」如何なる性状は、『受納性』の経験ではなくて、思惟、理性であろう。

 一連の精神状態は、啓示の出現そのものという歴史的事実を疑うか、或いは啓示の内容の信じるに足るべきや否やを疑うことによって、『啓示』の真理性を疑い始める。啓示は、何等、知の源泉ではなくして、知の源泉は経験と思惟のみだというのである。
 しかしながら、『その背後』に存在するものについて我々に知識を与え、且つまた我にとりしかじか現象するものが「本来」如何なる性状のものであるかを知らしめるものは、純粋な受容すなわち『受納性』の意味での経験ではなくて、思惟、理性であろうと考えるに至る。
 そこで人は純粋理性を地盤として、世界の由来、神、不死の霊魂について思惟し語るのである。人はいう、それはそうあらねばならぬ、それを人は観照という特別な『直感力』能力によって『観る』のである。
 ただ遺憾なのはその際観る人がそれぞれちがったものを観ていることである。なおまた遺憾なことには、このいわゆる観照なるものには、願望や希望が全く顕著に混ずることである。しかも、観照に説得力が欠けているのはいうまでもない。
ハンス・ドゥリーシュ「形而上学」

2017年9月18日月曜日

教会が同じ考えをいだかせるように、教会のきめた意向にそむくものは異端者と見なされた。

 民間信仰は中世をつうじてヨーロッパのどこでもおなじであったと思ったら、それは大まちがいだということである。善の力、つまりイエス・キリストの国についてはヨーロッパじゅうのものが同じ考えをいだいていた。またローマ・カトリック教会が同じ考えをいだかせるようにほねおってきた。この点については教会のきめた意向にそむくものは異端者と見なされた。けれども悪の力、つまりサタンの国については所によっていろいろとちがう意見がひろがっていた。ゲルマン語系の北方の民族はこのサタンの国についてはローマン語系の南方の民族とはまったくちがった考えをいだいていた。これは次のような事情でおこったことだ。つまりキリスト教の牧師らはそこにいあわせた古来の民族信仰の神々をまったくの妄想として否定しまわないで、じっさいに存在するものとしてみとめたのである。けれどもみとめながらもこう主張した。「これらの神々はすべて男性か女性のあくまである。イエス・キリストが勝利をえたので、これらの神々は人間を支配する力をうしなってしまって、今では肉のよろこびやわるだくみによって人間を罪にさそいこもうとしているのだ。」ギリシャの神々のすむと云われるオリンポスの山は天空にある地獄になってしまった。
ハインリッヒ・ハイネ「ドイツ古典哲学の本質」

2017年9月14日木曜日

少なくとも位階とか称号とが、普通人の眼には、貧困者はつまらぬものに見えるのである。

 外面的の幸運の事情の内にも、少なくとも人間の謬見によって、これ等の感情を起させるものがある。門閥や称号やを、人々は普通尊重する傾きがある。功績に基づかないで得た富も亦、利己的でないものからすら尊敬されることがある。これは察するに、富の観念と、これによって仕遂げることのできる大事業の計画とを結びつけるからであろう。斯かる行為を決して為ないであらうし、また富を価値づける唯一の根拠たる高貴の感情に何等理解を持たない金持の賤夫共に、此尊敬の与へられることも、折々はある。貧困の禍を大きくするものは、其貧困者に社会的の功績があった場合でも、全く帳消しにして了ふことはできないで、つまらない者とすることである。少なくとも位階とか称号とがあって此粗末な感情を欠き、其人を幾らか尊敬せしめる様な事がなければ、普通人の眼には、貧困者はつまらぬものに見えるのである。

イマヌエル・カント (一般人類に於ける崇高と美との性状について) 「美と崇高との感情性に関する観察」




2017年8月15日火曜日

すべての目的と功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻した標証にすぎない。

 古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見るために作られ、手は掴むために作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰するために発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの標証にすぎない。従ってある「事物」、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、その諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し後退するだけである。してみればある事物、ある慣習、ある器官の「発展」とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力の負担とて達せられる《進歩》では更ない。
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」


