2016年9月15日木曜日

紫禁城から日本公使館に脱走皇帝

 紫禁城の内務府はありふれた、型どおりの皇帝(溥儀: 清国の最後)の従順な僕であるだけでは十分ではない。もし自分達がいなかったら、皇帝は道徳的にも、肉体的にも、精神的にも、いっそう貧しくなってしまうであろうと思うところまで奉仕に徹する必要があったのである。実際はこれとはまったく逆で、革命前はもちろんその後も、彼らは一貫して内務府とは自分達の危篤の利益を計るための機関であり、自分自身の存在を継続させる口実を見つけ出すことにあった。
 皇帝は、優待条件に関する清室側の立案者の真の目的が、皇帝や一族を保護することにはなく、世間へ出て自分の力で生計をたてることに恐怖を感じ、王室は滅亡しようとも自分たちは無傷でいたい大勢の宮廷官史と宦官たち、そしてあらゆる種類の寄生虫たちの生活を維持するためであった、という意見をもっています。
  紫禁城の財宝は1933(昭和8)年の満州事変で、日本と満州国の軍隊の北京にたいする軍事的脅威によって、中国中部のいくつかの場所に急遽疎開しなければならなくなった際に、一般の注意をひくこことなった。
 北京での差し迫った内乱についての奇怪な噂はありがたいことに外国公使館にも何の情報も入っていないようだ。1934(昭和9)年11月29日最初に日本公使館に入った。外国公司のうちでも日本は、紫禁城から脱走する皇帝を受け入れるだけでなく、十分な保護を叶えてくれるであろう唯一の公使であったからだ。その他の外国公使館は、中国の内政に干渉すると解釈し、ひどく冷淡な態度をとる。
 特別列車が爆破された張作霖の死は、従来の満州における法と秩序の崩壊のきっかけとなる。1931(昭和6)年9月18日から有名な満州事変が起こったのである。1934(昭和9)年3月1日に皇帝は日本か強権をもって作り上げた傀儡国家「満州国皇帝」となった。

 レジナルド・ジョンストン「紫禁城の黄昏」