2017年9月12日火曜日

『基督論』の宗教が武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。

 わずかな意見の相違に基いて兄弟の交わりが絶たれ、多くの人は辱められ、放逐され、獄に繋がれ、または殺戮された。それは悲惨な歴史である。『基督論』が因になって、人々は彼等の宗教的教訓を恐るべき武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。この態度は今もなお持続し、しかもなお持続し、あたかも福音には他には問題はないかのように基督論は取り扱われ、それに伴う狂熱は今日もなお止まない。かく歴史上その様な重荷を負わせ、党派を引き続かせた問題が、今なお未解決であることを誰が不思議としよう。しかも、捉はれない眼をもって福音書を観察する者にとっては、イエスの自己証明の問題は決して解けないものではない。ただしその中に理解に難く秘密なものがあれば、イエスの意味する所によりかつ問題の性質に従い、そのままにしておくべきであり、ただ象徴の形で言い表し得るのみである。『この世の現象の中には、象徴の助けなしには人間悟性の複雑せる表象の中に持ち来らせられないものがある。』
アドル・フォン・ハルナック (福音と神の御子ー基督教の問題)「基督教の本質」