2016年5月24日火曜日

戦争の罪を問う

カール・ヤスパース

 今一つの相違は苦難のあり方にある。苦難はわれわれすべてに共通だとはいえ、その個々の現れ方には量・質とともに甚だしい相違がある。近親や友人はあるいは死亡し、あるいは消息を絶っている。住居は瓦礫と仮し、財産は破壊された。なるほど誰しも心配ごとがあり少なからず窮屈な思いもすれば、物的な苦悩もある。しかしその苦悩と損失とが前線の戦いで生じたのと、故国で生じたのと、政治収容所で生じたのでは、全く話が別である。本人が秘密警察に睨まれたのと、びくびくしながらも政権を利用して甘い汁を吸っていたのでは、話がまるで違う。ほとんどすべての人が親友や近親を失った。しかしどういう失い方をしたか、前線の戦いで失ったか、爆撃で失ったか、政治収容所で失ったかナチス政権の大量虐殺で失ったか、ということによって生じる内面的態度に非常な隔たりがある。 
 幾百万の傷痍軍人がおのれの生活形式を求めている。幾十万の人間が政治犯収容所から救い出された。幾百万人が強制立ち退きをくらって放浪させられている。男子の大部分は捕虜収容所の生活を体験し、お互いに著しく相反した経験をしてきた。多くの人間が人間的なものの限界に突き当たって、帰還した後も現実に見てきたものを忘れかねている。
 ナチズムの打破によって従来の生活軌道から置いたてを食らった者のり数は知れない。苦難は質的に見てさまざまである。大部分の人にとって、本当に理解できるのは自分の苦悩だけである。誰でも大きな損失な苦悩は何かの犠牲だと解釈する傾向がある。しかしこれが何これが何のための犠牲であったかの解釈に至っては根本的な相違があり、この相違は人間を区別する一応の目安となる。

 とはいえ、こうした犠牲は常にに部分的な成功を見るにとどまっている。われわれは皆、自分を正当づけようとする傾向があり、自分に敵対するように感じられる力に対しては、価値判断か道義的弾劾かによって攻撃を加えようとする傾向にある。今日、われわれは、いつにもまして、鋭い自己検討を行わなければならない。われわれがはっきりと知っておきたいのは次のことである。すなわち、世の動きのなかでは、常に、生き残る者に正しい道徳があるように感じられる。成功が正しさを証明してくれるように思われる。時代の波に乗った人は正義人道の心理のもとに立った気になっている。挫折する人々、力のない人々、時限によって踏みにじられる人々が事物の盲目な動きから受ける深刻な不公正は、この点にあるのである。