小林義繁討死 小林上野守は、未馬にてひかえたりけるが、切り落とされては犬死しぬとおもひければ、権大夫を弓手に相付、駆寄て鐙をこえており立たり。鍔本まで血に染たる太刀をめ手の方に引そばめて、義弘に打てぞかかりける。権大夫は敵を小太刀と見たりければ、手もとへ近付けて勝負をせんとやおもひけん、長刀を茎みじかに取なをして、弓手の袖をゆりかけてこそ待たりけれ。義繁走かかてきらんとするに、更にすきなかりければ、元来小林手ききなれば、小膝を折て袖の下へあげ切に、すきもなく二太刀つづけて切たりけり。其太刀に権大夫弓手のかなを二ケ所きられて、今は物あひよしと見てんげれば、長刀を取なをして腰当のはずれ、内甲へすきまにあたれとこうだりけり。小林運命やつきたりけん、ほうあてのさげを、甲のしころへすぢかひさまに、こみ立られて、更にはたらきえざれば、其長刀を切はぞさんとふりあをのひで、仏切に二太刀・三太刀うつ処を、長刀を取なをして脛当のはずれをよこさまにしたたかにこそ切たりけれ。因幡はいだてのさねともに、片股をかけず切て落す。小林心はやたけにおもへども、片股なければ北枕に倒臥す。弓手の手をおさえて暫は太刀にて合けるが、次第によはりてみえければ、権大夫の兵落合て、頸をとらんとしける処を、草摺を取て引よせて、さしちがへて二人ながら同枕に死にけり。義繁己に討れければ、小林三郎一族若当七八騎合重て、義弘を真中に取り籠て、今はさてとみえける処へ、杉豊後・同備中・須江美作・平井入道分々合たる敵を打ち捨て、権大夫を先途と長刀を取のべて、小膝にのせて仏切にないでまわりける真中へ、皆みな走入て敵をむずと切へだてて、散々に闘ける処に、大内が兵大勢重てとりこめて、戦ければ、敵八騎の兵も矢庭に五人は討れにけり。
「明得記」(明徳二年十二月)