2016年10月7日金曜日

死を嫌い避ける天性より霊魂不死

 されば人心進歩の有様を考えふるに、最初には全く想像もなす事なく、更に禽獣に異ならざりしが、死を嫌ふの天性よりして、霊魂の死せざる事と、霊魂の帰する処とを想像し、次に死を避けんとの天性よりして、自然の怪力を敬するの心起り、次に言動の粗なるよりして、祖先を神聖と想像するの心起こり、次に霊魂不死の考えよりして、祖先の霊魂天地に照臨なしますと想像し、次に祖先の霊魂神となりて、之を祭れば諸の災害を治し給うの威力のあることを思い、是より神威愈々盛にして、人間万般の諸行を指揮賞罰せらるるに至れり。もし未開の世に当て、人の心には道理を窮むる猶像なければ、風浪の忽ち動き、雲切の俄に起こるも、皆な怪力の仕業なりし事も尋常の事となり、怪力の仕業大に減少すべきけれども、人の幽瞑に心を注ぐ事、亦た次第に進むべければ、怪力亦た性質を変じて神となり、神の領する処次第に高尚幽瞑の地位に登れり。故に其尊厳亦た隋って増加し、信仰の心愈々深くして、神道の基礎となりにけり。然れども未だ黄泉に於て神の威力ある事と、現世の所業の善悪に因て、死後霊魂の帰する所に差別ある事を想像するに至らず、黄泉と云える語は、仏法にて所謂天堂地獄を兼ね称するの語なり。故に其想像未だ十分に成熟せりとも思はれざるなり。

田口 卯吉「日本開化小史」