2016年5月22日日曜日

「証言」七三一石井部隊

郡司 陽子

 1945(昭和20)年8月10日ソ連が参戦する。村は混乱と怒号。関東軍第七三一部隊の本部は中空高く拭きあげた紅蓮の火花。千葉県千代田村加茂の石井家は昔は醤油、まゆなど広く商っていた。石井四郎部隊は京都帝大医学部を一番で卒業した有名な軍医である。「丸太」「の担当は石井剛男、動物者の担当は石井三男となる。加茂部隊とは地名から来ている。全村をあげて多くの人を送り出す。 1938(昭和13)年にハルピンに本部を設置する。弟の話では、手間賃が一日七十銭の時、万翔に行けば一日ご縁になる。希望者は徹底したもので、何台もさかのぼって友人、親戚もビシビシ追求された。ハルピンにいくと千葉版として極秘の任務をする。夜は零下四十度で、暖房は完成していた。関東軍貿易給水部(七三一部隊)の本部を建てる。窓は厚い防弾ガラスで、監獄の様である。責任者の技師が乗り込み、銃を乱射する。「駄目だやり直し」と言われ、作り直す。三度目にようやく「よし」と言われる。生体実験用の丸太を収容する毒別獄舎だと知る。1941(昭和16)年5月8日に筆者は秘密部隊に勤務している主人と結婚して、ハルピンへ旅たつ。本部は鉄格網に高圧電流が流され、異常な警戒態勢で立入禁止となる。退院の口の固さ、清潔すぎる衛生設備である。何となく不安にさせる。日本軍の捕虜となった八路軍(中国共産軍)兵士、ロシア人兵士を「丸太」と予備、一本、二本と呼び、一本、二本と数える。 ハルピンより三日走り続けて西湖にゆく。十日前に航空機が細菌爆弾を投下し、その効果を測定する。二、三発チフス、赤痢、ペスト菌がつめられて落とされた。防毒衣を着用しサンプルわ採取した。集落人を捕らえて帰り効果を測定する。そのあとその集落人は全員山奥に連行され、自分達で溝を掘らされ、墓穴の前に目隠しをしてひまずかされ、首を切られた。中国側の各紙が突然の伝染病の大流行の結果、膨大な死者が出ていることを大々的に報じた。二、三人で潜入し、川に細菌を混入する。中国側は大騒ぎとなり、その影響の大きさに驚き至急帰隊せよと命じられる。厳格な緘口令か敷かれる。 覆面トラックから降ろされた「丸太」は、ベニヤ板を背に縛られ、足は鎖で繋がれて、胸には番号を付ける。「丸太」表情もなく抵抗もなかった。隊員達はトラックで百五十メートル避退した。爆撃機は標的の中心の棒をめがけて二十、三十Kgの爆弾を落とした。ドカンと「丸太」の地獄だった。生臭い血の臭いで、気分が悪くなる。記録班は冷静に映画を撮り続けた。全員その場で消毒をし、「口外無用」とする。この実験では爆弾の効果をいかに水平に拡大するかが併せて研究された。「丸太」を一列に縦に並べて、銃弾の貫通実験を行った。焼却場の煙突の煙が出ていると、奥さん達が「今日もやった」とか、「頭の黒いネズミ何匹焼いた」とか言い合った。「丸太」細菌を注射され、細胞単位までばらばらに解剖される。細菌は金魚や鯉のセルロイドのおもちゃ容器に入れて空から舞い降りてくるて聞く。中庭の周りを土のうを背中にくくりつけられた「丸太」が、食事も睡眠も与えられないで走らされている光景を見る。何日生きているかを実験する。 寧案はソ連満州の最前線である。中国人、ロシア人の態度を変わってくる。1945(昭和20)年8月9日、照明弾が浮き上がって見える。「負けたらしい。ダメだ。」流言飛語につつまれる。動物は薬殺され、一切のものを破棄せよと命じられるる朝鮮方面に疎開する貨車に乗り込む時、突然「部隊に向かって黙祷」と号令が下った。秒読みが切れてドカーンドカーンと爆発し、黒煙、赤い火が吹き出す。動物の鳴き声がし、「丸太」も一緒に吹っ飛んだと思った。特別列車はスッポリとシートをかぶせられ、安全が保証されていた。引揚船は軍艦で、故郷に帰り、石井家に呼ばれて、三兄弟に仕える。 自宅で石井部隊長はマッカーサーと秘密交渉をする。ソ連の戦犯よりはアメリカの交渉を選んだ。技師長は1950(昭和25)年に加茂で結核により亡くなった。1955(昭和30)年には剛男さんも神戸で亡くなった。隊長が亡くなったのは、1959(昭和34)年のことであった。