自分を大いに愛していると公言する人を世間では大目に見ている。しかし、それからいろいろ困ったことも生じ、自分自身を偏見なく正しく判断できなくなるのは重大だ。自己愛に対して盲目になる。そのために追従者に広い活躍の場が与えられる。自己愛が自分にとりいるための格好な足がかりになる。自分が何を思い欲しているか、自分だけでなく他人までが証人となることを許す。へつわられるのが好きだと非難されている人は、相当に自己愛の強い。自分を好意的な目で見るために、自分にはあらゆる特性を欲したり、現にあると思う。特性があるように欲するのは別に不都合ではない。しかし、現にあると思う方は危険であり、大いに警戒を必要とする。追従者は善を敵にする危険がある。追従者は自分自身をあざむき、何が善で何が悪であるかに気が付かなく、善は放置され、悪はまったく矯正できない。自らは本当大きな過ちは見て見ぬふりをするきずかないふりをするが、小さなうわべのことで何か欠陥を見つけるとえらい勢いて襲いかかる。
悪は、もし追従者がとくに身分の低い者卑しい者だけにまつわるのであれば、恐れるに足らず容易に警戒できる。しかし、名誉心の強い性格の人、有為の人、穏当な人ほど追従者を受け入れ、ひとたびとりつかれると育てやすい。追従へのへつらいも同じで、その日暮らしの人、無名の人、無能の人にとりつかず、名門の家や重大問題、さらに王国や皇帝にとりついて、つまずかせ倒したりする。追従が友愛を傷つけたり疑念を生じないように探し出すことは小事ではなく、目配りで足りない。
しらみは臨終の人の体を去っていきます。栄養分の人間の血が死によって途絶えるためである。追従者たちも、乾いたもの、冷えて固くなったものには近づきません。名声や権力のあるところに自分を肥やす。事情が変わるとたちまち姿を消す。
しかし、そこに至るまで待てない。その経験などは無益というより有害で、危険である。まさに友を必要としている時に、真の友はいない。不確かな友、偽りの人に代えて、良き友、信頼できる友を持てない。友は貨幣と同じで、本物かにせ物を判定するのは手遅れで、必要になる前に、本物かにせ物かを定めるべきである。被害ではじめて気がつくのではなく、被害に合わないように追従者を知り見破るべきである。猛毒な毒薬を知るために一服して、毒薬と知った時には命を落として身を滅ぼす。友人は気持ちのいいものでもなく、立派なな有益だけのものではない。友愛が尊いものなるのは、辛辣や厳しいからでなく、立派さ尊さが心よく慕われやすさである。
プルタルコス「似て非なる友について」