他と区別する自我が自由を殺す
考えると美醜の二元相対は、人間の分別が作為したもので本来の面目ではあるまい。丁度天候それ自身に、寒暖の二はなく、立場を異にするとある人には暑く、ある人には寒いと呼ばれるに過ぎない。だからそれは人間の作為による区別に他なるまい。本来は無記である。
同じく美悪美醜の分別も人間の作為に過ぎぬ。故にこれに囚われるのはあたらな妄想を描いて、これに煩わすに外ならぬ。本来は清浄であるのに、強いて美醜の二つの葛藤妄想を起こすから、とにかく濁るのである。濁ればなかなか救いが来ない。故に不二に居ればおのずから救いが与えられよう。不二に居るとは、二つに囚われない身となる事である。だから知的分別を振り回す者はとかく道を謝る。作為に囚われて、道を失うからである。
二つの世界に在る事は、不自由に在る事である。この自由を殺す最も大きな力は自我である。「他」と区別する「自」である。自我への執着は人間を奴隷にする。作為をこらせば作為に倒れる。しかし作為を意識的に殺せば、新たな行為で、循環するに過ぎぬ。分別に縛られては、人間を殺すに等しい。どうしても分別に在って分別に終わらぬ世界に出なければならぬ。
どうしてこんな悲喜劇が起こるのか。知る事と見る事、知る事と行う事、知る事と味わう事とが一致しないのである。あるいは一致というよりも、前後しているという方がよいかも知れぬ。即ち、見て知るのではなく、知って見ようとするからである。行って知るのではなく知って行おうとするからである。味わう事で知るのではなく知れば味わえると思うからである。あの善悪の標準を見ましても、程度の差であったり、立場の差であったり、国状の別に依ったり致します。時代で国土でどんな内容を異にするのでありましょう。
柳 宗悦「新編 美の法門」