麻山事件(婦女子400名の自決)
満州の野に、婦女400名が自決する。1945(昭和20)年8月12似に満州の東部国境に近い麻山において避難途上にあったハリバ開拓団の一団が、ソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子約4百数十名が自決する事件が起こった。介錯は十数名の男子団員により、小銃を用いて行われた。男子団員は、その後ソ連軍陣地に斬りこむことになっていたが、果たせずまもなく終戦を迎え、その過半数し新京ハルピンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している。新聞が取り上げ報道する。麻山事件の男達は口を開こうとしない。だからこそ身をよじるような痛烈な痛みに傷口から血をしたたらせその十字架の重みに耐えている。性格に記録したいと思う。
加藤完治は、我が国の過剰人口と過小耕地の問題の解決に満州に求めた、「開拓の父」と呼ばれた。1932(昭和)7年に第一次の武装移民集団423人が渡満州し入植する。1937(昭和12)年に20数年らわたり百万戸送り出す計画へと発展してゆく、終戦時に青少年義勇軍は、8万530人となる。加藤完治の率いる職員は誰も傷つくことなく、日本に帰ってきている。戦犯の追求を恐れて、福島県白河市に入植する。彼は満州に行った開拓者が、生きて帰ねのは不思議だ。全部死んでもよかったと言った。「満州は10年の間に整備されてゆき天照大神を祀る。家族を呼び。学校も出来る。」といっていた。
満州の気候は、冬期が厳寒であるのに、夏は猛暑が襲うという大陸的気候である。雨量は日本の1/2から1/3であり、北と南でし農耕法も当然違っている。東北満州は雨量が多いと黒色重粘の土壌は、一度強い雨が降れば、平均3〜6尺の表土にたい水して、それが強い日光に照らされるとコンクート状に固まり、毛根の発生が破壊され枯死する。スコップ1ちょうも馬も日本の物ではだめである。1945(昭和20)年ころには、食料の供給状況は悪化し、開拓団も裸で供出する所まで追い込まれる。7月に入って全満州かせ「根こそぎ動員」が下令される。「まぼろしの関東軍」からも日本政府からも見放された。
1945(昭和20)年8月9日に日ソ開戦となる。30余機の襲撃死に死に狂いの列車争奪の悲痛な叫びと凄まじさ、悲痛な叫びと断末魔の呻き声が起こる。古川吉岡も家族を撃ち殺す。「私を殺して下さい。と女達が声をあげる。自決しよう。晴着を着て水盃を交わし、みな鉢巻をしめており、覚悟の様子が解る。集団自決の現場を前にして「正に魂も昇天する驚愕」と言っている。苦悶する婦女子に、とどめの弾を撃って楽にしてやりたい。そんな余裕がなく結局は成し得なかった。大勢集まって休息しているように見えた。近づいてみると400人くらいの婦女子が自決している。皆んなうつぶせで死んでいた。現場から7人の子供が現地人に助け出された。1947(昭和22)年5月には汽車の窓から白骨が真白になるほど散らばっていた・そのあと昼も白く青光りする燐の燃えているのが見えた。死臭は4Km先からも臭ったという。
先頭集団が、ソ連軍に壊滅した後でも、2Km後方には何の情報も入って来ない。青校正は「団長以下全員自決玉砕す。斬込隊編制のため全員集合せよ。」茫然自失した福地医師から「斬込みに婦女子を連れて言ってどうする。」と強い叱責を受ける。そのために救われる。上野勝は死んだと思った妻と子にばったりと会う。彼は麻山の人々に対する追目をさらに深くする。1957(昭和33年)7月にハルピン副団長として処理を済ませ、ひっそり南米ボリビアに渡り奥地にある日本移民として入籍し、密林に斧を振う。満州国の皇帝溥儀は、建国以来13年5ケ月で歴史を終えた。1943(昭和18)年ハタバに飛行場が出来る。一度も使用せず、敗戦後に中国大陸の日本人捕虜に使われた。1日に蒸しパン3個で鞭で追い回し仕事をさす。労役の果て、軍機保持のためにひそかに処分された噂もある。
仲村 雪子