2016年5月23日月曜日

悲惨なボート系難民と陸地系難民

スーチェン・チャン

 政府機関、ボラーグや民間市民達が、やっとベトナム戦争による難民問題が解決されたと思うやいなや、より大規模で多く頻発する悲惨な大量出国が発生した。1978(昭和43)年から到来し始めたさらに混声の難民の第二波は、ベトナムからのボート系難民とカンプチアやラオスからの陸地系難民に分類できる。
 全体的に、彼らは第一波と比較して、より貧困で、より低学歴で、より田舎風で、よりさまざまに異なった民族の市民達であった。ベトナムからの少数派民族の中国人、カンプジアジン、低地帯のラオ族、山岳地帯のモン族とその他の少数民族から構成されていた。カトリック教徒は少なく、仏教徒やアニミズム信奉者が多かった。
 1975(昭和41)年以降の難民の流出の状況は、ベトナム、カンプチア、ラオスにおける新たな事態を反映した。それは30年間の戦争行為の後遺症だけでなく、共産主義政府が権力を持つようになり、何十万からおそらく何百万人に達する健常者であった市民の殺害だけでなく、都市が破壊され、森林がはげ山化して、水源が汚染して、無数の不発の地雷が放置されたからである。直面する経済上と環境上の復興の驚くべき業務があるにも関わらず、新しいベトナムの支配者達は自国からのブルジョア階級の排除を優先した、
 それで真っ先に、その中でも何世紀にもわたり居住していた何千人もの中国人の小規模な商人家族を排斥した。政府は彼らの商売、中国人学校、中国系新聞社を閉鎖して、彼らの財産を没収して、公務員の地位から追放したり、特定の職業への関与を禁止したり、登録を強制し、食料の配給量を減少した。

ベトナムからのボート系難民 過酷な状況下で生活を継続するのは不可能であり不本意なので、中国系ベトナム人はすべての手段を用いて脱国を試みた。中華人民共和国は彼らの約25万人以上を受け入れた。その他の約50万人は、大海に出るのには不適当で貧弱な設備で難民達を過剰に搭載した小さなボートで脱出した。悲惨なボート系難民の約70%は中国系ベトナム人で、世界中の注目を集めた。彼らは水も燃料も尽き、帯の海賊の犠牲になり、たとえ海岸が見えても、隣国のマレーシア、インドネシア、フィリピン、香港の当局がしばしば上陸を阻止した。ある予測で生命の喪失率は50%以上であった。
 
カンプチアからの陸地系難民 大量殺戮のポル・ポト時代には、ほとんどのカンプチア人の行動は厳しく管理されていたので、他と比べると少人数しか脱国できなかった。1977(昭和52)年にタイに入国したわずか約2万人のカンプチア人の難民が再定住を待機したが、その後にまもなくしてからその数は増大した。1979(昭和54)年にベトナム軍により樹立された新政府は、移動の自由をより緩和したので、非常に大勢の難民がタイの国境へたどり着いた。

ラオスからの陸地系難民 ラオスでは共産主義が政権を完全掌握して1年以上にもわたり、モン族を孤立させた。バン・パオ将軍が逃避した時、かれの支持者達はタイに向けて難儀な集団移動を開始して、最終的に約2万5000人が無事にタイに到着した。連峰に撤退したその他の6万500人は、ラオス人の共産主義者はモン族の要塞を取り囲み攻撃するために、投下爆弾、ナパーム弾、毒物を投下した。1979(昭和54)年の末に3000人の難民が、メコン川をわたりタイに入国した。
 低地ラオ族も、数千人がラオス政府より再教育収容所に送還された。国外に退去した低地ラオ族は、タイにおいて他の難民と分離して劣悪収容所に収容され、再定住する資格を剥奪した。本国に戻らないなら、逮捕されて、永久にその収容所を告知した。タイ政府は、彼らを国際的な哀れみの対象とならない経済的難民であると避難した。ラオス全人口の10%に相当する約30万人が流民となった。