2016年12月31日土曜日

神は盲従を要求する専制君主

 もと無意識的に行われた風俗習慣が神の命令として意識的に守るべきものとなり、その上ますます煩雑なる規定を加えるに至っては、律法の宗教的意義は問題とならざるを得ない。モーゼの五書を始めとしてその問題を解決せんとする企ては全くなかったではない。しかし数限りなきそれらの規定に一々合理的説明を与えんは到底不可能であった。とどのつまりユダヤ人の与え得る答えは、単に神の意志だから、神の命令だから、というに過ぎなかった。
 かくして神は、ただ否応なしに盲従を要求する専制君主となった。宗教は服従となった。「死人が不浄なるに非ず、水が浄むるにも非ず、神が律法を定めたるなり。書き記されたる神の命令は何人も破るに能わず。これ律法の命ずるところなり」という、第一世紀後半の有名なる学者ヨナタンの言によっても、またおのが敵なる祭祀らを肥すのみと知りつつも神殿に対する納税をきわめて厳密に実行したるパリサイ人らの振舞を見ても、ユダヤ教の精神は明らかである。敬虔ふかきユダヤ人が、かこたず、つぶやかず、解すべからざる神意に従順なりしその真面目なる態度は、少なくとも吾人の同情に値する。
 しかれども惜しいかな、宗教的生命の萎縮はその必然的結果であった。内容そのものに価値あるのではなく、命令という形式のみが大切である以上は、宗教は勢い、機会的形式的となり、ただ外形にのみ拘泥して精神を没却し、ついには内部の生命の枯れ果てた遺骸となりやすい。体裁、見え、偽善などのはびこったのは自然である。

波多野 精一「基督教の起源」