2018年2月27日火曜日

飢えは日一日と増してくる。用を足すためには小さな壺がある。これが第三帝国文明なのだ。

 死刑囚の独房にて。昼夜わたしは手錠はめられており、はずされるのは食事の時間中だけだ。裸ガラスの窓越しに、冬の凍るような風が吹いてくる。独房の暖房は数時間だけ入る。一日中の室温は最高で10度である。身体は全力をつくして寒さに抵抗している。だが無駄だ。カロリーが不足し、上が腸を痛めつける。いつも飢えが腸を痛めつける。いつも飢え、いつも寒い。わら蒲団のうえに毛布一枚で、夜はもっとひどい。おまえは胎児のように縮こまって、頭に毛布をかぶり、自分の息で少しばかりの熱を得ようと努める。朝おまえが起きるしときには、凍りついている。そして少しばかりのコーヒーで暖まりたいと思うのだ。いつもお前は寒さをおぼえている。乾いたパンの皮は歯のくぼみに入る程度だ。夕食と昼食は絶対的に不足している。飢えは日一日と増してくる。おまえの用を足すためには、小さな壺がある。これが第三帝国における文明なのだ。

ルドルフ・ザイフェルト(妻へ、ブランデンブルグの獄舎、1945年1月)「若き死者たちの叫びーヨーロッパレジスタンスの手紙」(J・ピレッツ編)教養文庫

2018年2月24日土曜日

ひとはなぜ戦争をするのか - 国際連盟にもっとも大事な事柄 -

アインシュタイン
 人間を戦争というくびきか解き放つことはできるのか?
 なぜ少人数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることができるのか? 戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ彼らは少数の人間の欲望を手に貸すような真似をするのか?
   人間には本能的な欲望が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が?破壊への衝動は通常のときには心の奥深くに眠っています。特別な事件が起きたときだけ、表に顔を出すのです。とはいえ、この衝動を呼び覚ますのは、それほど難しくはないと思われす。多くの人が破壊への衝動にたやすく身を委ねてしまうのではないでしょうか。
フロイト
 人と人のあいだの利害の対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。だだ、人間の場合、意見の対立というものも生じます。ですから、暴力以外の新たな解決策が求められてきます。
 敵を徹底的に倒すには、どうすればよいでしょうか。暴力を使い、敵が二度と立ち向かってこられないようにすればよいのです。そう、敵を殺せばよいのです。
 破壊活動に理想の欲動やエロス敵なものへの欲望が結びつけば、当然、破壊活動を満たしやすくなります。過去の残酷な行為を見ると、理想を求めるという動機は、残虐な欲望を満たすための口実にすぎないのではないかという印象を拭い切れません。

アルベルト・アインシュタイン、ジークムント・フロイト「ひとはなぜ戦争をするのか」(講談社学術文庫) 国際連盟からの書簡 1932年

2018年2月18日日曜日

哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、一切の人知を支配しなければならぬものである。

 私は実験学者としては哲学体系を避けている。しかしそのために哲学的精神までも排斥することはできない。この哲学的精神はいたるところにあって、いかなる体系にも属することなく、単に一切の科学のみならず、また一切の人知を支配しなければならぬものである。私が哲学的体系からは全く遠ざかりつつ、しかも哲学者を大いに愛好し、彼らとの交際において無限の愉悦を味わっている理由はこれである。実際また科学的見地から見ても、哲学というものは未知の事象を認識しようとする人間理性の永遠の憧憬をあらわしている。それ故に哲学者はつねに異説粉々たる問題とか、科学の高尚な部分、上級の限界などとかに関係している。そしてそこから科学的思想に向って、これを活気づけ、高尚にするような運動を伝える。哲学者はまた、一般的の知的訓練によって精神を涵養しつつ強壮にし、それと同時に、到底説きつくすことのできないような大問題の解決に、精神を絶えず接触させているのである。このようにして哲学者は、未知に対する一種の飢渇、或いは研究の聖火ー学者にあってはこれが決して消えてはならないーを維持している。

