2018年1月6日土曜日

すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。

 すでに人間と生まれたからには、いかに才能、古今にすぐれ、識見、天地をきわめつくそうとも、人の境界を出ることはできない。そうであるからには、学ぶのも身を修めるのもすべて、人事のためです。それゆえ、内にあっても、外に出ても、貴は君公の位にあろうと、賤は奴婢早隷にいたろうと、ただもう人の間のことですから、ただ孝悌、忠信、礼儀、廉恥の間のことなのです。もし、道というものをこの人の外に立て、人事に害をなすならば、それは人の世、どこにいこうとも、非でありましょう。つまるところ、民衆を安んずるより大いなる道はなく、民衆を利するよりすぐれたる功はありません。そこで、上は一人から下は民衆にいたるまで、その身分に差等はあっても、天の生生の徳にならい、天物をそこなわず、人それぞれが造化を助けようと心がけるなら、天地の大徳に背かないですむのではありますまいか。人は生まれるとすでに早く各己の天地を有し、おのおのの混倫の体を立ておのおのの鬱勃の神を活かしています。人間とはそのようなものですから、人間あいての政治にあってはときに権謀術数をもって民衆を御するなりゆきにもなります。しかし制御するにしても、もしそのやり方に徳を失すれば民衆は粥のようににえたぎって、その権謀も用をなさなくなります。それぞれの心の鬱勃、それぞれの身の混倫と、同じものをもちながらそれぞれ異なったものを同居させている。これが人間です。

三浦 梅園 (人使然の世界)「自然哲学論集」