2016年12月24日土曜日

我が国体に特種の意義がある

 古来歴史上に現われている人物は、善かれ悪しかれ、社会の水平線上に出でた人々である。さりながら現代の栄枯盛衰が必ずしも公平を保たれないように、歴史上の人物にもまた幸不幸があるのを免れぬ。階級的社会においては、いわゆる人物は上流の貴族であるとか、武士であるとか、ないしは僧徒等に偏しておって、その時代に劣等視された百姓町人等にはたとい相当の人物があっても歴史に現れない。
 また中央集権の世の中では、地方の人物はとかく中央の歴史に載らぬがちである。同一の事業でもそれに先鞭を着けながら成功しなかったものは聞こえぬ代わりに、その功を収めた人が盛名をほしいままにする。されば歴史上に現れた以外に人物がないと思うのは以てのほかである。歴史家は常にこの点に注目して遺漏なきを期せねばならぬが、別けても地方の人士はその地方の隠れたる人家を表彰する義務がある。さすればまた地方の人物と違って印象も深く、地方の人心に影響し風教に被補することも鮮少ではあるまい。近時各地に行われる先人頌徳の事業はこの点において意義ありというべきである。そもそも祖先を崇拝することは我が国体において特種の意義がある。

三浦 周行「新編 歴史と人物」