2017年3月25日土曜日

戦争による死の威嚇は未来の関心を突然に失い過去を放棄する

  仮説ではありません。例外的な場合には注意が生活に対して持っていた関心を突然放棄する場合がある。そうするとたちまち魔法にかかったように過去がまた現在になる。不意に眼の前に差し迫った死の威嚇が現れて来た人々は、崖から下へ滑る登山家や水に溺れるものや首を吊ったものには、注意の急激な転換が生じることがあるようです。ー それまで未来に向けられて行動の必要に奪われていた意識の方向が変わったために、突然それらに対し関心を失うようなことが起こるようです。それだけでも十分に『忘れていた』何千という細かい事が記憶に蘇り、その人の歴史全体が眼の前に動くパノラマとなって展開するのです。
 そこで記憶は説明する必要はありません。というよりも、過去を保持してそれを現在の中に注ぎ込むことを役目とする特別な能力というものはありません。過去はひとりで、自発的に保存される。もちろん、我々が変化の不可分という、我々の最も遠い過去が我々の現在に密着していてそれと共に唯一つの同じ遮られない変化を構成するという事実に眼を閉じれば、過去は正常的には廃棄されたもので、過去の保存は何か非凡のことのように思われ、我々はそこでどうしても、後で意識に再び現れて来ることのある過去の諸部分の記録を役目とする装置を考えなければならないと信じる。しかし、我々が内生活の連続、したがってその不可分を考慮に入れれれば、説明を要するのは過去の保存ではなく、却ってその見かけの上の廃棄だということになる。我々は想起ではなく忘却を説明しなければならなくなる。
アンリ・ベルグソン「哲学入門ー変化の知覚」