賢明にして最も多く論理的に思索する人間は、生存競争においてその競争者に優越する。かかる特質はかくして自然淘汰の一つの基礎となり、それが可能となるかぎり強さをもって種全体の上に拡がるに至るまで、それは高まってゆく。したがって、認識の有用性こそはその支配の基礎である、というのである。仮にこうした考えが正しいとしても、これはここに試みられた考察を代理するものではない。このことは次の二つの点から言われることである。
けだし、まず第一に、この説は正しい思惟に基づいた行為の有用性を既成の事実として語っているが、われわれはここでは、真と名づけられた認識と高められた生の可能性とのあいだに存在するであろうつながりを、今ようやく探究しようとしているところなのである。この説は、認識の真実性ということを、認識そのものの有用性から原理的に切り離して、認識の一つの独立的な性質として前提しているのであるから、このもっぱら主観的的のみ規定された認識が、いったいどうしてわれわれの現実の存在に有利な行動を基礎づけることができるかという困難は、以前この説にまといついているわけである。したがって、元来認識はまず真でしかるのち有用なのではなく、まず有用でしかるのち真と名づけられるのである。
第二に、ぜんぜん実践を顧慮せずに純粋に理論的な認識をかち得ることがまず原理的に可能であり、かくしてはじめからかかる認識の獲得が実践の問題となるものと仮定すれば、おそらくまさにそれゆえこそ、あの客観的世界像に基いていかなる行動をなすべきかについては、さらに特別の経験を必要とするであろう。
理論的に正しいことをあらわすもろもろの行動のあいだに、主観的な行為神経興発がそれに基いて多かれ少なかれ有利に起こり得るような見地から、新たな淘汰が行わなければならない。なぜなら、たとい世界の全体像が、絶対的な経験的な正しさにおいて私の前に拡げられているとしても、私が意志者であるかぎりは、これによって私自身の態度がはじめから決定されることは断じてない。
ゲオルク・ジンメル「芸術哲学」淘汰説と認識論との関係について