2018年2月10日土曜日

最後の時が来た折には、時分の過ぎ去った全生涯をまるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう。

 あなたは、自分が夕方まで行き着けまい、と思い見なさい。また夕べが来たならば、あしたまでの生を約束されているなど、敢えて思ってはならない。それゆえ、いつも用意を怠らずに、死に不意打ちを食わされぬような生き方をしなさい(ルカ・21の36)。不意に、また予期せぬ時に、死ぬものが多い。なぜかというと、「思いがけない時分に人の子は来るだろう」から(マタイ・24の44)。この最後の時が来た折には、あなたは時分の過ぎ去った全生涯を(今とは)まるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう、時分がそれほど怠慢で、だらしがなかったことを。
 ああ、愚かな人よ、どうして長く生きてゆけると考えるのか、一日として確かなは持てないものを。どれほど多数の人々が、長く生きてゆけると思っていたのに、その望みを奪われたことか、思いかけずに現身を引き離されて。いくたびにあなたはこういうのをきいただろう。あの男は刀で殺された、彼奴は溺れて死んだ、彼奴は高い所から落ちて頸を折った。彼奴は食事をしながら固くなった。彼奴は遊びながら往生したなど。火で死んだ者、刃物で死んだ者、疫病で死んだ者、盗賊に殺された者などとりどりである。そして万人の行きつくところは死であり、人間のいのちは影のようにたちまち移りゆくのである(ヨブ・14の20)。
トマス・ア・ケンピス (第23章 死の瞑想について)「キリストにならいて」