しかし、私はなおまた日本において見る種類の人間を、特にここで見る三種の中の一つー即ち低い扁平な鼻を有った純蒙古人種なる、それ自身においては決して美しいとは言われない、しかも私にはきわめて同情のできる、聡明な、快活な、人懐っこい、温情のある、そして同時に抜け目のない人間を見ることのできないのが物足りないであろう。これらの人々を私は常に自分の側に置いておきたいと思う。家人または同居人としては、私は彼等よりもさらによき、さらに物静かな、さらに要求するところ少きかついずれの点においても気の置けない人間を知らない。
日本人が往々外人やまたは彼ら同士を満著したり、欺いたりするようなことがあってもーそれも大抵些細な事であるー、それくらいの事は言うに足りないではないか! その遣り方もきわめてナイーヴである、そして日本人はその欺瞞的行為を隠蔽したりもしくは弁解せんと努めるようなことは少い、それであるから日本人に対して真面目に腹を立てるなどということは実際できないのである。ーそれから病人の世話をしたり看病したりするには、日本人は、その親しみのある性質と、その辛抱強いことと、その優しいかつ器用な手先の故に、まさに理想的に完全なる資格を具えている。
日本人は忘恩だ不信だと言って往々非難する者がある。私が私の日本においては経験しなかったところである。私はむしろその反対を経験した。更にまた私に対して感謝の心を失わずかつ忠実であるのみならずー私は日本人が義務に忠実なることを発見した。日本人にしても忘恩や、不信や、更に進んでは意地悪の観を呈する、もしくはそう解釈されうるような行為があるとしても、それは、精察すれば、日本人が物の感じ方、ならびに感じの表し方において我らとは多くの点において異なっているということ、日本人が西洋の習慣を知らざること、もしくは無分別と無思慮すなわち頭のないにほかならないからである。
ラファエル・フォン・ケーベル「ケーベル博士随筆集」