2017年9月23日土曜日

かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。

 かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。実際、そこにはなにか死ぬという知覚が、たとえそれが、特に老人においてはつかのまのことであろうと、存在し得るであろう、がしかし死後には、そこにのぞましい知覚があるか、それとも全くないかである。だがこういうことは、われわれが死に無頓着にならんがため、若きときから須く熟考しておかなくてはならない。そういう熟慮反省がなくてはだれも落ち着いた心境にあることはできなぬ。なぜなら死ぬということは定まっている。しかもそれが今日という今日でないと定まっていない。であるから、死がいまにもおしよせてくるようにおじ恐れていたのでは、誰が心のなかでじっとしておられようぞ。この問題については、さほどながたらしい議論には及ばないとおもう。

 マルクス・トゥッリウス・キケロ (第20章)「老境について」