時代が大きく膨れ上がったときに垣間見せる救い難き底知れなさに衝撃した人間のこころ暗さ! それに抵抗したりそれを弾劾したりする気力も挫けてしまう。私はますます自分が犬儒的にんなり、つむじが曲がってゆくのりをどうすることもできない。同じく心を動かされていても、人々と私とでは精神的風土がまるで違うのだ。人なかにいると、私はふと自分が間諜のような気がして来て、居たたまれなくなって席を立ちたくなることがある。何の共感もない。全く人とは別のことを感じ、また考えているのだから。
こうして私は時代に対して完全に真正面からの関心を喪失してしまった。私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ空語、空語! としてしか感受できないのである。私はたいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。余りに見え透いているのだ。私はそんなものこそ有害無益な「造言蜚語」だと、心の底では確信している。救いは絶対にそんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。
流れに抗して、溺れ死することに覚悟をひそかにきめているのである。私は欺かれたくない。また欺きたくもない。韜晦してみたところで、心を同じうする友のすがたさえもはや見別けがつかない今となっては、どうしようもない。選良も信じなければ、多数者も信じない。みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)こんなに頼りにならぬ人間ばかりだとは思っていなかった。私の方が正しいとか節操があるのでは断じてない。ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手をこまねいて眺めているばかりである。
林達夫「歴史の暮方ー時代と文学・哲学 (1940-42年執筆・1946年刊行)
『林達夫評論集』」