2017年11月23日木曜日

翁は曰く、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし。

 翁曰、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善といって分つ故に、悪という物できるなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒地を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世の法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗みを善としこれを制する者を悪とするならん。しかれば、如何なる物これ善ぞ、如何なる者これ悪ぞ此理明弁し難し、此理のもっとも見安きは遠近なり、遠近というも善悪ともいうも理は同じ、例えば、杭二本を作り一本には遠と記し一本には近しと記し、この二本を渡してこの杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二所に立べしといい付ける時は、速やかに分かる也。予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」とこの歌善きもあしきもなかりけりという時は、人身に切なる故に分からず、遠近は人身に切ならざるが故によく分かる也。工事に曲直を臨むも余り目に近すぎる時は見えぬ物なり、さりとて遠近てもまた、眼力及ばぬ物なり。古語に遠山木なし、遠海波なし、といえるが如し、故に我身に疎き遠近移して諭すなり。夫遠近は已が居所先に定まりて後に遠近ある也。居所定らぜれば遠近必なし、大阪遠しとはいはば、関東の人なるべし、関東遠しとはいはば、上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失みなこれに同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つなり、元一つなる物を半を善とすれば死の悲しみはしたがって離れず、咲きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必ず枯れるにおなじ。

二宮 尊徳「二宮翁夜話」