だれもが欲しがる宝石がはるか沖合のたいへん薄っぺらな氷の上にあり、生命の危険という番人が「もうすこし騎士の近くなら氷は底まで凍っていてまったく安全なのだが、こんな沖合までやってくるのは命がけの冒険だぞ」と監視の目を光らせながら宝石の見張りをしているとしてみよう。
その場合、これが情熱的な時代であれば、そんな沖合まであえて出かけて行く勇気は大衆の喝采を博することだろう。大衆はその勇者の身になって、またその勇者を哀惜することだろう。ところが情熱のない反省的な時代にあっては、事情はまったく違ってこよう。「あんな沖の方まで危険を冒して出ていくなんて、骨折り損というものさ。だいいち、愚かで滑稽だよ」とみんなが異口同音に言い、分別顔をしてお互いの賢明さをお互いに称賛し合うことだろう。こうして人々は感激ゆえの冒険を芸の展示に変えてしまうだろうー「所詮、なにかしないわけにはゆかないのだから」とにかくなにかをしようというわけで。そこで人々はその場へ出かけて行くだろう、安全な場所で、玄人ぶった顔つきをして、熟練したスケーターたちの大多数がぎりぎりのところまで滑走して行って、それからターンして引き返す巧みな演技を鑑賞することだろう。スケーターたちのなかには、名人といわれるような者も一人や二人は居合わすことだろう。そういう名人ならばもういよいよぎりぎりというところまで行って、観衆の目を眩ますような危機一髪の滑走の離れ業をやってのけ、観衆をして思わず、「たいへんだ、気でも狂ったのか、死んでしまうぞ」と呼ばせることだってできるだろう。
しかしなんと、彼は実に抜群の名手なので、いよいよぎりぎりという線で、つまり氷がまだいたって安全で生命の危険がまだ始まらないところで、あざやかにターンすることができるというわけだ。まるで芝居でも見ているのと同じように、大衆はブラボーを叫び、拍手喝采し、この偉大な演技の英雄を中央にかこみ、ぞろぞろと行列をつくって家に帰ることだろう。
セーレン・キルケゴール「現代の批判」