怒りが自然に合ったものかどうかは、人間を見れば明らかであろう。人間が正しい精神状態にあるときほど平和なことがあるだろうか。しかし、怒りほど無情なものがあろうか。人間ほど他人に愛情をもったものがあったろうか。怒りほど敵意のもったものがあろうか。
人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。相互扶助は結合を望むが、怒りは離反を望む。相互扶助は利することを望むが、怒りは害することを望む。相互扶助はは見知らぬ人々をも助けようとするが、怒りは最愛の者たちをも襲おうとする。相互扶助は他人の利益のために自分を消耗させようとさえしているが、怒りは他人を追い出すことができるなら、危険をもおかそうとしている。
それゆえ、この野蛮で有害な悪徳の原因を、最良で完全な自然の働きに帰する者ほど、自然の本姓を知らない者があろうか。怒りは、依然として、報復に熱心であって、そのような欲望の存在するどころか、最も平和な人間の胸のなかであるとは、人間の自然の本姓に最もそぐわないことである。人間生活は善行と協調のうえに成り立っており、脅迫によってではなく、相互愛によって、睦み合い助け合うために結び付けられているからである。
怒りはしばしば同情心によって静められるものである。というのは、怒りは本当の力強さをもっているわけではなく、中身はからに膨れあがったものである。激しいのは初めだけだからである。怒りはものすごい勢いで始まるが、やがてはまもなく疲れて弱まる。そして、初めは残虐な仕打ちや新奇な処罰の仕方を思いめぐらしていたものの、いざ処罰をする段になると、すでに腰が碎けて、おとなしくなっている。激情は急速に衰え、理性が怒りに釣り合うようになる。
怒りは全く移の気である。限度を越えてはるか遠くに突っ走るかと思うと、当然に行くべきところので行かないうちに止まってしまう。怒りは自分勝手のことしか考えず、気まぐれに判断し、何ごとも聞こうとはせずに、弁護の余地を認めず、襲いかかったものは離さず、たとえ自分の意見が間違っていても捨て去ろうとはしない。
ルキウス・アンナエウス・セネカ