2017年3月13日月曜日

戦争と平和の歴史はそれをいだいている観念と最も密接に関連して物語る

 歴史は如何なる対象についてであれ、偏見なく、特殊な興味や特殊な目的を持ち込むことをせずに、事実を物語るべきだとせられるが、この要求は正当と見られねばならない。ところが我々は、このような定まり文句でもって、どこまでも押し通すわけにはいかない。というのは、或る対象の歴史は人々がその対象についていだいている観念と最も密接に関連するものだからである。即ち、その観念に従って、その対象にとって何が重要であり、何が合目的と考えられるかは、すでに定まっている。従って出来事のその目的に対する関係が、物語られる事件の選択、事件の捉え方、事件を見る観点を定めるのである。それ故に人々がもつ国家とは何かというそれぞれの観念から見るとき、或る国の政治史の読者は自分の求める何ものをもその中に見出さないということもありうる。しかも、このことは哲学史に一層ありうることである。即ち哲学史の叙述は、他のものはすべてその中に見出されると考えられるのに、我々が哲学と考えているものだけはないということを実証するものとも言うことができるかもしれない。
 他の歴史にあっては、その対象についての概念は、少なくともその主要規定から言って、ーその対象が特定の国であれ、或いは人類一般であれ、或いは数学、物理学などの科学であれ、また芸術、絵画などであれー明瞭である。ところが哲学なる学問においては、その概念に関して、即ちそれが何をなすべきか、また何をなしうるかに関して真先に見解が区々に分かれる。この点で哲学は他の諸科学に比べて異なるもの、いわば短所をもつ。この第一の前提、即ち歴史の対象についての観念が確定したものでないとすれば、必然的に歴史そのものまた一般に動揺するものとならざるをえないであろう。従って、それが特定の観念を前提する場合のみ、ともかくも安定したものとなるではあろう。しかし、その場合には、その対象のいろいろ異なった観念がある以上、当然に一面性という非難は免れえないはずである。
ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーゲル「哲学史序論ー哲学と哲学史」