人間の風刺喜劇、戦争、恐怖、麻痺状態、奴隷状態ーこういうものが君の神聖な信念を日に日に消し去ってしまうであろう。これらの信念は、自然の探求者として君が抱懐し、受け入れたものだ。だから君はつぎのようにしなくてはならない。すなわちなにを見るにもおこなうにも、目の前の務めを果たしながら同時に思索の能力を働かせるように心かげけ、各々の事柄に関する知識からくる自身を人知れず、しかしわざわざ保ち続けることだ。
いったいいつ君は単純であることを楽しむようになるのであろうか。いつ品位を持つことを?また個々の物に関する知識、たとえば本質においてそれがなんであるか、宇宙の中でどんな場所を占めるのか、どのくらい間存続すべく創られてするか、それを構成するものはなにか。誰に属しうるものであるか、それを与えたり奪ったりすることのできる人々は誰か、等の知識を楽しみとするようになるのはいつだろうか。
隣の枝からきりはなされた枝は、樹全体からもきりはなされずにはいられない。それと同様に、一人の人間から離反した人間は、社会全体から落伍したのである。ところが枝は他の者がこれをきりはなすのであるが、人間のほうは。隣人を憎み嫌うことによって自分で自分をその隣人からひきはなすのだ。しかも彼はそうすると同時に共同社会の全体からも自分を削除したことを知らないのである。ただしここで注意すべきことはこの共同体の創設者であるゼウスの神が与え給うた賜であって、そのお陰で我々は再び隣の枝に結合して全体として完全なものに復することが許されているのである。しかしこういう離反がたびかさなると、はなれた部分がふたたび結合して元どおりになるのは難しくなる。一般にいうと、最初から樹とともに呼吸し続けた枝は、ひとたびきりはなされ、後にふたたび接木された枝とは違う。これは庭造りたちのいうところである。だから同じ幹の上で成長せよ。ただし意見は同じうしなくともよい。
マルクス・アウレーリウス「自省録」