2017年7月31日月曜日

すべて理性を持たないものを自分に従わせ、自由にして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。

 すべて理性を持たないものを自分にしたがわせ、これを自由にそして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。この最後の究極的目的は、人間が人間であることをやめてならず、人間が神になってならないならば全然達成されないものであるとし永遠に達成されないものであらねばならない。人間という概念にはその最後の目標は達成されず、これに至る道はかぎりないものでなければならないことが含意されているのである。そこで、この目標に達することは人間の使命ではない。しかし人間はこの目標にますます近づくことができ、また近づかねばならない。したがってこの目標にかぎりなく近づくことがかれの人間としての、つまり理性的ではあるが有限な存在者、感性的ではあるが自由な存在者としてのほんとうの使命である。ーところであの自己自身との完全な一致を最高の意味で完全性と名づけると、また名づけるのは無論さしつかへないことである。で、そうすると完全性ということは人間のきわめて到達しにくい目標ということになる。しかしかぎりなく完成していくことは彼の使命である。人間が現存しているのはみづからますます道徳的により善くなって行って、自分のまわりのあらゆるものを感性的により善くし、人間を社会の中で考察すれば、道徳的にもより善くし、こうして自分自身をますます幸福にして行くためである。
ヨハン・ゴットリーブ・フィヒテ「学者の使命 学者の本質」

2017年7月16日日曜日

事が終わった後で不平は全て不正であり、事の起こる前でも不正だった。

 「先ずよく反省し、或る場合には十分に熟慮した後でなければ行動も判断もしない」という堅い意志を以て、思いも掛けない現象に予め備えることは精神次第なのである。しかしそういう場合にこの力を使わない精神があるということも本当であり、のみならず永遠にわたって確実である。しかしそれ以上のことを誰が為し得よう。その精神は自分以外のものに不平がいわれようか。事が終わった後でこういう不平は全て不正である。それは事の起こる前でも不正だったはずである。ところで、その精神は、罪を犯す少し前には神に対して、まるで自分に罪を犯させるのは神ででもあるかのように、平気で不平を伝えた義理であろうか。こういう事柄に関する神の決定は予め知るわけにはいかない以上はその精神がすでに現実に罪を犯した時でなければどこから「罪を犯すにきまっている」ということが知れよう。
ゴッドフリート・ライプニツ :  「形而上学叙説」
三十 ただなぜ、罪人ユダが他の可能な人々を描いて特に実在を許されたかを問うべきであること 

2017年7月12日水曜日

自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。

 自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らかの禁令も、否それを決定的に非難するような何らの言葉さえも見出されないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。そこで神学者達は自殺の非認せらるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばならぬことになるわけであるが、その議論たるや甚だもって怪しげなものなのであるから、彼らは議論に迫力の欠けているところは自殺に対する増悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒することによって補おうと努力しているのである。だからして我々は、自殺にまさる卑怯な行為はないとか、自殺は精神錯乱の状態においてのみ可能であるとか、いうような愚にもつかないことをきかされることになる。そうかと思うと、自殺は「不正」である、などという全くのナンセンスな文句まできかされる。一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。

アルトゥル・ショウペンハウエル、自殺について、「自殺について 他四編」


2017年7月7日金曜日

本来のユダヤ人排斥は、危険な行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に思い違いをした。

  ヨーロッパはユダヤ人に何を負っているか。それは様々で、善いものも悪いものもあるが、何より最善でまた同時に最悪な一つのものがある。すなわち、道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義をもつ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体がそれである。ー従って、これこそはあの色彩の変化と生の誘惑の最も魅力的で、最も宿業的で、最も精選された部分であって、これらのものの残照のうちに今日われわれのヨーロッパ文化の空が、その夕空が燃え、ー恐らくは燃え尽きようとしている。これに対して、われわれ傍観者であり哲学者であるもののうちの芸術家は、ユダヤ人にー感謝している。
 ユダヤ人についてであるが、まあ聞いてもらいたい。ー私はユダヤ人に対して好意的な考えを抱いていたようなドイツ人にいまだに会ったことはない。そして、本来のユダヤ人排斥はすべての用心深い人々や政治家たちの側から無条件に拒否されてはいるが、これらの用心や政策にしてもやはりそうした種類の感情そのものに反対しているのではなく、むしろ単にそうした感情の危険な行き過ぎを、特にこの行き過ぎた感情の悪趣味な破廉恥な表出に反対しているにすぎない。ーこの点について思い違いをしないようにしてもらいたい。ドイツには申し分なく多数のユダヤ人がいるということ、ドイツの胃、ドイツの血はこれだけの量のユダヤ人を始末するだけでも困難を感じる。
フリードリヒ・ニーチェ「民族と祖国」『善悪の悲願』

