世間の人々の追求しているすべてのものは、単に我々の生存の維持にたいして何らの対薬をもたないばかりか、かえってその害になっている。すなわちそれらのものは、これを所有している人々にとってはしばしば滅亡の原因となり、逆にそれに所有されている(とりつかれている)人々にとっては常に滅亡の原因となっているのである。
実際、その富の故に、死ぬほどの迫害を受けた人々の例や、財を手に入れるために、数々の危険に身をさらして、ついに自らの愚行の報いを生命を以てつぐなった人々の例ははなはだ多い。また名誉を獲得あるいは維持するために、悲惨な苦しみをこうむった人々の例もこれに劣らない。最後に、過度の快楽のために自らの死を早めた人々の例は数限りがない。
ところでこうしたわざさわいは、私には、次の事実から、すなわち、すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質にのみ依存するという事実から生じるように思われた。全くのところ、愛さないもののためには決して争いも起こらないであろう。それが滅びたからとて悲しみもわくまいし、他人に所有されたからといって嫉妬も起こるまいし、何らの恐れ、何らの憎しみ、一言でいえば何らかの心の動揺も生じないであろう。実にこれらすべてのことは、我々がこれまで語ってきた一切のもののような、滅ぶべき事物を愛するときに起こるのである。
しかるに永遠無限なるものに対する愛は、純な喜びをもって精神をはぐくむ、そしてそれはあらゆる悲しみから離絶している。これこそ極めて望ましいものであり、且つすべての力をあげて求むべきものである。しかし私が、ただ真剣に思量し得る限りという言葉を用いたのは理由のないことではなかった。なぜなら、以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかしだからといって所有欲・官能欲および名誉欲から全く抜け切るというわけにはゆかなかったからである。
バールーフ・デ・スピノザ「知性改善論」