2016年5月16日月曜日

総員起こし

吉村 昭

 1942(昭和17)年に神戸三菱造船所で竣工された一等潜水艦の浦上丸の中にいた中尉以下の三十三名が殉職した。敵に曳航され、呉海軍工場で修理を受けて、日本連合艦隊に引き渡される。
 1944(昭和44)年8月13日、伊予号は灘由利島で百二名が殉職した。救助者は二名のみである。伊予号の第三十三潜水艦機械室より浸水し、叫び声があがり、電灯が消え排水ポンプが作動停止になる。浮上する望みが断たれ、鼓膜の痛みが強くなる。ハッチを開けて十六名が脱出したが、小西・岡田二名のみが助かった。
 九年目に沈没した遺骨が沈没した遺体の棺が魚の棲家と変わり、アンコ、メバル、鯛、チヌの水族館となる。遺体に強烈な臭気が噴出し、髪も黒々と伸び耳におおいかぶる。爪も一センチ伸びていた。鎖を首に巻いて縊死し男根が突出している。浮揚した白い遺体の皮膚には、発疹の赤い点状が吹き出していた。二度目の事故死は因島で三名の死亡であった。謎の沈没事故は不思議である。総員起こしが二度ともなし。
 多数の将校を乗せた輸送船が沖縄に向かう途中に、アメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没したのである。将校六名と下士官二名が上陸艇で海辺に来て、漁師や市民に救助のため二・三隻を出してくれときた。漁師達が助けに来たと知ると群衆が押し寄せて来て、恐怖を感じた。生存者は中尉一名と兵二百九十八名であった。遺体は五十二体で三隻の上陸用艇に乗ったのは将校ばかりである。手のない水死体が多かったのは、将校が兵士の船にすがる手を次々に切って、将校たちの船が沈まないにしたからである。船にすがる手を切っても新しい手がつかまる。漁師達は手に対する恐怖感で救助をためらった。六十体の焼骨作業をした。五日後に終戦となる。10月下旬の一ヶ月の間に十一体の遺体が網にかかる。三年目に輸送船を引き上げる。船内には七遺体と八台の小型戦車が有った。兵三千人を乗せた輸送船と護衛する水艦艇がアメリカにやられた。戦争の悲劇により海が柩となる。