2016年5月15日日曜日

墓標なき八万の死者

角田 房子

 満州から避難烈車が東安駅で転覆した。死傷者七百名が出た。原因は駅付近の山積の爆弾を 、軍命令によって爆破したためである。上官の命令は絶対なものである。避難民の命はかえり見られなかった。鉄道に沿って歩き始めた者は、ソ連の攻撃を受けた。実在しないものへの恐怖につぶされて、四十九人が死んだ。
 ソ連参戦の二ヶ月前には、開拓団は放棄と決められていた。関東軍はなぜ開拓民の安全を計る措置わ取らなかったのか。
 満州国の皇帝溥儀皇妃は、首都から逃げる。十三年間政府が置かれた新京の街も、滅亡への坂道をまっしぐらに転落していった。生と死は偶然が決める。朝鮮経由で奇跡的に無事に帰還した開拓団が六つあった。入植後年数が浅いことも一つの原因ではなかったろうか。
 脱出不可能なのは六年以上の古参組である。引き揚げる市民開拓団は二百七十四人もいた。一家族一個だけの荷物を持って、日本軍の総退却は知らずにいた。日本人は敗戦というものを知らない市民であった。満州人は親の代々から反乱戦争に、揉みぬかれて生きてきた。略奪の好機と考えた。県公署警察はすでに引き上げている開拓団の引き上げに馬車三十台を貸与する。満州警察のしかけたワナである。武器を取られた開拓団は、満州人の恨みをまっこうから浴びた。団長の合図で自決場に集まり、泣き叫ぶことなく自決し火を放った。二百七十二人の最後であった。小古河蓼開拓団は、軍の許可がないために乗船できず。三百人が前途を悲観した後であった。
 ナチス・ドイツの強制収容所でもユダヤ人は迫害を受けたが、集団自決の例はない。 「満州へゆけば二十町の地主になれる。」と満州へと宣伝した。帰国してみると彼らの所有地は農地開放の措置として、政府に買い上げられ人手に渡る。引揚者がそにこ割り込む余地はない。