2016年9月26日月曜日

戦争の記憶は代理経験と空想

 人間が他の動物と違うのは、自分の過去の経験を保存する点にある。過去に怒ったえことは、もう一遍、記憶の中で経験される。けれども、記憶の再生が正確なことは稀である。私たちにとって興味あるものを、興味あるゆえに記憶する。記憶というものには、危険や不安だけを除いて、戦いの興奮がすべて含まれている。それを生き返らせて楽しむのは、戦いや過去に属している意味とは別のある意味によって現在の瞬間を豊かにすることにほかならない。記憶とは、実際の経験に伴う緊張、不安、苦悩を抜きにした経験の情緒的価値のすべてを含む代理的経験である。

 戦闘の勝利は、勝利の瞬間よりも、戦勝祝賀の舞踏の時の方が痛切であるし、狩猟が意識的な、本当に人間的な経験になるのは、それを語り、その真似をする時である。人間が過去の経験を再生するのは、そのままでは空虚な現在に興味を添えるためである。記憶の本来の働きは、性格な想起というより、空想や想像の働きである。結局、大切なのは、物語であり、ドラマである。

 私たちは、普通の人間の普通の意識は、知的な研究、探求、試作の産物ではなく、さまざまな欲望の産物であるという事実を認める必要がある。私たちは、とかく自分を規準にして他人を判断し易い。合理性な非合理性というのは、知的訓練を受けていない人間性にとっては全く縁もなく重要でもないということ、人間は、思考よりも記憶によって支配されるものであること、その記憶も、実際の事実の想起ではなく、連想、暗示、ドラマティクな空想である。

 本質的な善は、恒常性と緊急とのゆえに大衆の関心事である日常利害から切り離されている。この区別を利用すると、奴隷や労働者階級は国家ー共和国ーにとって必要ではあるが、国家の構成員ではない。単に手段的と考えられるものは、機械的価値に近いわけで、本質的に価値を書くうと考えられたら最後、みな無価値になってしまう。

ジョン・デューイ「哲学の改造」