2017年3月18日土曜日

戦争の歴史叙述は敵対国民が敵の上に増悪の焔を投げつける愛国的歴史

 想定を変えることなしに如何にして文献的歴史の冷めたい無関心と内的な不確実さとは救済され得るのであるか、という問題に移る。そしてこの問題はそれ自身が偽りであるが故に、ただ偽れる解決が与えられるだけである。そしてこの解決とは、思想の関心の欠陥をば感情のそれをもって代え、ここに達することのできない叙述の論理的連関の欠陥をば感情のそれをもって代え、ここに達することのできない叙述の論理的連関の欠陥をば審美的連関をもって補おうとすることである。この道によって得られる新たな誤れる歴史形式がすなわち詩的歴史である。
 この種の歴史叙述の多くの実例は、敬愛された人物についての感激にみちた伝記、増悪された人物についての風刺に埋まった伝記、などにおいて見られる。その他、著者自身の属しまたは同情を寄せる国民の成功を賛美し、その失敗を嘆惜し、その敵対国民、かれ自身の敵の上に増悪の焔を投げつける愛国的歴史、自由主義または人道主義の理想をもって飾られた世界史、あるいはまた、一社会主義が(マルクスの言葉でしたがうならば) 「悲しき姿の騎士」の、いいかえれば資本家の雄業を描きつつ編述した世界史、さらにおよそ人間の不幸と罪悪のとの間にユダヤ人を見、人間の幸福と光栄とのあるところには必ずユダヤ人の追放を見いだす反セミ種族論者の世界史、これらはいずれもこの例である。
 もとより詩的歴史はこの愛と憎と(愛である憎の、また憎である愛の)というこの根本的なまた一般的な二音調に盡きるわけではない。それは最も複雑した形式と最も繊細な感情の差等のすべてを貫き移る。かくして、愛にみち、また憂鬱にふけり、憧れにみち、悲しみ嘆き、諦めの眼を閉じ、信頼にみち、喜ばしげな、その他およそ想像することのできるすべての種族の詩的歴史をわれわれをもつ。
ベネデト・クロォチェ「歴史の理論と歴史」