2016年6月27日月曜日

他人に使われる手下

   辛亥革命(1911年)の後は、意気込みさらにものすごく、天下に難事なし、最善最美の世界も誰もが提唱し出しさえすれば立ちどころに実現できるものと私は考えた。種族の革命など、何でもないことである。もし無政府・無家庭・無財産の世界に到達できれば、その時こそ我々の革命の任務は終わるのだ。私はこういう最高の理想に酔うていたので、そのころ社会党をおこす人があるとすぐに参加した。そのから一年半の間、私はもっとも熱心な党員であった。しばしば党務を処理するために、夜遅くまで寝ずにいたこともあった。
   多くの親戚や先輩が、「これらの人たちはごろつきである。お前はどうしてわざわざ彼らのの仲間になるのだ。お前のなすべきことではないのに。」と忠告してくれた。このような功利的な見解は、ずっと前から私の承服できないものであった。ごろつきと紳士とは悪制度が区別した二つの階級にほかならないと思い込み、紳士たちがいろいろと革新運動のじゃまをするのが実にいとわしく、この階級を根こそぎするのではなければ気持ちがすっきりしないと思っていた。
  しかし入党して相当の時間がたつと、それらの党の同志たちが、次第にぶざなものに見えてきた。彼らには主義がない。会を開いて演説をやる時にはもちろん悲壮を極める。しかし会が終わるとその情熱はうやむやの世界へ消えてしまう。彼らの言う話は、いつもでたっても二、三のおきまりの文句で、口で言う主義を実際に研究しようとは誰も考えない。ひまな時は、永いテーブルを囲んで世間話や冗談を言っているばかりで、女遊びをする。私は極めて情熱的な人間であり、同時に世間馴れない者であったから、彼らに向かってしばしば説教もし、注文もした。しかし一向に誰も聞き入れてくれない。私はこの仕事に関して極めて徹底した目標を持っていたけれども、私の学識が非常に浅薄で、主義を発揚することなどは全く思いもよらないことを、自分でよく知っていた。しかるに党の内部では、私の博学な文豪扱いにしてしまって、発表する文章がある時にはいつも私を引張出して筆をとらせるのである。
 このすべてが思いのままにならない境遇にいるうちに、一つのことが私にははっきりとわかった。この人たちは他人に使われて手下になることがやっとのことで、主義を抱いてそれをおのれの生命の如くにみなし、事業の順序を計画して進行させたりすることはできないのである。前にはまったく彼らを買いかぶりすぎた。私は、自分が他人の手下になることを欲しないからには、他人を自分の手下にすることもあり得ないことをよく知っていた。それならば、いつでも党にいてごだごたと日を過ごしてみても何の益もない。私は脱党した。
 しかしこの一年半の時間をでたらめに失った代わりに結局において世間と自分の才分とに対する認識を持つことになったのはありがたいことである。これから後、いかなる党や会にも二度と軽々しく加入することをしなかった。しかしこれは政治と社会の改革への希望を棄てたのでは決してない。私自身はこの方面に発揮すべき能力を持たない人間であることを知ったのである。私がこの方面の才能を持たなくとも恥じずべきこととは思わない。何となれば、私には、本来、自分にできる仕事がある。そして、元来、ひとりの人間がいろいろの事柄をみなわきまえなければならないものではないから。

顧 頡剛 「古史辨自序 ある歴史家の生い立ち」