2017年6月23日金曜日

事柄を思索めぐらす者は少数で、それ以外の者は他の主張に思索するだけである。

 著作に先立ってあらかじめ、真剣に考える少数の著作家の仲でも、事柄そのものについて思索をめぐらす者はきわめて少数で、それ以外の者はただ書籍について、他人の主張について思索するだけである。すなわち彼らが思索するためには他人の供給する思索が必要で、なまなましい強烈な刺激をそこに求めなければならない。このようなわけで他人の思想が直接彼等の関心をひくテーマとなり、絶えず借り物の思想に動かされ、その結果真の新機軸をうち出さずに終わってしまう。これに反して少数の中でも、さらにきわめて少数な著作家は、事柄そのものから思索の刺激をうけ、その思索に直接事柄そのものに向かう。このような人たちの間にのみ、永遠の生命をもつ著作家を見いだすことができるのである。もちろん今、私がここで論じたのは精神の尊厳をさまざまな角度から扱う著作家たちのことで、独創性は発揮しても刺激の強い安酒製造に専念する著作家は論外である。

アルトゥル・ショウペンハウエル「読書について」

2017年6月6日火曜日

強い戦闘的天性は抵抗するものを必要とし求め、敵と対等が決闘の前提である。

   戦いとなると、話は別である。わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。敵となりうること、敵であることーこれはおそらく強い天性を前提とする。いずれにせよ、これは、すべての強い天性の所有者に起ることである。こういう天性は抵抗するものを必要とする、従って抵抗するものを求める。攻撃的パトスが強さに必然的に伴うものであることは、復讐や遺恨の感情の弱さに伴うのと同断である。
 攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの成長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーあるいは、どれほど手強い問題を、求めているのかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいというのではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。・・・敵と対等であることーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない。

フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」

2017年6月3日土曜日

開花した諸国民に重くのしかかる最大の害悪が戦争に由来する。

 我々は、開花した諸国民の上に重くのしかかるところの最大の害悪が、戦争に由来することを認めざる得ない、しかもそれは、現に行われている、或いは過去に行われた戦争の結果と言うよりは、むしろ将来の戦争のための軍備ーそれも永久に軽減されることのない、それどころか不断に増大しつつある軍備によって引き起こされるのである。実に国家の一切の力、その国の文化の一切の成果は、このことのために費やされているのであるが、しかしこれらの諸力や成果は、軍備のことさえなかったなら、更に大なる文化の創造のために用いられ得るところのものなのである。自由は、諸方において著しく阻害されているし、また本来ならば国家が個々の国民に致すべきいつくしみ深い配慮は、国民に仮借なく課せられる苛酷な要求に化している、しかもこの過酷さは、実に外寇の危険をおもんばかっての措置として是認されて居るのである。
 とはいえ諸国の文化にせよ、或いは公共体を形成する諸階級が緊密に結束して彼等の福祉を互いに促進し合うための協力にせよ、或いは植民にせよ、或いは法律による厳しい制限にも拘らずなお残されているほどの自由にせよ、これらのものがとにかく存在しているのは、常に忌み憚られている戦争そのものが諸国家の主権者を強要して人間性の尊重を止むなく認めざる得なくしたためにほかならないのである。
イマニュエル・カント「人類の歴史の憶測的起源」『啓蒙とは何か他四編』


2017年5月27日土曜日

戦争の義務は、個人の意志ではなく道徳的法則に対する尊敬の念にて為す行為の必然性である。

  義務とは道徳的法則に対する尊敬の念にもとづいて為すところの行為の必然性である。私の意図する行為の結果であるところの対象には、なるほど傾向をもつことはできるが、しかしとうていこれに尊敬を致すことはできない、かかる対象は意志から生じた結果にすぎないのであって、意志そのもののはたらきではないからである。同様に私は、傾向性一般をーそれが私の傾向であると、他人の傾向を問わず、ー尊敬することはできない、もしそれが私の傾向性であれば、ただこれを傾向として認めるのが精々だし、また他人の傾向であれば、それが私自身の利益に役立つ限り、時にこれを喜ぶことさえあるだろう。
 それだから結果としてではなく、あくまで根拠として私の意志と固く連結しているところのもの、私の傾向性に奉仕するのではなくてこれに打ち克つところのもの、少なくとも対象を選択する際の目算から傾向性を完全に排除するところのもの、すなわちーまったく他をまつところのない法則自体だけが尊敬の対象であり得るし、また命令となり得るのである。そこで義務にもとづく行為は、傾向性の影響を、また傾向と共に意志のいかなる対象をも、すべて排除すべきであるとすれば、その場合に意志を規定するものとして意志に残されているところのものは、客観的には法則だけであり、また主観的にこの実践的法則に対する純粋な尊敬の感情だけである。従ってまたいっさいの傾向を廃してかかる法則に服従するところの格律である。

イマニュエル・カント「道徳形而上学言論」