2017年9月24日日曜日

現象が「本来」如何なる性状は、『受納性』の経験ではなくて、思惟、理性であろう。

 一連の精神状態は、啓示の出現そのものという歴史的事実を疑うか、或いは啓示の内容の信じるに足るべきや否やを疑うことによって、『啓示』の真理性を疑い始める。啓示は、何等、知の源泉ではなくして、知の源泉は経験と思惟のみだというのである。
 しかしながら、『その背後』に存在するものについて我々に知識を与え、且つまた我にとりしかじか現象するものが「本来」如何なる性状のものであるかを知らしめるものは、純粋な受容すなわち『受納性』の意味での経験ではなくて、思惟、理性であろうと考えるに至る。
 そこで人は純粋理性を地盤として、世界の由来、神、不死の霊魂について思惟し語るのである。人はいう、それはそうあらねばならぬ、それを人は観照という特別な『直感力』能力によって『観る』のである。
 ただ遺憾なのはその際観る人がそれぞれちがったものを観ていることである。なおまた遺憾なことには、このいわゆる観照なるものには、願望や希望が全く顕著に混ずることである。しかも、観照に説得力が欠けているのはいうまでもない。
ハンス・ドゥリーシュ「形而上学」