2016年8月29日月曜日

絶対主義と教会の相互権力

 国家は罪の結果生じたものであるが、神の摂理によって救済と訓練を行う手段に転じられ、あらゆる権利権力をそなえた組織であると見られたが、これは本質的な点で中世的光のもとに立っていた。と同時に国家の現実性は絶対主義への展開過程において甘受された。この絶対主義は教会の優先権から自己を解放したばかりでなく、逆に教会の権力手段を利用して、今や官僚主義的役人国家への発展の途上にあったのであった。プロテスタンティズムは、一方で外部的教会制度のための配慮を国家にゆだね、さらに正しい外的なキリスト教的道徳秩序が堅持され純粋な教えがおこなわれるようにすることは国家の義務であるとしたが、他方では国家の政治的、社会的活動に教会的勢力が介入することの絶対にないように国家を教会勢力から解放したことによってこのような発展を一段と助長した。
 近代国家の発展はこのような事態をとおしてプロテスタンティズム的地盤では驚くべきほど促進されたばかりでなく、同時に国家もしくは当局は、社会が制度上キリスト教の立場に立っていることに対してともに責任を負うものとして、また教会を純粋に維持し純粋に維持し保護する義務を負うものとして、直接宗教的な課題をになうことになった。もちろんこの課題はただこのように文化の全体がキリスト教的文化であることを保証しただけのものである。独自のキリスト教的義務感情からキリスト教的道徳秩序を維持し純粋のキリスト教の教えの実現を配慮する国家というものが古いプロテスタンティズムのあらゆる文化にとっての不可欠な場であり支えなのである。いやしくも道徳的、教会的の事柄に関するかぎり、教団の働きが参与すべきであるということを強調し推進するのである。

エルンスト・トレルチ「ルネサンスと宗教改革」