2016年10月26日水曜日

思惟は戦争概念・原理・原因を基定する

 世界というもののなかへ、全ての感情や意志行為が、それが宿っている身体の場所的規定とそれに織り込まれた可視的構成要素によって組み込まれている。これらの感情または意志行為の中に与えられている全ての価値や目的や善は、世界のなかに配入されている。人間の生活は世界によって包まれている。
 ところで思惟が、経験的意志、経験及び経験科学において体験され与えているような、直感、体験、価値、目的の全内容を表現し、また結合しようと努めるとき、思惟は世界における物の連鎖や変化から去って世界概念へ向かって進み、世界原理へ、世界原因へ基定しつつ遡っていく。
 それは世界の価値、意味及び意義を規定しようと欲し、また世界の目的を問う。この普遍化、全体への排列、基定という方法が、知識がもっている傾向に動かされて、特殊的な要求や限定された関心から離れるその到る所で、思惟は哲学に移っていく。また彼の営みによってこの世界と交渉する主観が、同じ意味おいてみの彼の営みについて省察するようになるときは、この省察はいつでも哲学的である。
 従って、哲学の全ての機能がもっている根本的性質は、一定の、限りある、狭い関心への束縛から抜け出て、制限された要求から生まれたあらゆる理論を、究極的理念に配入しようとする精神の傾向である。この思惟の傾向は、それの法則性に基いている。それは、確実な分析をほとんど許さない人間本性の諸々の欲求に、知識の歓びに、世界に対する人間の立場の究極的な確実性の欲求に、生命がその限定された諸条件へ縛られているのを克服する努力に合致する。一切の心的態度は相対性から免れた確乎たる点を探し求める。

ヴィルヘルム・ディルタイ「哲学の本質」