クロード・ベルナール 「実験医学序説」(実験医学はいかなる医学の学派にも哲学の体系にも属さない)

2018年2月11日日曜日

政治家たちは、節制や正義の徳を無視して、愚にもつかぬもので国家を腹いっぱいにしてしまった。

 つまり、人びとが欲しがっていたもので、もてなしたなら、人びとにご馳走をした連中、その連中を君は褒めそやしているのだ。また、人びとのほうは、この連中が国家を大きくしたのだと言っているが、事実はしかし、あの昔の政治家たちのせいで、国家はむくんでふくれ上り、内部は膿み腐っているのだということに、気がつかないでいるのだ。なぜなら、あの昔の政治家たちは、節制や正義の徳を無視して、港湾だとか船渠だとか、城壁だとかとか貢租だとか、そういった愚にもつかぬもので国家を腹いっぱいにしてしまったからなのだ。だからあとで、あのいま言われたような病気の発作が起った場合には、人びとはその責任を、ちょうどその時時傍にいて忠告する人たちに負わせて、この災難の責任者のほうは、これを褒めそやかすであろう。そこで、要心しないと、人びとは君に向かって攻撃してくるかもしれないのだ。人びとが新たに獲得したものだけでなく、最初から持っていたものまでも、その上に失うようなことになった場合にはだよ。君にしても、その災難の真の責任者ではなくて、おそらくは副次的な責任があるだけだろうにね。

プラトン「ゴルキグアス」

2018年2月10日土曜日

最後の時が来た折には、時分の過ぎ去った全生涯をまるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう。

 あなたは、自分が夕方まで行き着けまい、と思い見なさい。また夕べが来たならば、あしたまでの生を約束されているなど、敢えて思ってはならない。それゆえ、いつも用意を怠らずに、死に不意打ちを食わされぬような生き方をしなさい(ルカ・21の36)。不意に、また予期せぬ時に、死ぬものが多い。なぜかというと、「思いがけない時分に人の子は来るだろう」から(マタイ・24の44)。この最後の時が来た折には、あなたは時分の過ぎ去った全生涯を(今とは)まるで違った風に考え始めて、ひどく悲しむだろう、時分がそれほど怠慢で、だらしがなかったことを。
 ああ、愚かな人よ、どうして長く生きてゆけると考えるのか、一日として確かなは持てないものを。どれほど多数の人々が、長く生きてゆけると思っていたのに、その望みを奪われたことか、思いかけずに現身を引き離されて。いくたびにあなたはこういうのをきいただろう。あの男は刀で殺された、彼奴は溺れて死んだ、彼奴は高い所から落ちて頸を折った。彼奴は食事をしながら固くなった。彼奴は遊びながら往生したなど。火で死んだ者、刃物で死んだ者、疫病で死んだ者、盗賊に殺された者などとりどりである。そして万人の行きつくところは死であり、人間のいのちは影のようにたちまち移りゆくのである(ヨブ・14の20)。
トマス・ア・ケンピス (第23章 死の瞑想について)「キリストにならいて」

 

2018年2月8日木曜日

盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。

盂蘭盆会 
 中元の日各寺院では、盂蘭盆会を催し、燈をともし経文を念じ、幽冥に沈倫して、極楽に行くことの出来ない者を済度する。仏典を見るに、「日蓮は彼の母が餓鬼の中に生まれ返って食べることが出来ないので、釈尊は盂蘭盆会を7月15日に催さしめ、五味百果を盆中に盛り、普く十万の大徳寺を供養し、而る後に日蓮の母にも食を得さしめた。そこで日蓮が釈尊に向ひ「凡て仏弟子の中で親孝行は盂蘭盆会の供養を行わなければなりますまい」と申上げると、釈尊は「大いに善」と答えた。それで後世にこれに従うのだ」と記して居る。又「釋氏要覧」には盂蘭盆とは乃ち天竺の国語で、支那語では倒懸の苦を解き救うという意味だ。今の人人が盆を設へて供物するのは誤りである。
清敦崇「北京年中行事記」