2016年8月16日火曜日

哲学の体系は戦闘的な防圧

 蜂の巣の中にただ一匹の女王蜂しかありえないように、日程に上る哲学は一つのみである。つまり体系というものは、くものように非社会的なものである。くもはそれぞれ単独で自分の巣の中に構えていて、何匹のはえがそこにかかるのを見守っているが、しかしほかのくもにはただ戦わんがためにのみ接近していくのである。こうして、私人たちの作品は子羊のように、柔和に相並んで生を楽しんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、それに加えてその破壊欲においても、さそりやくもや二三の昆虫の幼虫のように、主としてその同族のものをめがける傾向をもっている。
 そして今日にいたるまでこの兵士たちのように、すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。この戦闘は、すでに二千年以上も打ちつづけている。その中から、いつか最後の勝利者と恒久平和が出現するようになるであろうか。このように哲学の体系は主として戦闘的な性質をもち、それらが万人の万人に対する戦いを現じているために、哲学者として勢力を得ることは、詩人として勢力を得ることよりも、無限に困難なことである。なぜといって、詩人の作品が読者に求めることは、読者をたのしませあるいは感奮させる書物の系列の中に歩み入ってきて、たかが一、二時間の関心を傾けるというだけではないか。
 これに反して哲学の著作は、読者の考え方をすっかりくつがえそうとするものであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じていた一切のものをみずから誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを読者に求める。それが存続させるには、たかだか一人むの戦陣の遺跡の二三にすぎず、そしてこれを自分の基礎として使用するのである。その上、哲学的著作にとっては、既存の体系の読者の一人一人が公儀上の敵対者であり、それどころか、時には国家でさえも自分に好ましい哲学体系の保護者となり、その強力な物資的手段によってあらゆる体系の出頭を防圧するのである。

アルトゥル・ショーペンハウアー「知性について」