ニコライ一世治世の初頭は1825年12月24日の破局によって有名である(デカブリストの乱の鎮圧: 青年将校による皇帝の専制への反乱の鎮圧)。そしてこのことは、わが「社会」の将来の発展行程にたいしてと同様に、プーシキン(ロシアの国民的文学者)の個人的運命にも大きな影響をもたらした。「デカブリスト」の敗北とともに、当時の「社会」におけるもっとも教養のある前衛的代表者が舞台を去っていった。それはその結果として社会の道徳的・知識的水準をいちじるしく低めずにはおかなかった。「私はひじょうに若かったにもかかわらず」とゲルチェンは書いている。「しかも私はニコライ治世とともに上層階級がいかにいちじるしく頽廃し、腐敗し、盲従的になったかをおぼえている。アレクサンドル時代における貴族的独立、近衛隊的剛毅は、1826年とともに跡形もなく消え去ってしました。」敏感で賢明な人にとってはこのような社会に生活することが苦しかった。「周囲は藪、沈黙」そのおなじゲルチェン(ロシアの哲学者)が他の論文のなかに書いている。「すべては答えなく、人気なく、希望なく、その上極端ににぶく、おろかしく、小さかった。同志をもとめる視線は、従僕の威嚇でなければ驚愕によって迎えられ、人びとは彼から身をそむけるか、彼をはずかしめた。」詩『賤民』および『詩人に』を書いた時代のプーシキンの手紙のなかには、わが国の二つの首都の倦怠と卑俗さにたいする不平がたえず聞かれる。しかし、彼はたんに彼を取りまく社会の卑俗さになやんでいただけではない。「支配層」に対する彼の関係もまた、彼の血を毒することひじょうに大きかった。
わが国には、1926年ニコライ一世が、ありがたくもプーシキンの政治上の「若気の過失」を「ゆるしたまい」、その寛大な保護者にさえなったという、実に感動すべき伝説がひろまっている。しかし事実はぜんぜんそうではなかった。ニコライ一世とこの種の仕事における彼の右腕であった憲兵隊長ア・ハ・ベンケンドルフは、なにもプーシキンを「ゆるし」たのではなく、またその「保護」というのは、彼にとって耐え難い屈辱の連続にほかならなかった。「プーシキンは私と会いました後、イギリス・クラブで、陛下について喜びをもって語り、彼と一緒に食事をしていたものに、陛下のご健康のため乾杯すべく強制しました。ともかく彼はほんとうの阿呆者ですが、彼の筆と言葉とをみちびくことに成功しますれば、それは利益でございます。」この最後の言葉はわれわれの前に、プーシキンになされた「保護」の秘密をひらいてみせる。ゲオルギー・プレハーノフ「芸術と社会」