2016年11月2日水曜日

迷信から言葉と概念の奴隷

 美学は、本来的な芸術事実に即していえば、極めて制限された適用範囲しかもたないという認識が生まれざるをえないのである。この除痛体は実際的に、芸術史家と美学者との間にみられるところの、蔽うべからざる相互的な反目として、すでに昔から現れているものである。客観的芸術学と美学とは現在においても未来においても和解できない部門である。その材料の大部分を放棄して、美学者の用に適するように仕立てられた芸術史に満足するか、それともあらゆる美学的高識を断念するかどうかのという選択の前に立たされた場合、芸術史家は、いうまでもなく、後者を選択するであろう。対象によって密接に関係している二つの部門はいつまでも相互に触れることなく併行的に研究せられるであろう。
 ところでこのような不和の原因はおそらく単に芸術という言葉の概念に対する迷信にすぎないのである。この迷信に囚われて、我々は種々の減少の多様な意味を一義的な概念に還元しようという、まさに犯罪的な努力のうちへいつも閉じ込められるのである。それにもかかわらず、我々はこの迷信から脱出することができない。吾々はいぜんとして言葉の奴隷であり、概念の奴隷である。原因はどこにあろうとも、即ち芸術的事実の総体は美学の問題提議のうちには現れずして、芸術の歴史と芸術の教理論の二者はむしろ一致することのない、また共通尺度のないものであることは、何れにしても動かし難い事実である。

ヴィルヘルム・ヴォリンゲル「抽象と感情移入ー登用芸術と西洋芸術ー」